第8話 灯台もと暗し

 早川を改めて見る須美子。その早川はホールドアップの格好をして、「こういうことだから、許してくれよー」と謝っている。

 須美子はこの状況に乗っかることに決めた。

「そうよ。私が悲鳴を上げたのは元はといえば、新倉君と委員長、二人の責任なんだからね」

 強い調子で言うと、新倉と渡会はますますしゅんとなった。

「喧嘩なんてやめて、新倉君達はぞうきん投げもやめて、真面目に掃除する。これで決まり。いいわね?」

「ちぇっ。しょうがねえ」

 新倉がそのままぞうきんを拾いに行こうとするのを、須美子は見とがめた。

「ちょっと、新倉クン。あんたにはもう一つ、忘れちゃならないことがあるでしょ」

「あん?」

 しゃがみ掛けた姿勢のまま一時停止し、振り返る新倉。

「喧嘩になりかけた原因は、あんた達のぞうきん投げにあるわ。渡会君にも投げた」

「い、委員長には投げてねーよ」

 渡会の方にも視線を向けつつ、抗弁する新倉。須美子は首を左右にゆっくりと振った。

「足下に投げた、でしょ? 少なくとも水しぶきが跳ねて掛かったんじゃないかしら。ねえ、委員長?」

「まあ、ちょびっとは」

 渡会も心得たもので、靴下の汚れを払う格好をする。

「~っ」

 新倉は言い返したいが何も言えない、という体で唇をかみしめる。が、ほどなくしてあきらめた風に、鼻で大きく息をついた。

「分かったよ。悪かった、委員長。ごめん、謝る、許してください」

 頭を下げた新倉に、渡会はすぐに声を掛けた。

「もういいよ。謝罪の言葉もあまりにも重ねられると、逆に嘘っぽくなる。それに……こっちも感情的になって反省している。――さあ、さっさと済ませて、早く帰ろうぜ」

 なかなか満足の行く仲裁となった。

 須美子は少し気分をよくしていたが、それ以上に確かめたいこともできていた。

 その機会を得るには、翌日になるまで待つ必要があった。


「直美ちゃんが来る前じゃないと、二人きりで話しづらいから」

 翌日の朝、須美子は教室に入るなり、まず寺沢がまだ来ていないことを目で確認し、それから早川が来ていることを確認。すぐさま、彼を誘って、特別教室の集まる棟まで一緒に行った。

「直美ちゃんて、寺沢さんのこと? 何で」

 しんとして、夏が近いというのにまだひんやりとした空気の残る廊下には今、早川と須美子の二人だけがいる。

「いいから。手短に聞くから手短に、正直に答えてよね」

 これから先は他の人に聞かれたくない気持ちがある、なので、辺りをじろっと見渡して再確認した後に、改めて口を開く。

「昨日の掃除のときのことだけど」

「あー、ごめん。何度でも謝る」

「ちょっと。手短にとは言ったけれど、そういうことじゃないわ」

 須美子がストップを掛けると、早川は目をぱちくりさせた。

「違うんだ? てっきり、君のお尻にぶつかったことかとばかり」

「いいから黙って聞きなさいって」

 恥ずかしさがぶり返さない内にと、早口になった。

「ぶつかったの、わざとでしょ?」

「それは――」

「喧嘩を止めるために、新倉と委員長の気をそらそうとして、私に悲鳴を上げさせた。違う?」

「――違わない」

 ごく短い間こそあったが、早川はすんなり認めた。照れたように鼻の辺りを赤らめ、かと思うと、横を向いてしまった。

「まさか見破られるとは。参りました。鋭いんだね、脱帽するよ」

 本当に帽子を脱ぐ動作をして見せた早川。格好付けちゃってと内心、苦笑しながら須美子は答えた。

「わ、私のことはいいの。そっちこそ、よくもまあとっさに思い付いて、実行できたわねー」

「それはまあ、僕も早いとこ帰りたかったし。でも腕っ節には自信がないから」

 そう答える早川だったけれども、須美子が見るところ、彼の身体は結構鍛えられていて、腕には筋肉も付いている。運動神経のよさと合わせると、決して弱くはないだろうという印象を受けていた。

 そんなところを全く表に出さず、穏やかな手段で喧嘩を止めに入った早川は、精神的にとても強い人間のかもしれない。須美子は何となく感じ取っていた。

「さ、これで話はおしまい! 戻りましょ」

 来たルートを引き返そうと身体の向きを換える須美子。その耳に背後から早川の「えっ」という声が届く。多分、須美子が初めて聞く、早川が心底驚いた調子の声だった。

「な、何?」

「その、説明があるのものと待ってたから。それが、もう行っちゃうんだと思って」

「説明って、いったい何の話よ」

「寺沢さんがいないときじゃないと話しにくいって言っただろ。その理由」

 細かい点に食い付くなあ。須美子は余計な一言を付け加えて誘ったことを少々後悔した。

「何でもないのよ」

「ほんとに? たとえば、寺沢さんが渡会君か新倉君のどちらかに肩入れしていて、それなのに僕が悪知恵を働かせて喧嘩を収めた、みたいなことを知られたら、肩入れしている男子に恥をかかせた、ひどいっ!となるのかと想像してみたんだけど」

「――ぷ」

 いけないと思いつつ、吹き出してしまった。

(早川君てば、昨日はとっさにあんな方法を思い付くのに、こういうことは見当外れというか、鈍いといういうか)

 笑いをこらえられるまでちょっぴり時間を取り、やがて須美子は口を開いた。

「あのね。決してそういうことではないから。安心して。あと、この話はみんなには内緒よ」

「まあしょうがない。密かに丸く収めたんだから、最後まで秘密にしておくよ」

 物分かりのいい人は嫌いじゃない。須美子は歩みを止めて、早川が横に並ぶのを待った。

「ど、どうしたのさ」

「早川君に我慢させるのは申し訳ないなー、なんてね。その穴埋めっていうのかな、私が答えられることなら質問に答えてあげようかと思って。転校してまだまだ日にちが経ってないんだから、何かあるでしょ、学校のことで」

「……そんな貴重な権利を行使してまで知りたい、学校に関することなんてないよ。第一、学校について分からないことなら、先生に聞けば済む」

「あ、それもそうね。じゃあ……」

 須美子はしばらく沈思黙考した。おかげで今度は早川の方が先を行く形になる。

「もうじき、教室に着いちゃうけど」

 その早川の声で、須美子は決めた。

「気になる女子はいる?」

「ふぇ?」

「何て声を出してるの。気になる女子はいるかって。いるのなら、その子が誰に気があるのかをそれとなく探ってきてあげるわ」

「……」

「早川君? おーい?」

 押し黙った彼の目の前で、ちょっと手を振った須美子。約三秒遅れで反応があった。

「今はいないから、また今度だね」

 快活そのものの笑みを顔いっぱいにのせて早川は答えると、須美子からついっ、と離れて教室に入っていく。

「? 変なの」


 つづく

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