第41話 殺生石 其之八

 お堂の扉をゆっくりと横に開くと、中が少しずつ見えてきた。


 窓のない建物なので、相変わらず中は暗かった。しかし、太陽とは有難いもので、その暗い部屋を照らしてくれた。

 奥にはあの祭壇が薄らと見える。真っ白になった御神体の岩が、今でも祭壇に乗っているのは確認できた。

 お堂の中はと言えば、床に私の血の跡が数箇所あるくらいで、特に何かがあったような跡はなかった。ただ、こうして見ると床の血痕は思った以上に大きく、あの時はかなりの怪我をしていたのだなと思う。


 源翁は、ゆっくりと中へ踏み込んだ。


 床がミシッと鳴り、外の音が静かになっていく。自分が何か違う空間にいるような気分になる。

 気を身体に張り巡らせ、数歩進んだところで一旦立ち止まる。私は慎重に中の様子を伺った。九尾の狐の気は、相変わらず平坦なままで変化はない。これだけ心が動かないのは、こちらに気づいていないか、未だ反撃ができるような状態ではないということだ。

 目が闇に慣れ、源翁は、祭壇が見えるようになった。

 白い殺生石は、黒い気を吐きながら佇んでいる。あの時創った結界は、未だに九尾の狐を包み込んで外界との接点を完全に無くしていた。

 これなら儀式ができると判断した私は一旦お堂を出ると、先ほど台に用意した灯火を二つ持って再びお堂の中に入った。

 両手に灯火を持ち、真言を唱えながら祭壇の前まで禹歩で進む。

 外の音が余り入ってこない建物なので、床の軋む音がやたらと大きく聞こえた。中程では、血と木の匂いが混ざって鼻に入ってきた。九尾の狐と対峙していた時は、たったこれだけのことすら私には認識できなかった。それだけこの場所が九尾の狐に支配されていたという事だろう。

 禹歩を使ったので少し時間がかかったが、私は祭壇の前へと進んだ。


 いよいよかと、緊張で全身に汗が滲む。

 

 対峙した御神体の岩からは、弾き飛ばされそうな強い霊気を感じる。この気は言葉では形容しにくいが、あえて言えば、巨大過ぎて上の見えない山が目の前を塞いでいる感じだろうか。封印されて尚この力。よくこれに耐えて戦ったものだと自分で不思議になる。

 そして驚くべきは、これだけ巨大な気を持つ九尾の狐が、簡易と言っていい私の封印を突き破ることができない事実だ。これは、九尾の狐が精神的に深い傷を負ったからに他ならない。精神的な傷は、回復に相当の時間を要し、一朝一夕に治ることはない。


 源翁は、殺生石と向き合った。


 九尾の狐の気に変化はない。であれば、あとは粛々と儀式へと移るだけだ。

 その儀式に入る為、私はゆっくりと祭壇の両端に灯火を二つ置いた。お堂の中がはっきりと見え、ゆらゆらと揺れる赤い炎がほんのりと白い殺生石を照らす。白と赤が混ざり、殺生石に不気味な影ができた。

 影は何か顔のようにも見えた。真っ赤な目をした九尾の狐の影を思い出す。

 しかし、そんなことを気にはしていられない。それよりも数段恐ろしいものが目の前に広がっていたのだ。


 この結界は酷い出来で、どう贔屓目に見ても一年保つかどうかという結界だった。


 あの時、お堂の中が真っ暗だった上、岩が毒を吐き出したこともあり、私はほとんど何も見えていなかった。そんな状態で創った結界は当然不完全なもので、祭壇の注連縄はかなり乱雑に巻き付いていたし、お札も微妙な位置に貼られていた。

 良くもまあ、ここまで九尾の狐を封じてくれていたと言うべきものだ。


 それでも今の今まで結界として機能してくれたのだから問題ない。ここで新しい結界に切り替わるからだ。


 私は、気を取り直して、殺生石と呼ばれるに至った御神体をじっくりと見た。

 岩は、真っ白になってしまっているものの、この山の御神体とするにふさわしい立派な岩だと思う。

 若干縦に長く、実際の山のような形をしており、上に向かって綺麗な弧を描き、先端付近は緩く尖っている。にも関わらず表面は滑らかさがあり、それほどゴツゴツしておらず、それが返ってこの岩を山のように見せている。

 このお堂を造った修験の海燕が、修行の守り神としてこの山の依代に選んだだけの事はあり、非常に立派な出立で神々しく、これが殺生石と呼ばれるのは、どうしても抵抗を感じる。

 それもこれも未熟な私のせいだ。

 私のどうしようもない勘違いからくる大失態で、この立派な岩に九尾の狐の白い魂を封印してしまった事を、今更ながら悔やんだ。


 だから、これが最後だ。

 

 源翁は、この立派な岩をしかと目に焼き付けた。そして、この御神体を見つけた海燕に顔向けできるよう、殺生石と化したこの岩に神経を集中させた。

 どれだけ探っても、相も変わらず殺生石から感じる九尾の狐の気の波動には変化がない。

 ならばと腹を決め、殺生石を輿に乗せるための作業に移る事にした。

 殺生石をお堂から出すには、殺生石に施された結界を今一度強く施し直し、完全に毒素が外に出ないようにした上で輿に乗せ、輿その物にも結界を張らなければならない。

 私は新たに創られたお札を、祭壇の四隅に貼られた札の上に重ねた。更なる清めの力が加わり、九尾の狐の邪気がぐっと下がったのが分かる。

 ここからは速さの勝負だ。

 九尾の狐が危険を感じることで、毒素を吹き出させないようにしなければならない。

 源翁は、前回巻いた注連縄を外しながら、同時に新たな注連縄を殺生石に巻いていった。突然結界が強くなった事で、封印された九尾の狐も私がここにいる事に気付いたようだ。

 予想通り、私に抵抗するかのように岩から一気に毒素が噴出した。

 毒素と共に九尾の狐の邪念も感じられた。おりんの言うように、若干ではあるが九尾の狐の意識は戻っているようだ。

 しかし、こちらも万全を期すため何度も練習を重ねてきた。その成果が出て、私は新たな注連縄をもう岩に巻きつけていた。この新しい注連縄の効果は抜群で、一瞬跳ね上がった九尾の狐の力が、急激に衰えていくのが分かった。

 ここだとばかりに、私は殺生石の毒素が出てくる部分に新たなお札を貼った。折角の抵抗の機会を失いたくないとばかりに、殺生石はしばらくは毒素を出していたが、やがて毒素は完全に出なくなった。

 九尾の狐は、唯一の反撃の機会を逃したことを悔しがっているはずだ。

 反面、この作業をちまちまやっていたら、私は確実に毒素の餌食になっていた。おりんが九尾の狐の話を聞いたと教えてくれたおかげで、より素早く処理する事ができたとも言える。

 最後に殺生石の四方、底と天辺に杵築大社のお札を貼った。これでこのお札を剥がさない限り、いかに九尾の狐をいえど封印は解くことは不可能だ。


 何とかなったと胸を撫で下ろすと同時に、私はふらっとした。極度の緊張で貧血を起こしたのかもしれない。


 私は気を保つ為、大きく息を吸い込んだ。そして、ドッと出てきた額の汗を手拭いで拭うと、大きな声で「焉斎。ここに!」と外に呼びかけた。

 すぐに焉斎が駆け足でお堂の中に入ってきた。

 焉斎は、緊張の面持ちで私と殺生石を見たが、封印の強化に成功したのだと分かり、少し安堵の表情を見せた。

「それでは、これを輿に乗せる作業に移ります。小三郎さんにお願いして輿をここへ運び入れてください」

「はい。承知しました」

 焉斎は笑顔で外へ走って出ると、人夫達に輿をお堂の中に運ぶよう要請した。

 外で歓声が上がった。小三郎たちも安心したことであろう。

「よいせ!よいせ!」

 外から威勢のいい声がお堂の中へと入ってきた。

 輿が入って来るのを見たかったが、何かあってはいけないので、私は殺生石から目を離さず、真言を唱えながら細かく悪霊祓いの印を切った。

 私の後ろに輿が置かれると同時に、四人の弟子たちが一斉に走ってお堂の中へと入って来た。

 弟子達はそれぞれ、素早く祭壇の四隅に陣取ると、私と同じ真言を唱えて印を切り始めた。こうなれば、九尾の狐に奥の手があったとしても、今この場で出るのはますます不可能だ。


 小三郎を先頭に、四人の人夫達が殺生石を取り囲んだ。


 私は、彼らの準備の邪魔にならないように一歩後ろに下がった。そして、最後にと殺生石の全体を見渡した。お札と注連縄で完全に封じていると断然できた。

「では、殺生石を輿に乗せてください」

 私がそう言うと、小三郎が頷き、三人の人夫に声をかけた。

「同時に上げるぞ」

「うっす!!」

「せいの!!」

 と小三郎が言うと、全員がよいしょっ〜!!と声を出し、殺生石を持ち上げた。

 力自慢の四人が持ち上げたというのに、一斉に皆の顔が歪んだ。どうやら岩は考えられないほどずっしりと重いらしく、人夫たちの手が小刻みに震えていた。

 しかし、意地でも落とさんとばかりに小三郎が「行くぞ!!」と叫ぶと、殺生石は輿に向かって進み始めた。

 小三郎たちは、落とさないようにゆっくりと皆で足を揃え、殺生石を運んだ。やがて殺生石は輿の上へと運ばれた。小三郎たちは、しっかりとズレのないように殺生石を輿へと乗せた。

 小三郎たちは、顔を真っ赤にして荒い息を整えた。肩からは湯気が上がっている。

 恐らく九尾の狐による最後の嫌がらせだ。輿には特殊な結界が施してあるので、更に力が削ぎ落とされる。こうなれば殺生石も元の重さに戻らざるを得ない。

「小三郎どの。ありがとうございました。私たちは更に輿にも封印を施しますので、しばし外でお待ちください」

「分かりました。おい、出るぞ!!」

 小三郎たちは、充実の顔でお堂から出ていった。

「では、細かい作業に移ります。皆さんは輿の四隅で悪魔祓いの経を唱えていてください」

「承知しました」

 四人の弟子は同時にそう言った。

 まずは、特製の紐を輿に作られた四隅の穴から通し、襷掛けにして岩を輿に固定した。これで傾いても殺生石が輿から落ちる事はまずない。その上で、念には念を入れてその紐と輿の四隅にもお札を貼った。

 殺生石を固定すると同時に、九尾の狐の力を更に抑え込むのだ。

「では屋型を!」

 私がそう言うと、外待機の人夫達がようやく出番が来たとばかりにお堂に屋型を運んできてくれた。

 この屋型が輿に嵌められると、殺生石はもう目的地まで見ることはできない。人夫達が屋形を輿に固定したので、私はその屋形の四隅にもお札を貼った。

 これで殺生石を運べるようになったはずだ。

 私は感慨に耽るのを封印し、弟子と一緒にお堂から外に出た。

 気持ち良い風が全身を包み、ああ、私は生きているのだなと心から感じられた。

「よっせ!よっせ!」 

 小三郎たちが、輿をお堂から出してくれた。もう重さは元に戻っているようだ。そのまま輿を中庭の茣蓙の上に乗せると、私たちは一旦休憩を取ることにした。


 その前に、皆を労わねばならない。


「皆様、本当に素晴らしい作業をしてくださいまして、心から感謝申し上げます。

 これで殺生石を運ぶ事ができるようになりました。ただ、那須まではまだまだ遠い道のりです。これからも厳しい旅が待っていますが、どうぞよろしくお願いいたします」

 私は皆に深々と頭を下げた。

 すると「任せてくれ」と小三郎がボソッと言う。人夫たちも腕を組んでそれに頷いていた。本当に全員が頼もしい人達であると思う。

 休憩をしていると、おかわりの水を持った五平が私の横にやってきた。

「源翁さま。ありがとうございました」

 五平はそう言いながら、水を私の竹筒に入れてくれた。

「いやいや、集落の方々にもかなりの迷惑をかけてしまいました。礼はこちらが言わねばなりません」

「そんな、勿体無い。で、私たちも色々考えまして、この山の守りとしてあのお堂を守っていこうとなりました。御神体を新たに祀って、皆で管理していくつもりです」

「それはいいことです。やはり山に感謝するには、その山の依代に感謝するのが筋です」

「ありがとうございます。今、皆で御神体にふさわしい岩を探しています」

「あなたたちならきっといい岩を見つけられます。見つけた岩には、海燕岩と名付けてあげれば、彼も安心して黄泉の国へと旅立てるでしょう」

「海燕岩ですか。確かにそれがいいと思います。後でおじいにそう伝えます」

「よろしくお願いします。——時に、五平どの。おりんさんについて話したいことがあります」

「おりんですか?」

 五平の顔が曇り、緊張が走った。

「妹さんは良くも悪くも何か霊的な力を九尾の狐から授かりました。彼女の話から察するに、現在、彼女は普通の人間より遥かに強い霊的感覚を宿しています。ただ、それを持っているからと言って生活に不都合が出ることはないでしょう。

 ですが、それが故に彼女は遠い将来の備えのために必要な人材になったかもしれません。

 九尾の狐に関しては、今後様々な議論が交わされるでしょう。その時におりんの力が必要になることもあると思います。五平どの。そんな話が来た時は、おりんを支えてあげてください。私も様々に協力します」

 おりんにそんな力があることに五平は驚き、混乱した。

 それでも五平は思った。自分がおりんに対してできる事は少ない。しかし、源翁がおりんのために力を貸してくれるのなら最大限協力しようと、そう心に決めた。

「源翁さま。おりんを守るのは私の仕事です。何かあった場合はもちろんおりんを支えます」

「そう言ってもらえるとありがたいです。では、少し休みましょう」

「はい」

 源翁は源翁で、水で喉を潤しながらおりんの事を考えた。

 五平とおじいには、機会を設けておりんについてもう少し説明する必要がある。それをどう説明するのかは難しい。おりんは日本にとって極めて貴重な人材となった。ただ、あの集落になくてはならない人間でもある。これは天秤に掛けられる話ではない。

 答えの出ない問答はさておいて、今は殺生石に集中すべきだろう。この話は九尾の狐を確実に祓ってからの話だ。

 間も無く出発だ。私は最後にと思い、お堂を見た。

 殺生石が運び出された今、お堂は、先ほどまで禍々しい黒い気が支配していた場所とは思えない静謐な場へと変貌していた。もう一つ気づいたがある。喉を痛めるほどの重々しい霊気が多少減退しているのだ。

 私は、霊気を肺一杯にに吸い込んでみた。

 心が落ち着ちつくのを感じると同時に、全てを包み込んでくれるような何かを感じた。なるほど、本来、ここの霊気は神域に感じるような空気感があったのだ。海燕が何故お堂の中に賀毘礼山の依代を置いたのか、ようやく私にも理解できた。

 ここは神奈備と呼ぶに相応しい場所なのだ。であれば、あの集落の人々がここに置くという新たな依代は、この地の守り神として必ずや働いてくれる事だろう。


 休憩を終え、私たちは山を降りる事となった。


 輿に殺生石が乗った事により、運搬は更に困難を極めた。

 人夫たちは、なるべく衝撃を少なくし、輿を傾けないように運んでくれている。

 山は上りよりも下りの方が辛い。下りの方が膝にくるからだ。殺生石を乗せ重くなっている輿を運ぶのは、言わずもがな厳しい行軍になる。

 人夫たちの殺生石の運搬は、並みのキツさではないようだ。お堂を出発してからまだ間もないが、ほとんど代わる代わると言っていいいくらい頻繁に運び手を入れ替えている。そうなると休憩も多く取らなくてはならない。人夫の肩を壊す訳にはいかないからだ。


 こうして私たちは山中の集落まで戻るのに三日を要した。


 これを那須まで運ぶのだから気の遠くなるような時間がかかるのは間違いない。それでも、誰一人として目は死んでいない。それは、この殺生石を那須まで運ぶ事で、日本が救われるからだ。皆がその責任を充分に感じているのだ。

 ここからはしばらく民家がないので、おじいにお願いして、私たちは二日間この集落で休ませてもらった。これで少しは人夫たちの肩を癒せることだろう。

 ただ、肩を休めるだけでなく、照海が学んだという鍼治療と指圧も行った。そのお陰で人夫達の肩も少し持ち直したようだ。集落にいる間、照海はずっと人夫たちの肩を治療していた。彼の薬の知識と医術には、非常に助けられる。


 明日出発するという段階になって、私はおりんと少し話しを持つ事にした。全て終わってからとも思ったが、いくつか確認しておきたいこともあったからだ。


 私は、五平の家へと向かった。窓から煙が出ているので、おりんも五平もいることだろう。扉を叩くと元気よく五平が出てきた。

「あ、源翁さま。どうかしましたか?」

「五平どの。妹さんと話しをしたいのですが、良いですかな?」

「はい。もちろんです。おりん、ちょっとこっちへ。源翁さまからお話があるそうだよ」

「はーい」

 家の中からおりんの元気な声が聞こえた。

「五平どの。せめてもの御礼に、妹さんにちょっとした結界を教えます。今の妹さんならすぐに覚えますよ」

「そうですか。じゃ、おりん頑張って覚えるんだよ」

「うん!!」

 おりんが外に出てきたので、私はこの集落の外れまでおりんと一緒に歩いた。

 以前来た時に簡単に施した獣除けの木彫り人形を見つけると、おりんにそれを指差した。

「それは私が作った獣の人形です。形は自分が獣の姿をしていると思える姿であれば何でも構いません。私は、この人形を使ってこの集落に結界を張っています。

 ここに怪異が出る事はまずないと思いますが、それでも獣は出ます。ですので、おりんさんには、この獣除けの結界の張り方を覚えてもらいます」

「はい。でも…覚えられるかなあ?」

「大丈夫です。それほど難しい結界じゃありませんよ」

「他の人も使えるのですか?」

「うーん、そうですね。それは少し難しいでしょうね。でもおりんさんは気を感じることができますので、きっとすぐに覚えられます」

 おりんは不安そうな顔をしたが、頑張りますとばかりに頷いた。

 私は、おりんに結界の基礎と獣の嫌がる術式を簡単に教えた。すると、おりんは恐ろしいほどの吸収力でその方式を覚えてくれた。普通であれば、修行に入って十年はかかるような事をこれだけすぐにできるのは驚くばかりだ。やはり、おりんは特別な存在になったのだと確信した。

「では、今覚えた獣の嫌がる術式をその人形に注入してください」

「はい!!」

 おりんは人形に自らの丹田に作った気を注入した。人形にはおりんの獣除けの術式が宿った。しかもかなり強めに注入できており、これならば、弱い怪異も入ってこれないだろう。

「お見事。結界が弱まってきたら、今のように気を注入してやってください」

「はい。分かりました。意外と簡単にできてよかったです」

 にっこりと笑うおりんは、そこいらの娘と変わらない。しかし、この域の結界をこれほどまで簡単に操れる才能は、凡百の娘には当てはまらない。九尾の狐が目を付けただけの事はある。

「この人形は集落の四隅に仕掛けています。一週間ごとに四箇所の人形に気を入れておけば獣の被害はまず受けません」

「分かりました!!」

 元気よく返事をするおりんを見て、源翁はこれ以上の話をするのをやめた。

 おりんについては、有重を通して慎重に話を運ぶ必要がある。おりんが表舞台に上がるような事になれば、この集落にも迷惑がかかるし、おりんも普通の生活には戻れないだろう。何か動きがあるまでは静かにしておくことが一番だと思えた。

 五平の家に戻る途中、広場に差し掛かると、おりんが輿を指差した。

「そういえば、あの輿の中で九尾の狐がブツブツ何か言っているよ」

 いきなり九尾の狐の話になったので、私は焦った。しかし、話をぶつ切りにする訳にもいかない。

「ほう。何と言っているのか分かりますか?」

「うーん…何だろ、雑音が多くて言葉がよくわからないけど、何か文句を言っているのは分かるよ」

「なるほど。私たちの結界が強すぎて言葉までは分からないのですね。しかし、感情は分かると」

「うん。何だか怒っているよ」

 おりんは愛らしい顔で、わざと怒った顔をするとベロを出した。

「まあ、そうでしょうね」

 あれだけ強く封印されれば、それは九尾の狐でなくとも怒るところではある。しかも、純粋な悪の塊であるから怒髪天を衝いているのは間違いない。

「おりんさんは、怖くないのですか?」

「うん。九尾の狐が私の中にいたときは、良い狐さんもいて遊んでくれたよ」

「そうですか。それはよかったですね」

 あの狐の石像に封じた狐は、ある意味で悪の九尾の狐を抑える役割をしていたのかもしれない。白と黒の二元論に持っていったやり方の良し悪しについても再考の必要がありそうだ。

「その文句も今日までです。明日には運び出しますからね」

「ちょっと残念。でも、悪いことしているなら仕方ないよね。でも良い狐さんにはまた会いたかったなあ」

「そのうち会えますよ。それよりも結界の張り方を忘れないでくださいね」

「うん。それは大丈夫!!」

 そう言うとおりんは風のように家へと走って行ってしまった。

 あれだけの事をされて尚、良い狐には会いたいか…まだ子供だからそう思うのか、耐性ができてしまっているのかは判断がつきかねる所だ。

 私は困ったものだと頭をかきながら、夕飯の用意で忙しくしている弟子と集落の女性たちを見た。

 ここでの最後の食事となるので、皆がいいものを作ろうと一生懸命だ。こんな世界を無くしたくはないと、私はこの先の事を考えた。


 前にも考えたが、未来の世界を安全にするにはどうしたら良いのだろうか?


 九尾の狐を退治した実績のある陰陽寮も今では没落し、二百年前では考えられないほど力を失ってしまった。怪異を退治する力はすでになく、殆ど占いと天文の機関になってしまっている。これから先、彼らは更に力が削がれていく公算が大きい。何故なら、巨大な怪異が現れなくなって久しく、朝廷は、呪術や霊力というものにもう頼らなくても良いと考えている節があるからだ。

 こんな状態では、この先の危機には対応できない。

 そして、実際に危機が訪れた時、この島国に住む人間は九尾の狐によって根絶されるだろう。

 では、どうすれば良いのか?私は以前、それを防ぐためのの組織を作ろうと考えた。その事を、ずっと考え続けているが、まだ完全な形となって頭の中に思い描けないでいる。

 どのような組織をつくれば、怪異に対応できるのか?これは非常に難しい。

 自分にできることは限られているが、私は仏僧として全ての命を守る義務がある。それは今の時代だけでなく、全ての時代に適応される義務だ。

 私はじっと手を見て、大きく息をした。強靭な組織を作らなくてはならない。


 次の日、私たちは出発の準備を終え、集落の広場に全員が集まっていた。

 どうやら、人夫や弟子達も集落の人々と仲良くなったようで、皆名残惜しそうにしている。人生は出会いと別れでできている。機会があればまた会うこともあるだろう。

 朝の忙しい中、集落の皆が総出で私たちを見送るために集まってくれた。

 最後の最後に奥から現れたおじいが、ゆっくりと私の前に立った。

「源翁さま。此度は本当にありがとうございました。祭りの件は皆も乗り気なので、来年から少しずつやってみるつもりです」

「それが良いと思います。世の中何か楽しみがあった方が生き易いですから。我々も誰かを手伝いにやらせます。その時はよろしくお願いいたします」

「来ていただければ皆も喜びます。源翁さまもお酒を飲んで、世の中楽しんでいますしね」

「ゥオホン。そこは、余り公言しないでいただきたいです」

 お互いに笑い、次に五平とおりんが私の前に来た。

「では、五平どの。お元気で」

「はい。源翁さま。本当にありがとうございました」五平はおりんと一緒に深々と頭を下げた。

「いやいや、礼を言うのは拙僧の方です。恐らくは何事もないと思いますが、おりんに何か変化があればすぐに下総国の安隠寺を訪ねてください」

「ありがとうございます。ほら、おりんも源翁さまにお礼を」

 おりんは、眩い笑顔を源翁に向けた。

「私がこうして生きていられるのは、源翁さまのおかげです。ありがとうございました。教えて頂いた結界はちゃんと守ります。あと…私、たまに黒い狐の夢を見ます。それは大丈夫でしょうか?」

「黒い狐の夢…

 それなら、大丈夫です。黒い狐は平和を司どります。おりんさんが遊んだという狐がそれに当たります」

「ああ、そうなのですね。それで安心しました」

 それを聞いた五平は目を見開いて、早口に話した。

「源翁さま。それは本当ですか?おりんが黒い狐の夢を見たと聞いて、その…かなりまずいのでは思っていました」

 助かったという顔をしている五平に、私は微笑みかけて言う。

「いえ、逆です。九尾の狐の場合、白い狐は邪の心を持ち、黒い狐は善の心を持つのです」

 などとしたり顔で言ったものの、自分もそう思ったからこそ、こんなことになってしまったとは、今更ながらさすがに言えない。

「ふう。良かったあ。大丈夫だって!!」

 と嬉しそうなおりんの頭を撫で、五平は「良かった…」と涙を詰まらせていた。

 妹おもいの五平は、おりんの夢の話を聞いて内心かなり心配していたのだろう。本当に良い兄だと思う。

 その後も、集落の皆々と話をした。積もる話もあるが、そろそろ出発しなくてはならない。

「では、拙僧らはこれで出発します。皆様、ご迷惑かけましてすみませんでした。那須の地で九尾の狐を祓うことで恩を返したいと思います」

 私たちを見送るため、集落の者全員集が集落の出口まで来てくれた。


 名残惜しいが、我々は竹藪へと階段を降りた。ふと上を見ると、五平とおりんが手を振ってくれているのが見えた。



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