第39話 殺生石 其之六
薩都の町に朝がきた。
昨夜のどんちゃん騒ぎが嘘のように静まり、境内には寝息と虫の声だけが支配していた。
集落の人々は、まだ騒ぎ足りないと名残惜しそうに、丑三つ時には帰宅して行った。
そんな集落に東の方から薄らと太陽が昇り始めた。これから過酷な山登りの一日が始まるのだ。円来は朝食を作るため、いの一番に早起きし、せっせと食材を厨房へと運んでいた。
そんな中、酒も残っていそうなものだが人夫達が続々と起きて来て、やおら出発の準備を始めた。小三郎に叩き起こされていた人夫も二、三人いたが、まあそれはご愛嬌だ。うちの弟子も一人だけ高いびきだ。
源翁はそんな朝の光景を見ながら、陽の光を浴び、鳥の声を聞き、風の音を感じ、木々の匂いを嗅ぎ、清々しい気分で井戸で顔を洗った。すっきりと目が覚めた私は、海燕の墓へと赴き、手を合わせて出発の挨拶をした。
「では、海燕どの。行ってきます。必ずや殺生石を祓い、吉報をお届けします」
一礼して寺の庭に戻ると、境内にはお粥の匂いが立ち込めていた。
見れば、弟子たちが人夫たちにお粥と塩漬けした昆布を一蹴懸命取り分けていた。配膳の手際も驚くほど良くなっている。どんな事でも成長があるのは良いことだと思う。
慌ただしい朝食を終え、出発の荷造りが終了した頃に、寺の住職が顔を出した。
まだ、昨日の宴会の香りが残っている上、太陽も上りきっていないというのに、すでに準備を終え出発しようとしている私たちに、彼は驚いた顔をした。
「源翁さま。もう出られるのですか?」
「はい。賀毗禮山は天然の危険が多々あります。頂上にあるお堂に行くには遅いくらいです」
「そうですか。では、お気をつけて。集落の皆に代わって私がお見送りします」
「ありがとうございます。近いうちに吉報が届けられるよう尽力します」
「よろしくお願いします」
と住職は私に深々と頭を下げた。
賀毗禮山の中に集落がある事は誰にも言っていない。彼らの平和を乱してはいけないからだ。山の中にはお堂しかない事にしておいた方がいい。
こうして、私たちはまだ空が明けきらない中、賀毗禮山へと足を踏み入れた。
賀毗禮山の山中へと入った途端に勾配が急にキツくなる。
少しじめっとした土が草履に付き、目の前を小虫が数匹飛んでいった。あの時の嫌な記憶が蘇るが、この程度の子虫ならば可愛いものだと思えた。湿気を含んだ空気は、隣の国ながらも下総国とは全く違う。そして、多少鎮まったとはいえ相変わらずの霊気が強い。
いきなり大きな怪異が出てもいけないので、早速私と弟子たちは真言を唱えた。
一応説明はしておいたが、やはりここの空気は特殊だったようで、この霊気を吸い込んだ弟子たちは、喉を痛め、頭痛を引き起こした。同じような症状を訴えた人夫もいたので、なるべくゆっくりと登ることにした。
ただ、山の空気は、九尾の狐がいた時よりも格段にマシになっているというのが、私の正直な感想だ。
弟子たちも人夫たちも暫く頑張ればこの環境に慣れていくのではないかと思う。そして、霊気がこの程度ならば、それほど巨大な怪異は出ないだろうとは思う。しかし、九尾の狐の根城だった地だ。決して油断してはいけない。私は、弟子と共に周りを牽制しながら真言を唱え続けた。
しばらく進んだ源翁は、山の様子が以前とあまりに違うことに驚いた。
壁のように木々が連なり、長短の草や蔓植物が行く手を阻み、獣道すらなかった山が、所々切り立った崖があるものの、風景だけ見れば一般の山と相違なくなっていたのだ。
確かに、山頂付近にはこのような場所があった。しかし、麓付近で私を苦しめたあの見たことのない植物はどこにもなく、蔓に足を絡められたり、花粉に目をやられる事もなかった。九尾の狐との戦いを終え、山を降りた時はまだあの植物群があったので、あれほど山登りを難儀したのが信じられなくなる。
要するに、九尾の狐は魂だけの存在だったにも関わらず、この山を植物の要塞化するだけの力があったのだ。それに加えて怪異やおりんを操るのだから、文字通り化け物と呼ぶにふさわしい怪異だと言える。
但し、賀毗禮山の勾配は相変わらずきつく、人夫たちは、交代の回転を早めてこの勾配に対応していた。
普通の山に戻ったとは言え、植物が鬱蒼と生い茂り、霊気が充満しているのは変わらないので、怪異を祓いつつ植物や木を刈りながら進むことになる。時には崖を削って輿を通す作業も変わらない。
私たちは少しずつ確実に上へと上がって行った。
太陽が東から南へと進んだ。
前回のように、我々を登らせないようにする意図的な崖への誘導や鉄砲水はない。緑の奥からは、怪鳥の声の代わりにアカゲラやメジロの声が聞こえるだけだ。狼や熊の気配は感じないが、狐や鹿などは遠くからこちらを見ていた。
登山は概ね順調と言えた。
小さい怪異が襲ってくる事は何回かあったが、それは街道の時と変わらない。手慣れた感のある弟子たちが、完全に祓うことなく怪異を追い払ってくれた。若生世代は飲み込みが早いと感心する次第だ。
私は、この賀毗禮山に登る前、この山は九尾の狐の支配が完全に解けていないので、登山は非常に厳しいものになるはずだと皆に散々言っていた。それを考えれば、皆はそれほどでもないと思っているだろう。
そして、この坊主は歳のせいで体力がないのだと思われたかもしれない。いや、確実に思われているだろう。これを言い訳しても始まらないので、ここは何も言わずにお堂を目指す。
多少の困難はあったが、それを差し引いても以前来た時には考えられない程、上へと進めている。
先ほど見つけた獣道が良い感じに上へと繋がっていたので、少しだけ早さが上がった。
「よいせ!よいせ!」
人夫達は輿を軽そうに運んでいる。実際は軽くないどころか相当重いのだが、それを全く感じさせない。しかも、狭い場所や崖を見事に避け、至極安全に運んでくれている。掛け声に合わせて全員が同じ歩幅、律動で動くので、草や土を踏む音も常に一定だ。
そして、私が数日かけてようやく辿り着いた水場に、僅か半日で到着した。
「では、一度ここで休憩しましょう」
私がそう言うと、すぐさま茣蓙が敷かれ、輿がそこに置かれた。
人夫たちは沢の水を飲み、手拭いを浸すとそれで汗を拭っていた。
そんな様子を見ながら私は前回のことを思い起こす。植物に数日間足止めされ、花粉で目が見えなくなり、全身緑色に染まり、虫が口に入り、蜂に刺され、怪異との戦いで全身傷だらけだった。あれを思い出すと、よく頂上まで頑張っていけたものだと自分を褒めてやりたくなる。
弟子たちが、朝作った昼飯を人夫たちに配り終えた。水場なので、温かい芋汁も作られ、なかなかに豪華な食事となった。私たちは、肝心なところで喉を枯らさないように、芋汁に加えて、沢の水と喉に良いと言われる柿の種を煎じたものも飲んだ。若干苦味のある味だったが、飲めないほどでもない。
一息ついたところで、私は周りを眺めた。
近くの木をリスが登って行き、通りがかりのキツネも目に入った。そう言えば、前回は、この手の小動物を見ていない。怪異と大型動物に気圧されて出てくること自体がまかりならなかったのだろう。やはりあの時の山は、九尾の狐によって支配されていたのだと改めて感じる。あの調子で人間社会が支配されていたらと思うと寒気がする。
賀毗禮山はかつて信仰されていた神さまを取り戻し、これからは豊かな自然を皆に育んでくれるはずだ。
休憩ももう終わりというところで、焉斎が聞いてきた。
「大和尚さま」
「何でしょう?」
「あの…この山の進路をどう決めているのですか?」
焉斎は真剣に不思議そうな顔をしている。ああ、なるほどと合点が入った。確かに側から見れば、どうして迷わず進んで行けるのか分からないのかもしれない。
「前にも話しましたが、悪霊、怨霊の類は黒い気を発しています。私はその気を感じ、そのもの達のいる方へと進んでいるのです。今も九尾の狐の封印されたお堂からは、黒い気が気が漏れ、私はそれを感じることができます」
「承知しました。どうすれば私たちがその気を感じられるようになるのですか?」
「そうですね…これは経験を積むしかありません。
世の中に存在するものは、物であれ生き物であれ何がしかの気を発しています。その違いを悟り、目的とする気を感じられるようになるまで気を読み続けるのです。特に怨霊、怪異の類は、何度も祓いをしているうちに怨霊特有の波動というか気の揺らぎを感じるようになってきます。それを感じられるようになると、その辺を飛んでいる霊ですら敏感に感じられるようになりますし、巨大な怪異ともなれば、このように遠く離れた微妙な気でも捉えられます」
焉斎は山の上の方をじっと見た。
私の言う黒い気が感じられるのかを試したようだ。しかし、すぐに残念そうな顔をしたので、そこまでは分からなかったのだろう。怪異の黒い気を感じると言うのは理屈ではなく、何度も何度も怪異の祓いを経験するしかない。そうやって何年もかけてようやく身体が覚えて身につけられるものなのだ。焉斎は、これから多くの怪異と対峙することになる。そこで、経験を積んでいけばきっと分かるはずだ。
「ありがとうございます。理屈は分かりました。精進します」
「焦らずじっくりと理解していくしかないのです。頑張ってください」
「はい」
と焉斎は頷いた。その質問を聞いていた三人の弟子達も、そういうものかと皆頷いていた。
この四人の弟子たちは、今回旅で途轍もなく貴重な経験を積んでいる。彼らはこれを次代に継いで、私の思い描く将来への備えの一旦を担ってもらわなくてはならない。それが積み重なっていけば、遠い未来に九尾の狐が復活しても、人間が破滅するという未来が防げるかもしれない。
休憩を終え、私は、まずは山中にある集落を目指した。
輿もあるので、無理はせず三日ほどかけて行ってもいいと思っていたが、あの時のように未知の自然が邪魔をしてくる事もなかったので、山間の集落にはたった一日野営しただけで到着した。
急峻な場所も多い山なので、驚くべき早さだ。
皆に集落の説明をしようと、竹林の沢で一旦全員を集めた。
何の話があるのかと、皆が私に顔を向けた。
「では少し聞いてください。秘密保全の為、皆様にはこれまで言っていませんでしたが、このすぐ上には秘密の集落があります」
「こんな山に集落が?」
小三郎たち人夫は怪訝な顔をして周りを見ている。しかし、よく見れば、確かに井戸もあるし、竹藪も人の手が入っていると思ったようだ。
「ここの方々は、麓の人間に集落があることを秘密にしています。彼らの平和がかかっていますし、今回のことで大変にお世話になっていますので、今後もここの事は、くれぐれも内密に願います」
「分かりました」
小三郎はそう言うと、すぐさま人夫仲間に睨みを効かした。これを話せば今後の仕事がないと言ってくれたのだ。私が小三郎に小さく礼をすると、小三郎も小さく頷いた。
「では、上へと参りましょう」
竹藪の端に造られた土の階段を登っていくと、だんだんとあの集落が目に入ってきた。
木で造られた家からは囲炉裏の煙が上がっている。雰囲気的に変わった様子はないようで安心した。
丁度夕方になる時間帯だったので、食事炊きや薪を運ぶ人間がちらほらと外に出ていた。私が先頭に立ち、挨拶のためにおじいの家へと向かう。おじいの家は集落の丁度中間地点にある。
目ざとい男の童子が私を見つけ、こちらに向かって全速力で走ってきた。
「あー。お坊さんがまた来たー」
「お邪魔しますよ。みなさんお元気でしたか?」
「うん!!みんなもおりんも元気だよー」
「そうですか。それは良かった」
この子供を皮切りに、どこにいたのか十人ほどの童子が走ってきて、私たちは童子たちに囲まれてしまった。こうなると友部の町と同じで、童子に囲まれて前に進めない。輿を担いでいる人夫たちに悪いので、集落の広場の端に茣蓙を敷いて、まずは輿を置いてもらった。
すると、私たちの声を聞きつけ、村の奥から手を振って走ってくる若者が目に入った。若者は物凄い速さでこちらに走ってくる。
息も切らさず私の前に立った若者は、満面の笑みで私を見た。
「源翁さま。お久しぶりです」
五平が嬉しそうに言った。
「お久ぶりです。五平どのも元気そうで何よりです。それに、益々精悍になったようですね」
「いえいえ。たった一ヶ月でそんなに変わりませんよ」
笑いながら五平はそう言うが、顔も引き締まって一層頼れる存在になっているように見える。あの体験が彼を成長させたのは間違いない。
「おりんはどうだね?」
「はい。お陰様で元気でやっています。あ、あそこにいますね」
五平の人差し指の先には、水をいっぱいにした桶を一生懸命運ぶおりんが見えた。顔は真剣そのもので、大人の世界に混じって頑張ろうという意気込みが聞こえてきそうだ。
その姿を見た私は正直ほっとした。
九尾の狐という大物の妖に取り憑かれていた事もあり、何か予期せぬ後遺症があるのではないかと内心心配していたのだ。この時代に再び九尾の狐が放たれなければ、もう大丈夫だろう。
すると、集落のざわつきを聞いてか、奥に見えている家の戸が開き、中からおじいが出てきた。
おじいはこちらに向かいながら「これ!!お前ら源翁さまが動けないだろ!!家の手伝いをしなさい!!」と開口一番子供たちを叱った。子供たちは渋々私たちから離れ、それぞれの家へと逃げるように走って行った。
「これは、長どの。お久しぶりです。先に挨拶せずに申し訳ありません」
「いや。あれだけ子供に囲まれては無理というものだろうて」ほっほっほと笑い、話を続ける。「源翁さま。遥々ご足労頂き有難い限りですじゃ。まずは、お休みになってください。皆に食事を作らせます」
そう言うと、おじいは家の方に歩いて行き、家の中の誰かに呼びかけた。
家の中から女性が一人出てくると、脇目も降らずどこかへ走って行った。世話になる身として何もしなくては申し訳ないので、こちらも弟子たちを手伝いに出すことにした。
「私たちの突然の訪問で向こうもお困りだ。皆も食事の用意を手伝ってきてください」
「承知しました!!」円来が真っ先に走っていく。
残りの三人もすぐにそれに続いた。食事は彼らに任せておけば大丈夫だろう。
「では、私たちは輿の掃除、荷物の整理などをしましょう」
「うっす!!」
私は人夫たちと一緒に集落の端に行き、数人の人夫と輿を拭いた。崖を削った時の埃などで多少の汚れはあったが、輿は初めて見た時と同じ輝きがある。人夫たちは慎重の上にも慎重に運んでくれており、この困難な道程にも関わらず傷が全くついていないのは奇跡に近い。
「小三郎どの。この輿をまるで昨日出来たかのように運んでいただき、本当にありがとうございます」
「仕事だから当然だ」
にべもない返事だが、それが日本の職人というものだろう。
人夫たちが寝床を造り、自分たちの道具を点検している横で、私は掃除の終わった輿に結界を施し、殺生石を祓うための道具を使い易いように整理していた。すると、集落の子供が一人駆け寄ってきた。
「お坊さん。ご飯だよ!!」
そう言うと元気に走って戻って行った。
「では、皆様、荷物の整理はこのくらいにして、ご飯をいただきましょう」
人夫たちは待ってましたとばかりに笑みを作り、「うっす!!」と返事をした。
食卓は集落の中庭に茣蓙を敷いた簡易的なものだが、心を込めて作られた料理がずらっと並んだ。余りに豪華なので申し訳ない気分になったが、美味しく頂かなければそれはそれで失礼なので、楽しんで食べることにする。
村の男衆と人夫たちはどぶろくで酒盛りを始めた。そこに子供も混じって騒いでいる。
女衆も食事を運び終え、箸をつつき始めた。
私の前には、おじいと五平が座り、事の詳細を話すことになった。
おじいは、食事を一口二口すると、落ち着いた目をこちらに向けて静かに話し始めた。
「ところで、ここに来たという事は、準備が出来たということですか?」
篝火の炎がゆらゆらとおじいを照らし、おじいの声が幻想的に聞こえる。
「はい。準備は整っています。明日にでもお堂に向かい、巷で殺生石と呼ばれている、九尾の狐を封じた賀毗禮山の御神体を那須へと移動させようと考えています」
「ほう、那須にですか?」
「はい。那須は、二百年前、九尾の狐が討ち取られた場所です。彼の地は、天地がひっくり返るよう戦いが繰り広げられ、今では草も生えない毒性の地へと変貌しています。その地ならば、すべての人間に迷惑をかけずに殺生石を砕いて祓えます。それが成功した暁には、この先、数百年間九尾の狐が復活しません」
「なるほど。私たちには理解できませんが、那須の地で九尾の狐を祓うのですね」
「はい。その通りです」
私がそう言うと、村長はゆっくりと山頂の方を見た。そして、そっと手を合わせた。あの修験に祈ったのかもしれない。
「時に長。あのお堂はどうなりました?」
「ふむ。あのお堂は、村の若い衆が代わる代わる見張っておる。源翁さまに言われた通り、誰も中に入れてはいません」
「ありがとうございます。集落の貴重な労働力を割いていただいて感謝の言葉もありません」
「いやいや、この世界が滅ばないためならこれくらい」
おじいは、ほっほっほと笑いながら文句の一つも言わなかった。これ以上はしつこくなるのでお礼は言わないが、数少ない若い男性を、お堂の見張りに割くのは集落の運営にかなり差し支えた事だろう。
「せめてものお礼です。どうぞ使ってください。焉斎。あれを」
目配せすると焉斎はすぐに頷き、他の三人の弟子と共に贈答品を持ってきた。
この集落では通貨は意味をなさないので、塩や干物、干し芋など日持ちする食べ物を籠ごとごっそりと渡した。その量におじいも驚いたようだ。
頭を掻きながら「いやはや、かたじけない」と頭を下げて「五平!三、四人見繕ってこれを蔵に運べ。明日にでも皆に分ける」と言った。
「分かりました!!」
五平と集落の男衆三人で、贈答品の入った重い籠を持ち上げると、足早に何処かへと運んでいった。山の暮らしは塩が不足しがちだ。あの分量なら数年は保つはずだ。
「では、皆様。今日のところはゆっくりとお過ごしください」
そう言うと、おじいは自宅へと帰って行った。年も年なので少し休みたいのだろう。
それでは、食事に集中しよう。麓の村でも思ったが、この辺りは食に対する意識が高いのか、下手なお店で食べるよりも余程美味しそうなものが出てくる。ここでは猪肉の汁物や、魚の干物を山菜と焼いた物、山芋の料理などが食卓に乗った。
折角出して頂いたものなので、私は全て食すことに決めた。
どの料理も味噌と塩が効いていてとても美味しい。私は、命に感謝して食べきった。
仏教徒は、基本的に肉食を禁止しているがそれには理由がある。
仏教は、生きとし生けるもの全てが仏になる可能性を持っていると考え、肉食を禁じるようになった歴史がある。しかし、曹洞宗の道元禅師は、一切衆生悉有は仏性と言う考えを持っていた。つまりは衆生を含む全ての存在は仏性である、もっと分かりやすく言うと、この世の全ての存在は一つの命であるとの考えだ。生物や植物にだけ命があるのではなく、あらゆる物に命があり、我々はその中の一つなのである。だから何を食べても命を食む事になるため、野菜でも肉でも感謝して食べるべきだという事になる。さすがに積極的に食べようとはならないが、完全に禁止ともならない。
すでに周りは宴となっている。
皆が大きな声で話しながら酒と食事を楽しんでいた。
見れば、端の方で五平の家族も酒宴を楽しんでいる。私も酒とツマミの山の幸を楽しんだ。特別な日はこうやって楽しむべきであるというのが私の考えだ。
麓の村もそうだったが、娯楽の少ない場所なので、皆が笑顔で楽しんでいる。これを機に、年に一度、この集落を守る賀毗禮山の御神体を祀る祭りを毎年行ってはどうかと思う。後で、提案してみよう。
そんなことを思っていると、五平がやってきて、私の前に座った。
「源翁さま。先ほどおじいに言っていた———殺生石?ですか、あれを祓うと言っていましたが、結局あの岩をどうされるのですか?」と聞いてきた。
「あの岩を那須へ運び、金槌を使って祓います」
「か、金槌で?はあ…」
当たり前だが、どういうことなのか良く分からなかったようだ。
「私は、今回特別に清められた金槌を持ってきています。それで殺生石を砕いていくのです。できるだけ細かく砕き、九尾の狐の魂が一朝一夕ではくっつかないようにします。そうすれば、今後数百年は復活しません」
「そ、そんな事ができるのですか?」
「そのための特注の金槌です」
「なるほどです…」
五平はこのとんでもない祓い方に驚いたようだが、すぐに納得もしてくれたようだ。頭の回転が速いので話が早くて助かる。ここの集落の人々は元々それなりの人々であったのかもしれない。
こうして酒宴は深夜まで続いた。人夫たちも集落の人々に混ざって話に花を咲かせて楽しんでくれたようだ。
集落の人々がまだ寝静まっている翌日の早朝、私たちは、出発の支度を素早く済ませると、五平の案内であのお堂へと向かった。
集落からお堂までは、修験が修行に使っているだけあって更に厳しい道となる。崖のような角度の坂道も多く、しかも土が滑りやすい。時折顔を出す猪も人間を恐れないので、私たちと鉢合うと躊躇なく突進してきた。私が気で追い返した事もあれば、五平が杖で叩いて追い返したこともあった。
道の急峻さに、弟子はおろか人夫たちも悲鳴を上げた。
それでも輿は落とさないし、木にぶつけたりもしない。ひとえに小三郎が皆を上手く誘導しているからだ。そして、彼だけはどんな環境でも涼しい顔をしている。
そんな小三郎の活躍もあって、私たちはゆっくりとではあるものの、確実に山頂に向けて進んでいった。
お堂に近づくにつれ、祓い辛い悪霊も多くなってきた。
弟子たちも今までとは比べ物にならない怪異に驚きながらも、歯を食いしばって祓い続けている。山の上の方は九尾の狐の妖力の残滓が色濃く残り、未だに凶暴なままの霊もいるのだ。
そんな霊たちを追い払いながら、源翁は、昨日おりんとした会話を思い出した。
宴の最中の事だ。おりんが頃合いを見て私の隣へとやってきた。
「源翁さま。そこら辺を飛んでいる霊っていつになったらいなくなるのですか?」と、おりんはきょろきょろしながら私に聞いてきた。
私は集落の中でも霊が見えるという事に驚いた。一般に霊は人間が沢山いる場所には現れない。私でもここに霊は感じない。これは真剣に話を聞かなければならないと感じ、私は汁の入った器を下に置き、姿勢を正しておりんと向かい合った。
「まだ霊が見えるのですか?」
「はい。見えます。動物の霊が多いけど、たまに訳の分からないのもいます」
「今もこのあたりにいますか?」
おりんは迷わず上を指差して「あそこにいます」と言った。私もそこを見たが、暗がりに木が揺れているのが見えるばかりで霊はいない。本当に見えているのだとすれば、これは相当な霊感の強さだ。
「彼らは話しかけてきますか?」
「うーん。話しかけているのかもしれないけど、よく分からないです。そして、霊は襲ってきません。あと、九尾の狐さんが何か言っていたのは聞こえました」
おりんがごく普通にそんな事を言うので、私はたまげた。二度もおりんの顔を見直してしまった程だ。
私は封印された九尾の狐の魂には意識がないと思っていた。そして、おりんに見えている霊が、おりんを襲わないのは何故だろうか?分からない事が多いが、おりんは普通には持ち得ない何かを持ってしまったのかもしれない。何しろ、一度は九尾の狐になったのだから。
もう少し詳細を聞いた方がいい。私はさらに話を進めた。
「九尾の狐の声はどこで聞こえたのですか?」
おりんは一瞬目線を空に上げると、思い出しながら話した。
「五平にぃのお堂番に付いて行った時です。お堂に着いたら、その中から誰かの声がしたのです。耳を澄ますと、あの九尾の狐の声でした。以前何度も聞いていたので間違いありません。声は私には気付いていないみたいで、何だか、配下なのか…——誰かに、お前は阿波国に行け!!とか言っていました」
その声を聞けたおりんにも驚くが、封印されている中、意識を取り戻した九尾の狐にも驚嘆せざるを得ない。しかし、奴が全く外の様子が分からないとなると、封印は成功していると言う事だ。そこだけは安心できる。一刻も早く岩を祓わなければならない。
「九尾の狐は他にも何か言っていましたか?」
「うーん。はっきりとは聞こえたのは今の話くらいです」
「もう一度聞きますが、その会話は九尾の狐のそれだとわかったのですね?」
「はい。あの声は絶対に九尾の狐です。あと、言われていた人?妖怪かな?———は承知しましたと言っていました」
お堂の中には間違いなく九尾の狐しかいなかった。とすれば、九尾の狐は配下を密かに使役し、その身に隠していたのかもしれない。
「そのような声は、以前から聞こえていましたか?」
「うーん。少しですけど、自然の音以外の音もたまに聞こえていました。でも、九尾の狐が私に入ってきてからは、もっとはっきりと聞こえるようになったと思います」
「ふむ。分かりました。おりんさん。今は、そのような音が聞こえても、何かを見たとしてもそれほど問題はありません。しかし、その傾向がより大きくなった時は、必ず私のところへ来てください。良いですか?」
「はい。分かりました!!」
おりんはそう言って、友達のところへと走って行った。それを見送った私は、希望と不安を半々に覚えた。
思考が戻り、私は反射的に目を上へと向けた。
頭上にいる霊が私達を威嚇している。
口を大きく開け、ギザギザの大きな尖った歯を見せつけている。弟子達が真言を唱えて霊を動けなくしている間に、私は持っていた杖で霊の頭をゴツンと叩いた。まさかそんな事をされると思っていなかった霊は、涙目で私を睨みながら何処かに逃げていった。
私は弟子達を労い、隊列へと戻った。
おりんは、今後大きな役割を担うかもしれない。そんな予感がある。ただ、それを熟考するのはこの旅を成功させてからのことだ。
今は輿を運ぶことに全集中するべきだ。
そして、五平が「お堂まであと少しです」と皆に言ってくれた。
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