第9話 揺れる思い
小声で独りごちた須美子。早川の態度がころころ変わった意味を考えようとするも、ちょうどそのとき前方から廊下を小走りに、寺沢がやってきた。
「須美ちゃん、探してたんだから~っ」
「お、おはよ」
朝の挨拶もそこそこに、寺沢は須美子の両手を握りしめてきた。
「宿題、どうしても分からないところがあってさあ」
「また? しょうがないなあ」
引っ張られるようにして教室に入っていく。
着席していた早川の様子は、いつもと何ら変わりがないように映った。
そのちょっとした事件が起きたのは、早川が転校してきてから一ヶ月ほどが経った頃だった。
日番に当たった須美子は、日番ノートにその日の出来事を簡潔に記し、もう一人の日番――男子の日番である早川に渡した。
五十音順に回ってくる男女それぞれの日番なので、普通に考えると「か行」の須美子と、「は行」の早川が同じ日に務めることは、なかなかない。けれどもその日は本来の日番である男子が夏風邪で欠席した。こんなときどうするのか通例に従えば、次の、つまり翌日の日番である男子を繰り上げるか、もしくは女子一人でこなすかのどちらかだが、明確な決まりはない。担任の村下先生が指示したのは、早川にさせるというもの。一学期に入って他の児童が皆、およそ二度ずつ日番をこなしているのに対し、転校してきた早川はまだない。ちょうどいい機会だから早めに経験させようという配慮?らしかった。
「前から気になってたんだけど」
手を止めて、持っていた鉛筆で天井の一方向を差し示す早川。須美子はそちらを見ようとはせずに、「早く書いてよ」と急かした。
「書こうと思ったこと、柏原さんが全部書いてる。それよりも、あの蛍光灯」
早川は今度は席を立って、問題の照明の下まで来て指差した。
教室の天井にはいくつか蛍光管が下がっているが、早川が気にしているのはその内の一つ、前から三分の一ほど、校庭に面した窓側の照明のようだ。
須美子はため息をついて、その蛍光灯の下に移動した。
「それがどうかしたの」
「管に輪ゴムみたいな物が乗っかっている」
「――確かに、あれは輪ゴムね。クリーム色をした大きめの」
言われて思い出した。五月の中頃、男子が何人かで輪ゴムを使って遊んでいた。途中で輪ゴムが消えたとか言って騒いでいたけれども、上向きに飛ばして、偶然にも蛍光管の上に引っ掛かったんだろう。一般的な輪ゴムよりも色が薄いためか、よほど注意しないと見付けづらそうだ。
「あのままにしておくと、ひょっとしたら熱でゴムが焼き付いたり、焦げて煙を出したりするかもしれない」
「危ないってこと?」
「絶対にそうなるとは言えないけど、取り除いた方がいいんじゃないかな」
「……今から取るつもり?」
「できれば」
まっすぐに見つめられて主張されると、「面倒だわ」とか「先生に任せようよ」とか言い出しにくい。
「高いんだけど。届かない」
「机の上に椅子を置いて、その椅子に立てば届きそうだよ」
「――やっぱり無理よ」
ぱっと見た目では、背伸びして手を伸ばしてもぎりぎり届きそうにない。
「それじゃ物差しでも持ってやってみよう」
早川は言うが早いか、先生の机まで行き、「これを借りて」と三十センチの半透明な定規を取って、戻って来た。
「待って待って。あなたがやると、ノートを書くのがますます遅くなる。私が代わりにやるから、早川君は書いて」
「だから書くことが――あっ、これからやることを書けばいいか。蛍光灯の輪ゴムを取り除きましたって」
明るい表情と明るい声で言う早川。
「はいはい、そうして」
物差しを受け取って、彼をノートの置いてある机の方へ追い払う仕種をした須美子。行きかけた早川だったが、ふと、心配げにつぶやく。
「椅子、乗せるの手伝おうか。ぐらぐらするようなら、下で押さえとくし」
「結構よ」
机の位置を少しずらして蛍光灯の真下になるようにし、その上に持ち上げた椅子を置く。「ほらね。手伝わなくていいから、早く書く」
「了解しました」
早川は短く敬礼してノートのところに戻った。
(やっと行ってくれた)
須美子はほっとしつつ、上履きを脱いで揃えて床に並べた。そのまま慎重を期して、机に右足を掛ける。続いて左足も。
(下に早川君がいたら、見えちゃうかもしれないから心配だったのよ)
この日の須美子はスカート姿。ある程度長い代物だが、もし下で椅子を押さえておくなんてことになっていたら、下着が見える可能性はあった。紺パン未着用だから、なおのこと気を付けないと。
(よし、と)
椅子の上に両足で立つと、思っていたほど不安定ではない。もちろん、動けばちょっとは揺れて椅子の脚が机の表面を叩き、かたかたと音が鳴るけれども、危ないというほどではない。須美子は安心して、蛍光管の輪ゴムに狙いを付けて、物差しをゆっくりと持って行く。
ほどなくして、輪ゴムに物差しの端っこが触れる。ゴムは蛍光管にやや張り付いた感じになっていて、触れた程度では落とせなかった。
「――早川君。万が一失敗したら、言い出しっぺとして責任を取ってくれる?」
「え、失敗って?」
ノートから面を起こした早川。困惑げに口をすぼめている。
「だからたとえば物差しの角が当たって、蛍光管が割れた、とか」
「はは。その体勢なら割ろうと思って強く当てたとしたって、まず割れないよ。力がそんなに入んないでしょ」
「それはそうなんだけど。あ、取れた」
物差しの先端で、ゴムがくるくるっと丸まったかと思うと、そのまま蛍光管から離れて床に落ちた。呆気ない。
須美子はその姿勢のまま、輪ゴムがどこに落ちたのかを見定めようと下を向いた。その刹那――。
「――えっ、あっ、きゃあっ!」
じわりと軽めの揺れが横方向に来たかと思った次の瞬間、縦揺れが襲ってきた。
地震発生。
つづく
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