第7話 前方不注意

 十字星の男の子、もしくは十字星の子と呼ぶのは、須美子を元気づけるために、“彼”が持たせてくれたはくちょう座のバッジに由来する。会場の土産物コーナーで売られていた物で、「これを十字架だと思ってお祈りして。きっとすぐにお父さんお母さんと会えるよ」と渡されたのだ。そうしたら本当に両親とすぐに合流できた。

 驚き、感心することしきりだった須美子に、“彼”はそのバッジをプレゼントしてくれた。ほしいと思っていた反面、悪いからと断ろうとしたのだけれども、“彼”は「いいんだ。お守りのつもりで持っていて」と言い残し、走り去ってしまった。

 以来、須美子はバッジをお守り代わりにして、持ち歩くようになった。ただ、最初に十字架と言われたためか、しばらくの間、南十字星だと思い込んでいたけれども。

(白鳥の子よりは、十字星の子の方がいいよね)

 自分の勘違いを思い出して、何となくにやついてしまう。

 と、そこへ吉井の声が。

「――聞いてる?」

「え、あ、ごめん」

「またなんかぼーっと空想していたな?」

「ま、まあね。理想の男の子について、なんちゃって」

 冗談めかして応じながら、須美子は空いている方の手をポケットに当てた。

 そこには、フェルト生地で作った小さな袋に入れた、バッジの感触が確かにあった。

(話したら笑われるかなあ……)

 先だっての修学旅行の際、泊まったホテルで夜、話題が恋バナになったことがあったけれども、須美子は言わないでいた。六年生にもなってこんな話をしたら笑われるかもというのも理由の一つだが、それよりもずっと大きな理由は、これがとっておきの大事な思い出だから。

「これまでクラスの誰それクンが好きなんて言うことのなかった須美子が、そんな理想の男子について考えるなんて、やっぱ、転校生の存在が影響してるんじゃないんかいな」

「そんなことない、と思うけど」

 吉井のこの手のいじりは定期的にあるのだが、いつもは笑って否定していた。好きな男子はいない、お父さんが一番いい、みたいな返事ではぐらかして。

 でも今回の否定は、笑い声が混じらずに、かといって真剣に否定したのでもなし。むしろ反対に、躊躇する気持ちが生まれていたのかもしれない。

 そんな須美子の気持ちを電話回戦を通して感じ取ったのかどうか、吉井は声のトーンを上げて、再度言った。

「須美子も念のため、直美に言っときなよ。全面協力は無理だって」

「うーん、どうしよう。一度約束したことだしね」

「ほら。そこでそんだけ迷うってことはよ、何分の一かでも好きになるかもっていう気持ち、予感があるってことなんじゃない?」

「分析、どーも。そうね、考えとく」

 この話題は早めに切り上げた。吉井の指摘は図星のような、違うような。ただ確実に言えるのは、このままこの話題で話し続けると、十字星の子の思い出が薄まってしまいそう。そうなるのが嫌だったから、切り上げたのだ。


 それから一週間ほどで、転校生の早川は学校にクラスにと急速に馴染んでいった。その間、小さなエピソードがいくつかあった。

 たとえば、掃除の時間。先生の目を盗んでぞうきん投げを始めた新倉達に、委員長の渡会が注意したのだけれども聞きやしない。それどころか、渡会の足下めがけて、濡れぞうきんを放る始末。これには普段温厚な渡会もむかっときた。元々身体が大きく、力持ちの渡会だから、平均より少し大きい程度の新倉と胸をつき合わせると、見下ろす感じになる。新倉はでも負けん気が強く、実際けんかっ早いところがあるため、引き下がらない。下からにらみつける。

 周りが「やめとけって」とか「やるんなら外に出て」とか「先生呼んできて!」となる中、床のぞうきん掛けをしていた須美子は端まで拭き終わって、さてどうしようかとため息をついた。

(副委員長のさかきさんはゴミ捨てに行ったみたいだし、他に二人を止められそうなのは)

 考えつつ、片膝立ちから姿勢を直そうと腰を浮かした瞬間、後ろからお尻の辺りにゆるい衝撃をもらった。

「きゃ!」

 バランスを崩して倒れると同時に、悲鳴が勝手に出た。

「ごめん。喧嘩に気を取られてよそ見していたらぶつかった」

 何だかとっても説明っぽい台詞で謝ってきたのは、早川だった。彼もぞうきんの当番で、席順のまま、須美子の後ろに着いて、拭いていたのだが、まさかぶつかるとは。

「よ、よく見てなさいよ!」

 たいしたダメージではなかったのに須美子が声を大にしたのは、お尻を触られたと思ったから。多分、手ではなく、頭が軽くぶつかったんだろう。そうと理解していても、スルーするには恥ずかしさが許さない。

「ごめんな。新倉だけならまだしも、あの穏やかな委員長が怒るとこが珍しくて」

 と、二人のいる方へ目線を振る早川。

 すると新倉がいない。いや、こちらに向かって、飛ぶような勢いで駆け付けていた。

「早川、おまえ~、何をした?」

「えっと。そんなに興奮することじゃあないと思うんだけど」

 詰め寄る新倉に、早川は両手の平を広げガードのポーズを取り、機先を制しようとしている。勢いがひとまず止まった新倉は須美子の方を指差して、「悲鳴が聞こえたぞっ」と声を荒げる。

「おまえの判断なんて聞いてねえ。柏原に何かしたんだろ。滅多に悲鳴を上げない柏原が叫ぶんだから、相当なことに決まっている。さあっ、吐け」

 これに早川が返事するよりも先に、渡会までやって来た。新倉に何か一言あるのかと思いきや、「何があった。見てなかったから、一から説明してもらおう」と仁王立ちして、早川を見下ろす。委員長まで、矛先を変えてきた。

(な、なんなのこれ)

 おかしな成り行きに、半分当事者の須美子は困惑しつつも、その場を離れられないでいる。

 と、早川が振り向いてきた。

「柏原さん。僕に悪気はなかったと証言してくれる? 僕は新倉君と渡会君が喧嘩を始めたのにびっくりして、よそ見していたせいで、君にぶつかってしまっただけだって」

「え、ええ。まあ、それはその通りなんだろうけど」

 須美子は肯定しながら、渡会と新倉の顔に、気まずそうな色が浮かぶのが分かった。

(――もしかして、こいつ――)


 つづく

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