第10話 揺れる、重い?

「危ないっ」

 揺れの間、須美子はほぼ下を向いていた。だから、早川がどこをどう通って、この超短時間に真下まで駆け付けたのかは全く見ていない。

「しゃがんで!」

 机とその上の椅子を手で押さえながら、早川が叫ぶ。

 大きな声だから当然、耳に届いたけれども、須美子は立ったままバランスを取ろうとしている。急な地震に心が少々パニックを起こして、身体に命令が伝わらない。あとから解釈すれば、そんなところかもしれない。

「あ、だめ」

 上履きと違って、靴下だと滑る感触が強い。そう意識してしまったときには、もう一秒も耐えられなくなっていた。

 早川が椅子や机から手を離し、腕を広げた。須美子は一瞬遅れて、自分が彼の腕の上に前向きに倒れかかっていくのを自覚した。

 どさっ。

 重たい荷物を配達業者が扱うときのような音がして、折り重なって床に倒れる二人。

 そのあとも数秒間、揺れが続くも、徐々に弱くなっていき、ぴたりとやんだ。最後に椅子の脚が床をこするきしみ音が、きぃ、とした。

(あいたた……)

 左膝の辺りに軽い痛みを覚えた須美子は目をつむって顔をしかめつつ、声に出そうとしたが、何だかうまくいかない。口が動かせないというか、息苦しいというか。

(!)

 目を開けて、泡を食った。

 早川の顔がすぐ目の前にある。そこへ加えて、自分の唇が相手の唇に重なっていた。

「いや!」

 頭をのけぞらせて距離を作り、ようやく声を出せた須美子。だけど身体の方は離れられない。

 受け止めてくれたのはいいが、早川の腕がしっかりと須美子の身体を抱きしめている。身体と両腕をまとめて束ねられたみたいな格好だ。

「ちょ、ちょっと。早川君!」

 須美子が顔の近くで大声を張り上げるも、早川から反応は返って来ない。

「離して、よっ。もう地震、揺れてないんだからっ」

 伸びを何度か繰り返したり、腰を振ったりしてみたが、ほとんど動かない。足を床に付けられたら、多少は踏ん張りが利いて違ってくるのかもしれないのだけれど、あいにくと須美子の足は左右とも、早川の足の上に乗っかる形になっていた。

「早川君っ、ねえ。もしかして、意識を失ってる?」

 その質問は、寝ている人に寝ているかと聞くのと同じで、あまり意味がない。本当に意識を失っているのなら返事があるはずがないし、意識を失ったふりをしているだけならば嘘をつかれたらそれまでだ。

 今、文字通り目の前で横になっている早川は、本当に意識をなくしているように見えた。ちょっと視線をずらすと、彼の頭は他の机の下部にある横棒を枕にしている。首の辺りを強く打ち付けたのかもしれない。

(まずいわ。この態勢だけでもまずいけど、早川君、打ち所が悪い、なんてこと……)

 同級生男子の上で、じたばたする須美子。細身でも腕力ありそうだわと想像はしていたけれども、こんなにもがっちりとホールドされてしまうなんて、予想の遙か向こうを行く。

 もがいたおかげで、ほんの少し、身体を足の方向へとずらせた気がする。ただ、そちらの方向に動けても、須美子はたいしてなで肩ではないので、抱きしめ具合がゆるくなった実感はない。

(叫んで助けを求めたら、誰か来てくれるんだろうけど)

 またじたばたしながら考える。

(こんな姿を見られたら、何て噂されるか分からないっ)

 必死の気持ちが、ようやく努力の実を結び始める。お尻を少し持ち上げた、行進する尺取り虫めいた姿勢ではあるが、須美子の顔が早川の胸の辺りまで来た。あと少しで抜けそう。

「早川君。まだ起きない? 大丈夫?」

 目処が立つと心に若干の余裕ができて、改めて相手の名を呼んだ。反応はしかし、相変わらずない。

(もう。私が抜け出すしか)

 うーうー言いながら、できるだけ腰を浮かせようとした。そのとき、須美子の細めのあごが、早川のみぞおちに入った。

「――っぐ」

 早川が短く呻いた。痛みのためか、活を入れられたのと等しい状況なのか、ともかく早川は一気に意識を取り戻した。

 ぱちっという音が聞こえそうなほどはっきりと、目が見開かれる。須美子はその気配に気付いて、中途半端な腰上げ体勢のまま、目を頭の方向へやった。

 目が合った。

「……柏原さん……何をして……」

 その台詞とともに、彼の腕からは力が抜けていく。

 須美子は自らが急速に赤面するのを感じ取り、一言、「いやぁ!」と叫ぶと、早川の腕を振りほどくや、彼の身体の上から飛び退いた。そのまま両足を床に伸ばした姿勢で、机の一つを背もたれ代わりにして、ぐったりと座る。早川から離れることに集中するあまり、スカートを手で押さえるのをすっかり忘れていたが、そのことすら全然気にならない。とにかく恥ずかしさで、顔が熱い。

「あの、柏原さん――う、いて」

 一方、上半身を起こした早川だったが、首の後ろを押さえてしばし俯いた。

「そっか、地震だ」

 状況を思い出した早川は、須美子をまじまじと見てきた。無論それは彼女の身体を心配しての行為なのだけれども、今の須美子にはすぐには飲み込めない。

「な、なに。じろじろ見ないで」

「あ、いや、どこも怪我はしていない?」

「そ、それは、ぶつけた膝がちょっとだけ痛いけど、それだけ」

「よかった」

 ほっとしたつぶやきのあと、早川はまた横になった。目を瞑って首の後ろ、延髄の付近をゆっくりとさすり、もみながら、全身を反り返らせるような伸びをする。

「だ、大丈夫なの、あなたは」

 少し距離を戻し、斜め横から覗き込むようにして様子を窺う須美子。

「痛い」

 返答とともに早川が目を開けた。おかげで、また目と目が合う。須美子はつい先ほどのことを思い起こしてしまった。さらに遡り、自分と彼の唇同士が重なっていたことまで。

「!」


 つづく

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