第22話 過去編 源翁心昭 可毗禮山 其一

 夜の間に蚤にやられた手足が痒い。


 何とか寝られはするものの、ひどい痒さで何度も目が覚める有様だ。

 今日の宿の部屋は、薄汚れた板張りで、その隙間から蚊やらムカデやらが這い上がってくる。心ばかりの布団が敷かれているのだが、それが蚤の巣窟となっていて、目を凝らさなくても蚤が跳ねているのが見えた。

 旅慣れしている源翁だが、これは流石に…とも思った。

 しかしながら、宿の主人が、源翁心昭という有名な僧が泊まると聞いて、善意で用意してくれた布団を使わない訳にもいかず、昨夜、源翁は、エイッとこの布団で眠りについたのだ。

 この先は怪異と戦う上で熟睡は厳禁だ。

 だからこそきちんと寝ておきたかったが、全身に違和感を感じ、常に浅い睡眠になってしまう。部屋は暗く、灯りもないが雰囲気で何かが跳ねたり、カサカサと動いているのは分かる。

 源翁は修験と山に入り、密教の修行をした事もあるが、山で寝る時も虫に悩んだ。しかし、この寝床は、その時以上に何か悍ましいものを感じる。普段は、自室に香が焚かれ虫がいない。いい場所で過ごしすぎているのかもしれない。これは修練が足りていないだけだと思う事にしたが、人間の中には、虫が気色悪いと感じる何かが埋め込まれているのだとも思う。


 そんな源翁も、ようやく深い眠りの世界へと入った。


 短い眠りの中で、無意識のうちに布団の上で寝返りをうち、足の脹脛を掻いた。頭は寝ていたが、あまりの痒さに加減ができなかった。源翁は、自分の爪で足の皮を裂いてしまった。思わず小さな悲鳴をあげそうになった。

 おかげで一気に目が覚めた。

 蚤やムカデ、ゲジゲジなどと一緒に寝るような環境では、やはりきちんと眠れない。

 しかし、文句は言えない。

 こんな町外れの名もない集落に泊まれる家があっただけでも良しとしなければならない。しかも食事まで作ってくれたのだ。多少の痒みは我慢するしかない。

 汗を拭い、布団からやおら立ち上がって周りを見た。外は暗いが薄らと景色が見える。間も無く陽の光が出てくるのだろう。足元にはムカデが数匹いたので、矢庭に摘んで外に放った。

 やれやれ、刺されなくて良かったと、少し胸を撫で下ろした。

 結局ほとんど寝られなかったが、出発するにはいい頃合いになった。

 出発する覚悟を決めた源翁は、布団を部屋の隅に片付け、道具を入れた袋を持とうとした。しかし、袋にはゲジゲジがわんさか付いていて、思わず手を引っ込めた。ため息まじりに、側にあったはたきでゲジゲジ達を追い払い、中を確認する。ゲジゲジは袋の中に入り込んではいなかった。


 良かったと胸を撫で下ろし、私はついでに持ち物を確認した。必要なものは全て入っているし、欠けているものもなかった。山の中で何かあっても、これならば何とかなるはずだ。


 すっかり支度を整え、源翁は玄関先へと向かった。

 心に戦いの火を灯し、練りに練った九尾の狐との戦いに思いを馳せる。

 すると、玄関の奥で何かが動いた。目を凝らすと、どうやら人間のようだ。近づくと、宿の主人であるのが分かった。

 驚いた事に、彼はもう起きていて、玄関先で私が来るのを待っていたようだ。

 主人はニコニコと笑いながら、「あっしは大したもの作れねえけど、腹に足しにしてくだせえ」と言って稗で作ったおにぎりを渡してくれた。

 私は、まだ暖かいおにぎりを受け取り、「ありがとうございます」と頭を下げた。

 稗とはいえ、ここでは手に入れるのが大変に違いない。宿代もそれほどではないのだから、この心遣いに感謝しなければならない。

 宿代を渡すと、源翁は背筋を伸ばして主人に言った。

「ご主人の親切に応えられるよう、拙僧、必ずや可毗禮山で九尾の狐を祓ってきます」

「源翁さまのする事に比べりゃ、これくらいは当然のことです」

 主人は恐縮しきりで、何度も頭を下げた。

 九尾の狐の恐怖は、万人に刷り込まれている。それだけ強大な怪異なのだ。殿上人から町人に至る全ての人間を恐怖に慄かせる九尾の狐は、やはり祓わなくてはならない。


 それが、どれだけ人間側の都合だとしてもだ。


「では、お世話になりました。いってきます」

「いってらっしゃっせー」

 心配顔の宿の主人に見送られながら、私はまだ暗い外へと出て、可毗禮山へと向かった。

 

 まだ暗い川沿いの道では、蛙の声と虫の声が合唱している。

 時折光るのは、人魂ではなく多くの蛍だ。人のいない河原にはこうして多くの蛍がいる。

 宿から少し歩いた田圃の畦道から可毗禮山を見上げると、風もないのに木々の葉が揺れ、山が騒ついているように見えた。ようするに私は山に歓迎されていないのだ。普通の自然は悠然と人間を受け入れてくれるものだ。しかし、この山は私を完全に拒んでいる。

 たった一つの妖が、山そのものを完全に支配できるとは恐れ入る。

 私は上に微量な気を感じた。

 咄嗟に上を見ると、山を覆う木の上を大小様々な怪異が飛んでいるのが見えた。こんな麓にまで怪異が現れるのは珍しい。しかも、彼らは、私に強烈な敵意を向けている。

 祓うまでもない怪異だが、あれほど小さな怪異までが敵意を持って警戒しているのは驚きだ。まだまだ、賀毗禮山に対する脅威の感じ方が足りないと反省する。戦いはすでに始まっているのだ。

 私は大きく息をした。そして、全身に気を行き渡らせた。

 この山で会うものは全て人間を害するものだと自分に言い聞かせ、私は目線を畦道に戻した。

 すると、田んぼから跳ねて出てきた牛蛙が目の前を通った。蛙は、ぴょこんぴょこんと飛び跳ねて、道を挟んで反対側の田圃へと入って行った。

 蛙は、非常に堂々としていた。

 あれだけ堂々としている蛙でも、本当に蛇に睨まれると動けなくなるのだろうか?と、一瞬考えた。

 窮鼠猫を噛むというということもある。意外と頑張れば大きな敵が戦意喪失することもあるだろう。力の大きさとは別の要素が勝負を決する事もある。その要素を自分なりに練ってきた。

 蛙は自分よりも遥かに大きな私の前を堂々と歩いた。この胆力を見習わなければならない。

 私はこの田圃に軽く祈りを捧げると、山へと歩き始めた。


 この間に、空は藍の色合いを濃くしていた。陽の光が出るのは間もなくだ。


 宿の主人に聞いた場所には、確かに山へと入る獣道のような道があった。

 ここの住人達も可毗禮山の霊圧は感じるようで、可毗禮山の中へはほとんど入らないと言う。しかし、山菜は取れるので、この道から少し入った場所までは行っているようだ。

 源翁は、その獣道に入った。

 土の道は踏み固められていて、確かにここまでは人間が行き来しているようだ。しかし、その道もたった十歩でなくなった。ここの住人たちは本当にこの範囲だけしか入らず、その上には行っていないようだ。

 昨日の修験だけが、この先を登って行ったのだろう。

 この先は、ほぼ手付かずの山と言っていい。九尾の狐がこの山を選んだのは妥当だとも思える。敵は来ないし、関東を制圧する時はここから南下するだけだ。戦略的に非常に良い場所と言える。逆に、私たち人間にとっては余り良い場所とは言えない。

 まず、人のいない場所には、相対的に精霊、怪異が多くなる傾向がある。その上、獣も多い。

 今、私に見えている範囲にも怪異はたくさんいる。怪異たちは、私に激しい敵意を向けている。怪異独特の気に殺気が混じる。瞬間、威嚇の声が耳に入ってきた。

 賀毗禮山には人が入って来ない。だから、ここの怪異も人間に対し、元々何の思いもなかったはずだ。これだけ怒りが蔓延しているのは、九尾の狐が怪異たちに怒りを植え付けたからだ。どうにもならない怒りを植え付け、人間を殺すことで発散させるように仕込んだのだ。

 九尾の狐は、ある意味で怪異の敵でもある。行き過ぎた支配は、必ず自然の関係性を歪ませる。


 数匹の小さな動物霊が飛んできて、源翁を囲んだ。


 彼らは爪をたて、牙を剥き出し、獣じみた鳴き声で源翁を脅した。敵う敵わないなど計算に入れず、抑えきれない憎悪だけで戦いを挑んできているように見える。

 無闇な殺生は、怪異であってもしたくはない。源翁はそう思っている。だから、普段なら小さな怪異などは祓わずに受け流してしまうのだが、今回に限ってはそうも言っていられない。祓わなければ前に進めないし、自分も傷を負う可能性が大きいのだ。

 源翁は腹を決め、向かって来る怪異を迎え撃つ為に精神を集中させた。

 怪異たちが襲いかかってきた瞬間、私は腹の中で練られた気を、声と共に怪異に放った。

 充分に練られた気が、怪異を包み込む。私の気を浴びた怪異たちは、呻き声を上げる間も無く、気に清められて溶けるように掻き消えた。これに恐れをなし、祓われなかった怪異が逃げていくと思っていたのだが、それは甘かった。

 残った怪異たちは、同胞が消えたことに怒りを増幅させ、ほとんど持ち合わせていない自制の感情を完全に振り切ってしまった。残った怪異たちが、一斉に私に襲いかかってきた。動物の霊、植物の精霊もいるが、どれを残してどれを祓うなどと、とても言っていられない。

 私は更に丹田に力を入れ、より強い気を広範囲に放った。

 上から下から一斉に襲いかかってきた怪異たちが、源翁に触るよりも早く消滅し、現世から去っていった。一瞬の静寂が周りを包んだ。

 あまりに祓いすぎて、周りが真冬のような気温になった。あまりの寒さに、私は両手を身体にくっつけた。息も白くなっている。これを繰り返すと凍死するのではないかと心配になる。

 しかし、私の運は潰えていなかったようだ。何故ならば、待望の太陽が登ったからだ。光を感じると同時に、徐々に気温も元に戻ってきた。

 昼なお暗い可毗禮山だが、急激に闇が薄まり、周りがはっきりと見えてきた。


 同時にこれで怪異も退場の時間だ。


 中小の怪異は、太陽のない暗い時間は動けるが、陽が出ると姿を消さざるを得ない。強烈な怨霊や大きな怪異になると話はまた違うが、そんな奴らは例外中の例外だ。

 何故消えてしまうのかは分からないが、古今東西和も洋も、怪異と呼ばれる何かは、夜を過ぎれば姿を消す。それは、まさに宇宙の理で、どうしてそうなのかと考えても意味はなく、そういう物なのだとしか言いようがない。禅僧として言葉で説明できないのはいかがなものかと思わないでもないが、そういうものなのだから仕方がない。強いて言えば、怪異は太陽が苦手だからと言えなくもないが、そう単純なものではないとは思っている。

 見れば、比較的大きな怪異はまだ空中を蠢いているが、太陽が出た今、もう源翁に襲いかかってくる様子はない。然るべき時に再び襲おうと思っているのかもしれない。


 山の中がはっきりと見えるようになってきた。


 そして、源翁はその光景に驚いた。

 高くて大きな常緑樹が、ところかしこにびっしりと生え、その葉が太陽を遮り、山の中を薄暗くしている。にも関わらず、地上にも多くの植物が生え、私が進むのを妨げている。

 太陽の光がこれほど入ってこないのに、地上の植物がどうやってここまで大きくなれるのかは分からない。ここでは自然の理が完全に無視されているのかもしれない。

 驚きはそれだけではなかった。今まで様々な場所に行ったが、私はこの地上に生える植物を見たことがなかったのだ。これだけ山に親しみ、山を敬っている私が見たことのない植物となると、何かがあるに違いないと思ってしまう。

 そう思った私は、自分の背丈以上ある不思議な草に触ってみた。普通の草ではあるが、妙にねばねばしており、このまま進めば服にネバネバが付いて、余りいい事にはならないのは間違いない。

 しかし、最悪な事に、どう考えてもこの植物を掻き分けていかなければ進めなさそうだ。

 可毗禮山の上に九尾の狐の黒い気を感じるし、こんなところで気を揉んでも仕方がないので、私は、えいよっと草を掻き分けて山の上を目指した。


 まだ山に入ったばかりだと言うのに、思ったよりも勾配の厳しい場所が多く、歩みもゆっくりとしたものになってしまう。ただ、それでいいと思う。陽は完全に上がったが、周りにはまだ怪異の存在を感じるし、急げば体力を急速に消耗してしまう。

 ただ、困った事もある。

 地上に生えた背の高い植物が隙間なくびっしりと生えていて、獣道すら見つけられないのだ。高い植物に塞がれ、視界が効かないのですでに方向も失いかけている。

 それでも、何とか進めるのは、頂上方面に九尾の狐の発する黒い気を感じるからだ。

 この気は大き過ぎて隠せないし、九尾の狐も隠す気はないようだ。何しろあの気よりも大きな気を持っている生き物は、この日本には存在しない。事実上、日本の生物の中で最も強いのは、九尾の狐だと言っていい。

 私はそれを頼りに進んでいる。そこを目指せば最終的には頂上付近に着くはずだ。

 そうやってしばらく進んだが、敵は思わぬところにもいた。

 おかげで痒みが酷い。無数の蚊が肌を刺し、山蛭が血を吸い、漆のような植物で肌が赤くかぶれた。それでも、昨日の宿の事を考えればまだ我慢できる。ムカデやゲジゲジが襲ってくることがないからだ。問題なのは、屹立した植物のベトベトした樹液のようなものが全身に付いて、落ち葉から虫までが服に勝手にくっつく事だ。

 都度、くっついたものを剥がすのだが、くっつく物の方が多いので、徐々に身体も重くなり、足取りも重くなっていく。


 非常にしんどかったが、私は一刻ほどそうやって登った。すると、背の高い草がなくなり、代わりに見渡す限り一面蔦に覆われている場所へと出た。


 私は全身の痒みに耐えながら、蔦をじっと見た。

 蔦は、木と木の間を壁のように塞いでいる上、地上にまで網のように広がっていた。随分と様々な山を歩いたが、こんな張り方をした蔦を見たのは初めての事だし、こんな種の蔦も初めて見た。

 やはり、ここでは常識が全く通用しないのだと、源翁は改めて警戒を強めた。


 人間の常識を信じないという方針は、この山においては間違いなく正しい。それは、背の高い植物に悪戦苦闘したことで確認済みだ。郷に入りては郷に従えを、確実に徹底することが生き延びる道だ。


 常緑樹の葉に加えて蔦が更に光を遮断している為か、ここには日中は消えていなくなるはずの小さな怪異の姿も確認できる。先ほどの場所よりも若干霊気が強いのもある。周りを飛ぶ小さな怪異が、牙などを剥き出しにして威嚇しているのを見ただけで、この蔦地帯を通るのもなかなかに厳しそうだと思えた。

 源翁は、周りを囲むように飛んでいる小さな怪異を観察した。

 まず、怪異の種類が多ように見える。

 特に虫はカマキリやカブトムシなどの攻撃的な種が多く、羽を必要以上に羽ばたかせ、尖った脚や角をこちらに向けているし、鳥の怪異などは爪を剥き出しにして敵意を向けている。蜂が出すような威嚇音が非常に耳障りで、気分的に嫌な気持ちになる。

 ふう。と息を吐き、源翁は身体の周りの結界を少し強くした。

「では行くとしますか」 

 独りごちると、私は、怪異にすぐさま攻撃できるよう、丹田に力を入れ、気を練りながら一歩踏み出した。

 地上に張っている蔦に片足を突っ込んだ瞬間だった。待っていましたとばかりに、蔦が意志を持っているかのように私の足に絡みついてきた。

「うわっ」と思わず声が出てしまった。 

 これは予想外だった。

 絡みついた蔦は、私の足に絡みついたまま動かない。この蔦たちは意志を持っているのかもしれない。こうして、私が進むのを邪魔し、動けないところを獣や怪異に襲わせようという腹なのだ。

 そんな事を考えていると、威嚇しながら周りを飛んでいた虫や鳥の怪異たちが、突如集団で襲いかかってきた。

 こんなことだろうと予想していたので、私は練っていた気を発散して、まずは襲ってきた怪異の集団をかき消した。相当数の怪異を祓ったので、周辺の気温が一気に下がった。

 今回のも、凍りつきそうな寒さだ。

 歯がガチガチと鳴り、震えが止まらないが、これも少し耐えれば元に戻る。源翁は再び丹田に気を溜める作業をした。

 さて、気も溜まったので、小さな怪異は何とかなる。ただ、問題は大きな怪異だ。身動きが取れない時に襲われるのは何としてでも避けたい。今は見えていないが、先ほどから上に何か大きな存在を感じるのだ。もしかすると緑の上に何かが潜んでいるのかもしれない。これには特に気をつけなければならない。


 源翁は、寒さに耐えながら右足に絡まった蔦を外して一歩進んだ。


 すると、また違う蔦が右の足に絡まってくる。すぐさま左足に絡まる蔦を外し、今度は左足で一歩進む。勿論、左足も蔦に絡みつかれた。

 ふう。これを毎回やるのか…

 と思ったが、すぐに心根を入れ直した。良い方に考えよう。目の前に登れない崖がある訳ではない。だから、進めるだけ有難いと思う事にした。

 一歩ずつ蔦を外すのを何度も何度も繰り返した。しばらく進むと、壁のように木の枝から地上へ伸びている蔦も手や身体に巻きついてきた。こうなると、足、手、身体と蔦を外して前に進むしかない。身体中を蔦でぐるぐる巻きにされることもあるので、常に動けるようにして、怪異に目を光らせた。

 ここで確実に体力を削らせるつもりなのだろう。

 この蔦は、体力と精神力を削る非常に効果的な舞台装置と言える。

 襲ってくる小さな怪異を祓いながら、蔦の中を少しずつ進む。

 祓う度に、異常に寒くなるので低体温症になりそうだが、その一方、蚊や蛭、その他虫達は寒さに耐えられずに死んでいく。そこだけが助かっているところだ。

 源翁は歯を食いしばって進んだ。

 寒い、そして手が悴んで感覚も無くなっている。

 敵の思惑通りなのが腹立たしいが、常に中腰にならざるを得ず、寒さで腰への負担が厳しい。時折、腰にピリッとした痛みが走るのが怖い。悴んでいる為か、握力も徐々に低下してきている。


 しかし、私とてこれくらいの想定はしてきている。体力的なことは大丈夫だ。


 問題なのは、やはり、上を徘徊している怪異だ。蔦の方に気を取られ過ぎて、怪異の監視が散漫になってしまうのだ。上空への集中力を高めてはいるが、それも限界がある。

 一刻も早く、この蔦地帯を抜け出さなくてはならない。

 なるべく上を見ながら、蔦を外しながら上を目指す。

 小さな怪異は、相変わらず集団を形成すると攻撃してきた。その度に、私はかなりの数の怪異を祓った。すると、一瞬のことかもしれないが、小さな怪異が私の周りからいなくなった。これ幸いと、急いで進むのだが、今度は気温が上がり、身体中が汗ばんだ。おまけに再び蚊や山蛭にやられるようになってきた。

 この腹の立つ虫たちを追い払いながら、水分と塩分も気をつけなければならない。

 善は急げと、水をちびちびと飲み、塩を少量舐めた。

 

 かなり進んだとは思うが、ついに腰の痛みが厳しくなったので、源翁は立ち止まって腰を伸ばした。

 腰が伸びると少しだが痛みが引いた。休憩ついでに下を見ると、すでに麓が見えなくなっていた。完全に山の中に入った事になる。周りは緑に覆われ、霊気は相変わらず強い。

 改めて、この山は異界なのだと思う。異界の中にいるのだから、登るのが大変なのは当たり前のことだ。


 源翁は、定期的に襲ってくる小さな怪異を祓い、何度も蔦を外し、そして一歩ずつ足を出した。


 少しずつ進んでいるのは分かる。しかし、腰の痛みは酷くなる一方だし、疲労も折り重なってきた。それでも、自分で決めたことなので、文句と泣き言は言わない。蔦を外して進むという作業に集中するのみだ。

 蔦を取り、怪異を祓う。これをひたすら繰り返した。

 感情は常に平坦に保たれている。平常心でいる事こそが、この異界で生き延びる全てだ。どんな事があっても落ち着いて考えれば道は開けるのだ。

 気づけば、私は相当な距離を進んでいた。

 少し休憩を入れる事にして、汗を拭き、竹の水筒に入れた水を飲んだ。それを見計らって、中位の怪異が後ろから飛び掛かって来た。休憩はしているが、警戒を怠ってはいない。私はすぐさま真言を唱え、印を切ってそれを祓った。この位の怪異になると、純粋な気だけでは祓うのは難しい。


 敵の強さが気になったので、源翁は、気を飛ばして周りの様子を探った。


 自分の感覚が正しければ、周りに強めの怪異が増えたように思う。これは注意が必要だと、源翁は、警戒の段階を一段引き上げた。

 蔦はまだまだ奥へと続いているし、相変わらず見通しも悪い。そして、今日中に山頂に着かないのは明白だった。

 

 情けない事だが、これは想定外だった。


 源翁としては、邪魔があっても怪異との戦いだけだと思っていたのだ。九尾の狐が、これほどの天然の罠を張ってくるとは思わなかった。様々なことを想定して、念入りに準備をしたつもりだったが、この山のことを、引いては九尾の狐のことをまだまだ甘く見ていたようだ。

 相手も死ぬか生きるかの世界に生きている。それほど簡単に、懐に入れる筈がないのだと自らに言い聞かせた。

 このような場所で死なない為には、自然の罠をできる限り無効化し、自分のいる場所を極力安全な場所にするしかない。答えを間違えると死んでしまう後奈良院御撰何曾(なぞなぞ集)を、ひたすら解きながら進むのと同じだと思えばいい。


 その後、源翁はできる限り必死に登ったが、日没までに蔦地帯を出られなかった。

 仕方なく、枝の太い木を探し、その周りに強めの結界を敷き、源翁は一日目の登山を終えた。

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