第40話 殺生石 其之七
五平のあともう少しという言葉を胸に、皆が一丸となって山を登った。
しかし、本当にあと少しというところで最後の関門が待ち受けていた。
そこには、見上げるほどの高さの崖が行く手を塞いでいた。
その崖には人が通る事のできる隙間があるのだが、輿を通すには狭すぎた。前回来た時は普通にすり抜けられたが、今回は輿があるのでそうもいかない。
崖は高く切り立っており、普通には登れない。崖の一部を削ったとしても、相当時間をかけないと輿は通らないのは明らかだった。
さて、どうしたものかと私が思案していると、小三郎が渋い顔をしながら隣にやって来た。
とりあえず、見立てを聞かなくてはならない。
「小三郎どの。どうでしょう、厳しそうですか?」
「そうですね…これは、とても厳しい」
小三郎は崖を睨んでいる。その顔が本当に厳しいと物語っている。
すると、五平が情報を補足してくれた
「源翁さま。この崖は横にどこまでも続いています。そして、どちらも先は谷になっています。ですから、この狭い隙間を通らないとお堂にはに進めません」
「なるほど…因みにこの崖の上からはお堂に行けますか?」
「はい。この左側の崖の上からであれば頂上に行けます」
五平は向かって左上を指差した。
私と小三郎は、五平の指の方向を見上げた。遥か上に木が茂っているのが見える。
すると、小三郎が心を決めたという顔で、提案をしてくれた。
「では、崖の上から輿を上げましょう」
私と五平は驚いた。あんな高いところへ重い輿を上げるとは想像だにしていなかったからだ。
「あ、あそこにですか?」
五平が上を見ながら声を震わせた。
「大丈夫。その為に頑丈な縄をたくさん持ってきている。それに、上の木は本数も多く奥へと続いている。あれだけ多くの木があるということは、少なくとも地盤は大丈夫だということだ」
小三郎はそう言って、人夫たちのところへと戻って行った。
私は信じられない思いで崖の上を見上げた。落ちたら間違いなく即死だ。あんなところへ本当に輿を引き上げられるのだろうか?
小三郎と人夫たちは難しい顔をして、ああでもないこうでもないと話し合っている。一歩間違えれば死が待っているのだから、慎重に話し合うのは当たり前だが、それは成功を前提としての話しだ。
それでも、小三郎は、すぐに話しをまとめ上げ、私と五平の横へと戻ってきた。
「まずは、先鋒隊があの崖を登って上から頑丈な紐を下ろす。そして充分に梱包した輿にその紐を結びつけ、輿を崖の上に引き上げる。上げている最中に輿が破損するといけないから、途中途中に仲間を下ろし、輿が崖に接触しないようにする。以上だ」
「輿を傷つけないように、何人かをあの崖に吊るすということですか?」
「そうです。仲間には高所作業をしている者が何人かいる。だから、心配は無用だ」
「この高さの崖では、お任せしますとは言い辛いですが、これしか方法がないという事ですね?」
「そうだ」
小三郎は私をじっと見た。いいか?と目で聞いてきたのだ。私もこの状況では仕方がないと思えた。
「では、お願いします。ここを彷徨く怪異も相当に大きくなってきています。私たちも事故が起きないよう、最大限努力して祓います」
「分かった。では、準備に入るので、ちょっと待っていてくれ」
小三郎は仲間の所へと戻り、早速準備にかかった。
私は五平にそれとなく聞いてみた。
「あの輿が上に上がったとして、私たちもあそこへ上がれますか?」
「いえ、源翁さまは違う道で進んでいただきます。そして、崖上から輿を運んでくる班と合流してください」
「違う道?」
「ええと…そうですね、前と同じ道という意味です。源翁さまたちは、普通にあの崖の隙間から反対側へと抜け、そのまま進んでいただきます。しばらく進むと、崖の上からの道と源翁さまの行く道が繋がります。そこで皆が合流すれば問題ありません。こちらから見て右の崖は完全に谷底へ行ってしまうので合流できません」
「なるほど。分かりました。その間に怪異が出ては問題ですので、そこは円来に頑張ってもらいましょう。円来できますね?」
「はい。お任せください!!」
円来は嬉しそうに答えた。彼は修験の出身なので、山に関しては他の誰よりも熟知している。彼だけは人夫たちの足手まといにならずに仕事ができるだろう。
人夫たちはもう用意が終わったようだ。手際の良さが半端ではない。
まずは、最も身軽そうな背の小さな人夫が、丈夫な縄を肩にかけると、崖の切り通しを利用して崖をスルスルと登っていった。片方の足を崖に掛けたかと思った瞬間、もう片方の足が逆側の崖に掛かり、跳ね上がるようにして登っていく。
私たちも、彼が途中で怪異に襲われないよう、下から真言を唱え、気を送った。
不足の事態に備え、私はいつもよりも強めに気を送る。
何故なら、上の方に若干ではあるが何か黒い気に近いものを感じるからだ。あれが怪異だった場合、あまり良いことが起きないのは間違いない。いざとなればお札か式神を飛ばす準備もしている。
身軽な人夫は、あっという間に崖の上に手をかけた。
その時だった。突然、崖の上に大きな狼が姿を現した。立派な銀の毛に覆われた狼は、牙を剥き出しにして人夫の頭に食らいつこうと、すでに大きな口を開けていた。
これは怪異よりも数段質が悪かった。あれだけ遠くてはお札も式神も間に合わない。
かくなる上は———
「ウン!!」
と叫び、予め多めに出していた気を一気に押し上げた。気は強烈な圧力となって狼にぶつかった。狼は後ろに吹っ飛び、私たちの視界から消えた。
本当に間一髪だった。あの人夫が頭ごと食われなくて良かったと思う。
しかし、未だ崖上には狼の唸り声が聞こえ、怒りの渦巻いた黒い気が漂っている。「少し降りて下さい!!」と人夫に叫んだ。人夫は慌てて狼に食われない程度に崖を少し降りた。
「大和尚さま!!彼方の空から怪異が!!」
今度は焉斎が叫んだ。
逆側の上空に怪異が現れたようだ。
全く油断ならない。やはりお堂の近くには未だ九尾の狐の影響が根深く残っているのだ。
「私は狼に集中します。その怪異は任せましたよ!」
私がそう言うと、焉斎は「承知しました!!」と叫び、真言を唱えながら印を作った。三人の弟子たちも焉斎に合わせて全く同じ動きをする。
チラッと怪異を見ると、そこそこ大きな黒い翼を持った鳥型の怪異だった。もしかすると、前回の隼の怪異の仲間かもしれない。とすれば、あれも陰摩羅鬼の一種だろう。
その一方で、崖の上では、唸り声を上げながらあの狼が顔を出してきた。狼は狡猾なので油断できない。私はそちらに集中した。
焉斎と三人の弟子たちは意気込み強く鳥の怪異と向き合った。
真っ黒な鶏のような鳥の怪異は、我々を認めたのか近付くのを止め、少し離れた場所で停空しながらこちらを見ている。この道中で出会った怪異とは桁違いの強さを感じるが、全員の力を結集すればきっと祓えると信じ、四人は同じ拍子で真言を重ねて唱えた。
すると、自分たちでも驚くほどグッと気の強度が上がった。まだ師匠の源翁には遠く及ばないが、中々な気を醸造できたと焉斎は思った。
鳥の怪異は、狙いを崖の途中で待機している人夫に定め、矢のような速さで一気に滑空してきた。
尋常ではない速さで人夫に食らいつこうかという瞬間、焉斎の号令一発、弟子たち渾身の術式が怪異へと飛んだ。かなり強度の高い鎌刃のような気の刃が怪異へと飛んだ。その刃は、怪異の身体を見事抉った。鳥の怪異の羽が飛び散り、その身体から黒い何かが噴霧した。
鳥の怪異は「クエェェェ」と呪いの叫びを吐きながら落下したが、地面にぶつかる寸前で再び舞い上がった。どうやら致命傷とまではいかなかったようだ。
鳥の怪異は再び上空に停空し、この世の全ての怒りが内包したかのような目で四人を睨むと、勝負を賭けてより高く上昇した。さらに速さを上げて一気に人夫に食らいついて殺す気なのだろう。
予想通り、鳥の怪異は先ほどよりも数段速く滑空してきた。目で追いきれないほどのとんでもない速さだ。
「させません!!」
そんなこともあろうかと、焉斎も既に二の矢を放っていた。
密かに気で作った網を、崖の周辺に既に張り巡らせていたのだ。そして、怪異はまんまとその網に突っ込んで行った。
かかった!と思った焉斎であったが、そうは思惑通りにいかない。
鳥の怪異の突進力の強さが予想以上だったのだ。一瞬で気の網は破砕寸前にまで軋んだ。なんとか網を維持しようと焉斎は歯を食いしばったが、網は早々に怪異に食い破られた。焉斎は、怪異に対してどんな力だよと文句を言いたくなった。
鳥の怪異は怒り狂い「グギャー!!」と咆哮を上げ、三度目の上昇を試みようとしたその瞬間、何と、次なる気の網が怪異に覆いかぶさってその上昇を食い止めた。
今度は、円来たちが焉斎に倣って同じ術式を放ったのだ。
新たな網にかかった怪異は、流石に上昇への推進力を失った。そして、四人はその隙を見逃さなかった。
目を合わせるだけの意思疎通で、今度は全員で網を強化し、その強度を上げた気の網で怪異を完全に包みこむ作戦に切り替えたのだ。
怪異は網に絡め取られ、羽を動かすことができなくなったが、それでも、その規格外の力を遺憾無く使って網の中で暴れながらもがいた。怪異が力任せに暴れると、驚くべきことに四人で張っている気の網が軋んだ。何とか抗って、四人は必死に網を維持したが、網はまた破綻寸前に追いやられた。
それでも焉斎は冷静だった。これまでの祓いで培ってきた技術を信じて反撃に転じる事にした。
「お札を!!」
焉斎は懐に入れてあった出雲大社のお札を取り出した。それを見た三人の弟子たちもお札を手に持ったのを確認し、焉斎は「投擲!!」と全員に号令をかけた。
全員がお札を投げると、上空で全員のお札が一つに重なった。そして、お札は光の矢となって怪異へと飛んだ。焦った鳥の怪異がさらに暴れて四人の気の網を破ったが、その瞬間、光の矢が怪異を貫いた。
怪異は「グゲェ!!」と断末魔の叫びを上げると、恨みがましい目をこちらに向けた。そして、光にかき消されるように徐々に消えていった。
鳥の怪異は、常世の世界へと祓われたのだ。
敵の最後を見ながら焉斎は思った。あの大きさの怪異ですらこの力か…と。源翁が祓ったという九尾の狐はどれほどの力を持っているのかと、気の遠くなる思いになる。
鳥の怪異の気が無くなったのを感じた源翁は、心の中で「見事」と言い、今度は自分の番だと、手の指を狼へと向けた。そして、弟子たちが怪異を祓っている間に丹田に溜めた気を、狼へと一気に放った。
初めに狼に当てた気と桁違いに強力な気が、狼を文字通り吹っ飛ばした。どこまで飛んでいったのかは分からないが、もう戻ってはこない程度には遠い場所に飛んで行ったはずだ。そして、崖の上に感じていた複数の黒い気が一斉に消えたのも感じられた。やはり上には狼が何頭かいたようだ。これで狼たちもしばらくは出てこないだろう。
気づけば、弟子たちが目を丸くして私を見ていた。余りの気の大きさに驚いたのかもしれない。
大きな気を練るには厳しい修行が必要だし、気を溜めて巨大な気を放つのもコツがいる。今後精進して学んでほしい。
さて、まずは崖の途中で頓挫している人夫を早く上に上げてやらねばならない。
「ふう。もう上は大丈夫です!!早く上がって下さい!!」
その言葉を受けて、崖の途中で震えていた人夫は、えいやっと、一気に崖の上へと上がった。
人夫は、恐る恐る崖の上の様子を確認した。確かに狼はいない。見えはしなかったが怪異もいないようだ。下を見ると、源翁とその弟子たちがこちらを見ている。
あの源翁という坊さんは、何故離れた場所からあれこれできるのかと思うが、分からない事を考えるよりも、今は輿を上げる準備だと人夫は準備にかかった。
「こちらは大丈夫です!!今から準備にかかります!!」
そう下へと言うと、人夫は肩に掛けた紐を一旦下ろし、木がきちんと根が張っているかを確認した。
諸々大丈夫と判断し、上に上がった人夫は木に括り付けた紐を下へと垂らした。あとはこれを命綱にして他の人夫たちが順番に登ってくるだろう。
崖の上に七人の人夫が登ったところで、円来も上に上げてもらった。
周りを見回し、怪異と狼の危険がないかを確認した後、円来は、注意深く辺りに気を巡らせた。確かにここにはもう怪異の気配も獣の気配もなかった。油断はできないが、これなら人夫たちが輿を上げる作業をしても大丈夫だろう。
円来は、人夫に作業しても問題ない旨を伝え、作業の邪魔にならないように人夫たちから少し離れた。そして奥へと続く林に目を光らせて怪異と狼に備えた。
円来のお墨付きを得た人夫たちは、すぐさま輿を上げる作業に入った。
まずは、付近にある木を調査し、最も丈夫そうな枝を見つける作業だ。人夫たちは幾つか枝を選んで強度を試した。その中でも、崖からそう遠くない場所に生えている大きな松の木の枝が良さそうだとなり、早速体重の重い人夫三人で、その枝にぶら下がってみた。枝は若干撓ったものの折れはしなかった。
「よし。じゃ、この枝に紐を掛けて下に下ろそう」
「うっす!」
そうと決まれば作業は速い。人夫たちは手際よく松の枝に紐を巻きつけ、残りの紐を下に下ろした。もちろん万が一の事を見越して紐が落ちないよう、余裕を持たせた紐の先を隣の木にも結ぶのは忘れない。
紐が下りてくるのを下で待っていた小三郎たちは、手際よく紐を輿の持ち手にしっかりと結んだ。そして、ありったけの布を使って輿を包んだ。
その間に、崖の上の木に命綱を結んだ人夫が五人、崖の要所要所に降りてきた。彼らがいれば、輿が崖に接触する危険はかなり低減する。
源翁は、その様子を見て、あんな危険な宙吊り状態によくなれるものだと思った。そして、あの時の崖登りを頭に思い浮かべ、一人でよく登れたものだと今になって思った。
上からは円来の唱える真言が聞こえてきた。中々見事な真言で、あれなら怪異も獣も寄せ付けないだろう。
さて、いよいよ輿を上げる準備が整ったようだ。
「では、私たちも怪異に備えましょう」
「はい!!」
私と三人の弟子は上にいる円来に合わせて、輿を囲むように真言を唱えた。これなら上で何か起きてもある程度なら下からでも応援できる。
それにしても、紐で持ち上げるにはこの輿は重すぎるように見える。これを上げるにはもっと人数がいるのでは?と思っていると、小三郎は、自分以外の人夫を全員崖の上へと上げた。初めからそうするつもりだったのだろう。
全員が上がったので、小三郎は上へ呼びかけた。
「上!!いいか?」
「大丈夫です!!」人夫たちの配置を完了させた崖上の責任者が威勢よく返事をした。
「よし!!上げろ!!」
「うっす!!」
とうとう輿が持ち上がった。
輿の紐が捻れたり体勢がおかしくならないよう小三郎が下で輿を慎重に支えている。ゆっくり少しずつ上がる輿は、宙吊りになっている一人目の人夫の所まで上がった。見た所安定しているので、このまま上げていくことになり、小三郎もそれを手伝いに崖の上へと上がって行った。
下に残った源翁たちは、ひたすら真言を唱え、輿の無事を祈りつつ怪異への目を光らせる。
輿はゆっくりと順調に上がって行った。
二人目の人夫の所にまで上がると、一人目の人夫は崖をよじ登って上の手伝いに入る。命綱があるとはいえ、信じられない事をする。
輿は、三人目、四人目と上がって、ついに最後の五人目のところまで上がった。最後の最後で輿を崖にぶつけてはまずいのと、下から支えつつ輿を押し上げるために、数人が五人目と同じ高さに宙吊りになった。
崖の上には茣蓙が敷かれ、まずはそこへ輿を乗せようと、崖上の人夫たちは全身から汗を吹き出しながら、歯を食いしばって輿を引いた。輿はぐっぐっと音を立てながら崖の上まで上がった。しかし、茣蓙まであと少しというところでバキッと音がして、輿が傾いた。とうとう松の木の枝が重さに耐えきれなくなり折れたのだ。
しかし、小三郎は木の音を聞いてそれを見越していた。
力自慢の三名の人夫を引き連れて風のように輿の下へと入ると、持ち手を肩にかけ無理やり四人で輿を持ち上げたのだ。輿はいつも運ばれているように人夫たちの肩に乗り、完全に崖の上へと上がった。
輿を引いていた人夫が唖然としてその様子を見ていたが、誰がしたか拍手が鳴ると、人夫たちが皆拍手をして、無事輿が上がったのを喜んだ。すぐに崖にぶら下がっている人夫たちも無事引き上げられた。
私などは、見ているだけで冷や汗でびっしょりになってしまったが、小三郎は上で涼しい顔をしている。あの落ち着きこそが事故を減らすのだろう。
上から、円来がこのまま人夫たちと合流地点に進みますと言ってきたので、私たちは五平の案内でその合流地点へと向かった。合流地点に着くと、五平は私たちにここで待つように言い、今度は輿を運ぶ人夫たちの方へと走って行った。
ここで小三郎たちと合流したらいよいよお堂へ向かうだけだ。
まだ時間もありそうなので、私は、三人の弟子に心構えを説くことにした。
「これから行く先は、九尾の狐の縄張りと思ってください。何が起こっても不思議ではない場所なのです。不測の事態が生じても焦らず冷静に対処するようにしてください。私もできるだけ周りに気を配ります。まずいと思ったら自分で処理しようとせず、まずは皆に知らせてください」
「はい。承知しました」
三人の弟子たちは、それぞれがそれを肝に命じつつ、何かあった時用の道具を整理し始めた。何かしていないと重圧に潰されそうになるのかもしれない。
すると、向こうから「よっせ!よっせ!」という聞き慣れた掛け声が聞こえてきた。思ったよりも早く合流できそうだ。
人夫たちの掛け声が近くなると、五平がこちらへと走ってきた。
「間も無く輿がこちらに着きます。だいぶ時間を食いましたが日のあるうちに着けそうでよかったです」
確かにそうだ。太陽があるのとないのでは怪異の力は驚くほど違う。
向こうからやってくる「よいせ!!よいせ!!」と輿を運ぶ人夫たちの後ろには、真言を唱える円来の姿があった。
円来は私たちを見るとホッとした表情を見せた。短時間とはいえ一人で怪異と獣を寄せ付けないようにしなければならない重圧はかなりのものだったろう。
私たちは円来を笑顔で迎え、よくやったと労った。
合流地で少し休むと、私たちは、急ぎお堂へと向かった。
最後に待ち受けていた急坂を登り切ると、私は生えるに任せた草が途切れた事に気づいた。
地面の草は刈り取られ、道の脇には花壇があった。その先には人の手で作られた階段が見える。私は、ああ、戻ってきたなと思った。そして、この階段の上にあの黒い気があるのをひしひしと感じた。封印される前に感じた九尾の狐の圧倒的な気には遠く及ばないが、神に等しい存在特有の、決して滅せない強さがある。そして、黒い気の強度がこの程度で収まっているのはお堂の封印がうまくいっている証拠だ。
私は、階段の前で立ち止まり、大きく息を吸った。
風が木と草の匂いを運んでくる。こうして変わらない自然があるのもこの道を毎日通ってお堂を見てくれた集落の人々のおかげだ。彼らには感謝しかない。雨の日などは命懸けの大変な行程だったであろう。
私は五平に頭を下げた。
「五平どの。そして毎日ここを見てくれた皆様に厚く御礼申し上げます」
「いえ、日本のためと言われれば当然ですよ」
そうは言ってくれたが、その苦労は推して察するべきだ。
「では、皆さん。境内に上がりましょう」
「うっす!!」
境内への階段を登りきると、広場の先にあのお堂が見えた。木造のお堂で、全て海燕という修験が造ったものだ。九尾の狐の魂はあのお堂の中に封印してある。
ここまで急坂ばかりで、肩で息をしている人夫たちにはすぐに休んでもらわなくてはならない。何せ下りもあるのだ。
お堂前の広場の真ん中に茣蓙を敷き、まずは輿を下ろしてもらった。
輿は相変わらず傷一つない。この人夫たちの完璧な仕事ぶりには恐れ入る。
輿が置かれた瞬間、人夫たちは転がるように地面に突っ伏した。それだけ強行軍だったと言える。お堂から岩を移す作業は、人夫全員が充分に回復してからにしなければならない。
「ここまで輿を運んでいただき感謝します。ここからが本番です。それまでしばし休んでください」
私がそう言うと、倒れていた小三郎が素早く立ち上がった。
「いや、源翁さま。殺生石は一刻も早くこの場から遠ざけるべきだ。私たちは荷運びの腕っこき。少し休めば問題ない。源翁さまは、準備を遅らせないですぐにかかってくれ」
見れば、倒れながらも他の人夫も頷いている。
「分かりました。では準備を始めさせてもらいます。殺生石を運ぶ段階になったらまたよろしくお願いします」
そう言って人夫に頭を下げ、私は殺生石を輿へと移動させる準備に入ることにした。
「五平どの申し訳ありませんが、裏から水を汲んで人夫たちに配ってくださいませんか?その間に私たちはできるだけ準備をします」
「分かりました。任せてください」
そう言うと五平はお堂の横にあった桶を持って下に降りていった。
水が来るまでの間、私と四人の弟子で、お堂を見る事にした。
入り口は、私が施した注連縄とお札できちんと封印され、お堂は邪の者の禁足地となっていた。ただ、近くに来るとお堂の中から九尾の狐のどす黒い気が少しずつ漏れているのが分かった。それでも急造にしてはまあ良くやれたと考えていい。本来、九尾の狐ほどの怪異であれば、伊勢神宮並みの封印をしなければならない。伊勢神宮は、大和の人口の半分が死んだと言われる疫病の大元とされ、史上最悪の祟り神とされた天照大神の宿る八咫鏡を、わざわざ内宮を作ってまで完全封印した場所だ。
ただ、九尾の狐は天照大神と違い、実体を持って復活する。その意味では封印だけでは後々厳しいと言える。
そんな九尾の狐の黒い気は、非常に独特で、大きすぎる故に自然の大きさに近く、山の気と混同しがちだ。ここまで近づけば、弟子たちもそのことに気づく。これが常に感じられるようになるには、かなりの月日を必要とするが、この四人の弟子たちならばいつか分かる日が来ると思える。
案の定ここまで大きい気を感じたことのない弟子たちは、困惑した顔をした。
焉斎などは、自分の身体を抱きながら「こ、これでも本当に封印されているのですか?」と聞いてきた。
「もちろん封印されています。意識ある九尾の狐の魂は、己が全身が削がれるような気を発していました。このくらいの気であれば封印がきちんと効いていると言えます」
「そうなのですか…」
焉斎は本当か?という目で私を見た。そして、他の弟子達も同じような目で私を見た。皆が私の言うことが信じられないのであろう。九尾の狐とはそれほどの存在なのだ。ただし、この気を敏感に感じられるのは普段から訓練を受けている人間だけだ。向こうからやって来る五平には感じられないだろう。
五平はトコトコと私たちの横に来ると、じっとお堂を見た。そして、恐る恐る私に聞いてきた。
「源翁さま。皆様に水を配り終わりました。———で、どうでしょうか?毎日ここを見張って、決して触らないようにしていましたし、ここを訪れる人もいませんでした。お堂の状態は大丈夫でしょうか?」
「もちろん。大丈夫です。五平どの、毎日きちんと見てくれた事に感謝します。本当にありがとうございます」
私は五平に深々と頭を下げた。
「い、いや、もったいないです。集落のみんなで頑張った結果です」
本人は謙遜しているが、五平は当番以外でも毎日お堂に行って変わりがないかを見てくれていたと長が教えてくれた。彼の頑張りによる所が大きいのは明らかだ。お堂はこうして完全に管理され、封印は解けなかった。あの集落の人々の頑張りが、日本を守ってくれたと言っていい。
私は頭を上げ、今度は私が役に立つ番だと気合を入れた。
「では、まずは扉の封印を解くとこにします。焉斎、円来、照海、燕相。人夫の方々と屯食を食べたらすぐに始めます。ここまでの経験を活かして頑張ってください」
「承知しました!!」
ここまで来たらやるだけだと、弟子たちも吹っ切れたようだ。
皆が急いで屯食を食べ、水を飲んだらいよいよ本番だ。
籠から折り畳み式の台、お札や清められた紐などを出して、それらをお堂の前へと運んだ。円来と燕相が素早く台を組み立てた後、私と焉斎で、台の上にお札や清めの物を置いていった。必要な物は照海が手渡してくれた。
その間に何度かお堂の気を探ったが、やはり九尾の狐は外の様子が分かっていないようだ。しかし、こちらを油断させているだけかもしれないので注意は必要だ。なぜなら、封印されている白き魂は、まさに悪の塊なのだから。
思い出したくもないが、私の中にあの苦い思い出が蘇る。
私はあの時、時間をかけて九尾の狐を黒い魂と白い魂に分けた。そこまでは良かったのだ。ただ、その白い魂こそが純粋な悪の塊だった。この痛恨の黒と白の取り違えが今の状況だ。全くもって私が判断を間違わなければここまで大事にならずに済んだのだ。
殺生石などと言われる物を創ってしまった私の罪は重い。
後世の人たちに少しでも顔向けできるよう、私は何としてでもこの白き魂を祓わなければならない。なんとしてもだ。
人夫達が輿をお堂の前まで運んでくれた。これで、殺生石を輿に乗せる準備は整った。皆をお堂の前に集め、万全を期して手順をもう一度説明した。
「———という訳で、殺生石の封印を強めたとき、私が合図しますので殺生石を輿へと運んでください」
「うっす!!」
皆いい表情だ。私は、最後になりますがと前置きし、「皆がやるべき事をやれば、必ずやうまくいきます。各々よろしくお願い申し上げます」と礼をした。
私が頭を上げると、皆がいよいよかと表情を硬くしていた。
「では、殺生石を輿に乗せる儀式を始めます」
人夫達が「おう!!」と声を響かせると、弟子達がお堂の四隅に散った。私は入り口の前で、それぞれが配置についたのを確認し、静かに真言を唱えた。とうとう儀式が始まったのだ。
しばらく真言を唱えてから、ゆっくりと手印を作る。
丹田に気が練れてきたので、私は弟子たちに合図を送った。
合図と同時に弟子達は、ゆっくりと対魔の呪文を唱え始めた。私もそれに合わせて唱える。
しばらくすると、弟子達の霊力が対流し始め、周りの空気が振動してきた。五人で創る結界が効いてきたのだ。しばらくすると、対流した霊力が安定し、結界がお堂を包んだ。私と四人の弟子が囲む空間に、神社仏閣のような静謐な空間が完成した。
ゆっくりとその結界に入った源翁は、少しずつお堂へと近づいた。
慎重の上にも慎重を期して、お堂の前でも退魔の経を唱えた。お堂の中の九尾の狐の魂は微動だにしない。どうやら結界に問題はないようだ。
私は、前回お堂に付けたお札と注連縄を、慎重にゆっくりと外していった。後ろからは人夫達の食い入るような視線を感じる。九尾の狐がいきなり出てくるかもしれないと身構えているのだろう。私は外し終わったお札と注連縄を台の下の段に置いた。
すぐに台から踵を返し、私はお堂の扉へと向かう。
この先に九尾の狐を封じた岩がある。相当手の込んだ封印をしたつもりだが、おりんの言うように、九尾の狐に意識があるのならば、充分注意しなければならない。
そして、私は、お堂の扉に手をかけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます