第23話 過去編 源翁心昭 可毗禮山 其二

 結局の所、源翁は頑張って進んだものの、二日目も蔦地帯を出られず、とうとうこの蔦地帯だけで三日目に入ってしまった。登山は遅々として進まず、山奥の九尾の狐もまだ遠い。


 兎に角腰が痛い。

 座る度に恐ろしい痛みが私を襲ってくるのだ。二日目の登山はまだピリッとくるくらいであったが、三日目の今日はぎっくり腰になってしまったのではと疑う程の激痛を、立っても座っても感じる有様だ。

 それでも、私は四六時中向襲ってくる小中の怪異を祓いつつ、羽虫、毛虫、獣も払い退け、延々と続く天然の要害を一歩ずつ進んだ。

 もう腰が限界かと思ったその時、奥が開けたように見えた。

 目を細めて見ると、枝から落ちる蔦が透けている。その奥には蔦のない山肌が見えているではないか。

 私は、最後の力を振り絞って足に絡まる蔦を抜き、木からぶら下がる蔦を潜り抜けた。蔦は最後の最後まで身体に絡みついてきたが、最後の蔦を駆け抜けるように外して、ようやく蔦地帯を抜けた。

 源翁は下を見ながら荒い呼吸で歯を食いしばった。そして、腰に手を当てて呻いた。これほどまでに身体をボロボロにされるとは思ってもみなかった。

 顔を上げると、急降下してきた巨大な怪異の嘴が私の半身を包み、閉じられるところだった。

 まずい!!

 飛び退きたかったが、酷使した腰がもう言うことを聞かない。散々上空を警戒していたのに、この失態は許されるものではない。

 大きな嘴に噛みちぎられる寸前、源翁は思い切り胸を叩いた。拳に宿した気で、懐に入れたお札を破裂させたのだ。

 怪異の鋭い歯が一瞬だけ肌に食い込んだが、お札の爆発が怪異の頭を砕き、間一髪で食いちぎられずに済んだ。しかし、背中を伝って血が流れているのが分かる。胴体が真っ二つにならなかっただけ良かったと思うしかない。

 痛みと急激な気の消費で、一瞬記憶が飛んだ。

 気がつくと尻餅をついて倒れているところだった。ほんの一瞬だけ意識が飛んだようだ。隣には鳥の怪異がバラバラになって散らばっていた。怪異はそこそこの大きさで、あのまま噛みちぎられていれば少なくとも半身は確実に持っていかれていた。

 地面に散らばる鳥の怪異を目にしながら、対応が呼吸ひとつ分ずれていたら自分がこうなっていたと、背中に寒気を感じる。私はそのままスッと上を見た。まだ何かを感じる。

 尻に付いた土を払いながらゆっくりと立ち上がり、源翁はまだ見ぬ敵との戦いに備えて丹田に気を溜めた。

 地面に散らばった怪異は、すでにその存在が消滅しかかっており、薄く透明になってきていた。これが完全に消えれば、この怪異が現世と別れを告げ、黄泉の世界へと旅立ったという事だ。


 自分が現世を去らないよう、どんな状況でも一瞬たりとも気を抜かない事を肝に銘じ、源翁は先へと進んだ。


 源翁が去ってから風がひと吹きした。鳥の怪異の欠片が消滅する間際に、多くの小さき怪異たちが猛然と突っ込んできて、その欠片に喰らい付いた。鳥の怪異は、あっという間に小さき怪異たちの中へと消えた。そうやって怪異たちは大きくなっていく。

 

 登山を再開して暫くが経った。相も変わらず背中の血が止まらずに腰の方に血が流れてくる。僧服が血で硬くなってゴワゴワしてもいやなので、私は一旦立ち止まり、血止めも兼ね、噛まれた傷に秘伝の軟膏を塗った。傷がヒリっと痛んだが、これは油断した自分が悪いので我慢するしかない。

 血も少し止まったような気がする。気を取り直して、源翁は九尾の狐の黒い気を辿った。

 どう考えても現状は厳しい。

 体力は削られ、傷も痛む。それらの回復と怪異への警戒の為、自然と登山はゆっくりとした速さになった。それでも、ここまで邪魔をしてきた植物群がないだけ進みやすいのが救いだ。勾配は急だが歩きやすいとさえ言えた。

 調子に乗って速度を上げて歩くと腰をやってしまうので、なるべく姿勢良く、ゆっくりと歩く。修験のように木の棒を杖代わりにもした。始めから杖を持ってくれば良かったと反省する。

 こうして歩きは概ね順調に行くようになったのだが、再び痒みに悩まされるようになってきた。気温が元に戻ったので、蚊と毛虫がしつこく来るのが原因だ。山蛭も血の匂いに寄ってくるので、怪異以外にも気が抜けない。ここまでくると、必ず何か一つは困難に遭うよう、九尾の狐が意図的にやっているとしか思えない。

 しばらくは、どこの山でも見かける風景が続いたが、このまま済むはずがないとは思う。こんな中でも罠は仕掛けられるのだ。言うまでもなく、この山には異常に多くの木が生えている。その木の影に多くの怪異を潜ませている可能性はある。敢えて普通の山になったのかのように見せ、それらの怪異が私の油断を誘って襲ってくるかもしれない。

 源翁は、怪異への警戒を怠らず山を登った。

 すると、霊気が少しずつ強くなってきているように感じた。また何かあるのかもしれない。


 そして、私は見晴らしのいい草地に出た。


 結局はこうなるのかと思ったが、もう諦めてここを抜けるしかない。

 草地には蔦こそ這っていなかったが、お膳立てよろしく、今までとはまた違う植物が所狭しと生えている。

 今度は見たことのない茎植物だ。

 茎植物の葉は細くギザギザしている、指先で触ってみたが、刺さって痛いという訳ではなかった。しかし、中途半端に背が高く、植物の長さは私の肩口近くまであった。先が全く見えないほど密集して生えているので、結局のところこれをどうにかしなければ上には行けない。


 ふふふ。見てごらん。おりん。ここからが見ものだね。

 九尾の狐さま。趣味が悪いです。

 そうかい?ああやって蟻んこが頑張っているのを見るのは楽しいじゃないか。

 私が斬った方が早く終わります。

 それじゃ、面白くないだろ。

 九尾の狐さま。趣味が悪いです。

 そうかい?うふふふ。

 

 上から笑い声が聞こえたような気がする。

 私は何故か腹が立ったので、これに負けるわけにはいかないと心に誓った。


 この草地は鬱蒼と茂った木に囲まれていた。全ての木々には、先ほど以上に蔦がびっしりと生えていた。あれを見るとうんざりする。しかも木は皆太く密集しているので、木の間を抜けるのもしんどそうだ。九尾の狐は、どっちが良いか選択しろと言いたいようだ。

 と言っても私に選択の余地はない。

 もうこれ以上、腰を酷使する訳にはいかないからだ。私は早速この茎植物の壁に挑戦する事にした。刃物を持っていないので、植物を切りながらは進めない。必然的にこの茎植物を手で取り除きながら進む事になる。

 早速、目の前の植物を掴んで茎を折ってみた。

 しかし、これが中々折れない。その細さの割に酷く頑丈で、折れそうになるとどういう訳か硬くなるのだ。これでは、身体ごと植物を折りながら突き進むのは無理だ。考えた結果、私は引っこ抜くのが手早いと判断した。そこで、目の前の一本を片手で引っ張ってみたが、根はかなり深くまで伸びており、相当力を入れないと抜けなかった。

 腹に力を入れ、両手で茎を持つと、「うりゃ!!」と叫びながら根を引っこ抜く。

 何とか根こそぎ引っこ抜けたが、相当力を入れたせいで両手に少し痺れを感じる。しかも植物から噴出した粘液のような物が手や顔、服にまで付いてしまい、ベトベトして気持ち悪い。この植物は抜かれると、茎からこの粘液が出てくるようだ。クヌギの樹液が身体中にくっ付いてしまったような感じで気持ち悪い。しかも、思ったよりも粘性が強い。

 源翁は、側にあった木で手を擦って粘液を落としてみたが、完全には落とせなかった。木についた粘液を見ると、粘液は緑色で、糸を引いている。これからこれが手や服に付くことを考えると、若干のやるせなさを感じた。

 結局の所、蔦が繁茂していた場所と変わらない難所だなと思う。

 手拭いで顔についた粘液を拭くと、手拭いが緑色になった。一回一回拭いてなどいられないので、最終的には緑人間になることを覚悟して、植物を抜いて進む事にした。


 うふふふふ。いいねいいね。やっぱり蔦よりこっちだよね。

 九尾の狐さま。趣味が悪いです。

 そうかい?緑のタコとか面白いじゃないか。

 私が斬れば、すぐに終わります。

 それじゃ面白くないじゃないか。

 九尾の狐さま。趣味が悪いです。

 そうかい?うふふふ。


 まずは、とっかかりの道を作る為、私はその植物を引っこ抜き始めた。数本も抜くと、手はすぐに緑色に染まった。しかも、粘液のねばねばを定期的に取らないと、滑ってきちんと掴めなくなる。この手間も九尾の狐の計算のうちだろう。

 植物の根に付いた土を何度も空中を飛ばし、私は、取り除いた植物を脇へと捨てながら道を切り開く。その作業に集中していると、ふと後ろに何かの存在を感じた。

 あの鳥の怪異のことが頭をよぎった。

 私は後ろを振り向くと同時に、丹田で練っていた特大の気を放った。その衝撃に驚いた動物が一目散に逃げて行った。どうやら、ただの鹿だったようだ。

 源翁は、やれやれと胸をなでおろした。

 あの時の反省が全く生きていない。あれほど注意していたのに、こんな作業で怪異への警戒を疎かにしてしまうなどあり得ないことだ。人間の注意力などそんなものと言えるのかもしれないが、まだまだ自分の戒めが甘すぎるのだ。

 源翁は、今一度丹田に気を込め、自分から半径三十尺に何か入ってくれば即座に迎撃できるよう、周囲に気の結界を作った。これで何者かに襲われる可能性をかなり軽減できるだろう。その代わり、気を張り続けるので、疲労は相当溜まる。


 気の結界で、敵のいない事を確認した私は、茎植物を引っこ抜き続けた。


 せっせと抜き続けて気づいた事だが、ここには所々小動物の獣道があった。獣道であれば草を抜く必要がなく、比較的進みやすいはずだ。私はこれ幸いとそれに沿って進んでみた。ところが、やはりそうは上手くいかなかない。少し進むとすぐに大木や岩、崖などに行く手を塞がれてしまうのだ。懲りずに二、三度違う獣道を行ってみたが、どれも同じで、結局は周り道などせず地道に進むしかなかった。

 元の場所に戻り、道を切り開く為にひたすら植物を抜いていく。


 一本抜いた時だ。あっさりと抜けたと思ったら大量の粘液が迸り、源翁の頭から足までをぐっしょりと濡らした。

 これだけ大量の緑の粘液を掛けられれば、頭から僧服まで完全に緑色だ。この桶に水を入れたような量の粘液は、九尾の狐がわざと配置しているのだろう。

 私は少し口に入ってしまった粘液を、ペッと吐き出し、ヤケクソ気味に次の植物を抜いた。


 うふふふぅぅぅ。今の粘液のかかり方最高だね!!うっふふ。

 九尾の狐さま。趣味が悪いです。

 そうかい?面白いじゃないか。

 私が斬ればすぐに終わります。

 それじゃ面白くないじゃないか。見なよ、緑のタコがクラゲみたくなっているよ。おふふ。

 九尾の狐さま。趣味が悪いです。

 そうかい?うふふふ。あっはっは。


 そうやって少しずつ進みながら、私は何度か九尾の狐の笑い声を聞いた。

 いいようにあしらわれていると言ってもいい。九尾の狐にしてみれば、『獣狩り』でもない人間は、大した術も使えないので、こうやって遊ぶか門前払いにでもしたい気分なのだろう。

 それでも、私は闘志を失わず、足掻くだけ足掻いて、九尾の狐を目指す。

 当たり前だが、世の中、何事もやってみないと分からないのだ。

 私には自分を待ってくれている者がいる。彼らがいる以上、どこの誰にも負けるわけにはいかない。あまりに危険な討伐旅である為、今回、私は弟子の帯同を許さなかった。そうやって弟子を待たせている以上、自分の職務を放棄して、無責任にここで果てる訳にはいかないのだ。

 半日をかけ、相当な数を引き抜いたが、この茎植物は頂上に向かってまだまだずっと続いている。この分だと、四日目の朝も同じように根っこを引き抜いているだろうと思えてきた。

 ふと、手を見てみた。植物の出す粘液がこびり付き、ほとんど真緑になっている。

 この手についた緑色は落ちるのだろうか?と少し心配になる。

 服から何もかもが、常緑の葉で染めたかのように緑になっている。誰かが遠くから見ても、全身緑色の私がどこにいるのか分からないだろう。

 それでも頑張って引っこ抜き続けていると、勾配が厳しい場所で中々手強いのに当たった。

 これは随分と奥深く根を張り、一寸やそっとでは抜けない。たかが一本だが、これを抜かないと足場が作れないので、仕方なく、私は全身の力を使い、力任せにそれを引っこ抜いた。思わず後ろに仰け反ったが、何とか踏ん張って尻餅は免れた。と思ったが、足場が崩れて下に落ちそうになった。

 慌てて目の前の植物を掴んだが、これに限ってあっさりと抜け、支えのなくなった源翁は下へと落下した。

 私は咄嗟に腰紐を抜いて上へと投げた。地面に追突する直前、投げた腰紐の先が近くの木に巻き付いて身体が叩きつけられる事は免れた。

 暫く地面に横たわっていた源翁は、息も絶え絶えに身体を起こした。

「いやはや、これはなかなか」と思わず独り言を言ってしまう。

 全くもって九尾の狐は食えないやつである。

 呼吸を整えようと、何度も息を吸い込んだが、何故かなかなか息が整わない。

 おかしいなと思ったが、そう言えばと思った。心当たりがあるのだ。

 この賀毗禮山に入ってから、少し動くだけで息が上がるようになった気がするのだ。これは年のせいではなく、巨大な霊圧のせいだ。この山は元々霊圧が相当に強い。九尾の狐はそこに目を付けたとさえ言える。この霊圧を増幅し、環境すらも支配しているのだ。だから、ここに入った人間は、ずっと何かに押さえつけられているような、身体に何かの負荷が掛かっている状態になり、そんな中で急激に身体を動かせば、それは疲れるというものだろう。

 しかもこの霊圧の強い空気は喉も痛める。

 余り大きく呼吸をしない方がいい。私は、鼻で少しだけ大きく息を吸い込むと、通常の呼吸に切り替えた。

 

 どれだけ身体に負担が掛かろうとも、一刻も早くこれらの試練をくぐり抜け、九尾の狐に辿り着かなければならない。


 源翁は、頂上への道を造る心積もりで更に茎植物を抜き続けた。

 少しずつだが道は確実に出来ていった。その分、後ろには抜いた茎植物の山ができている。

 山とは、何かの積み重ねだ。土が重なれば一般に山と呼ばれる存在になる。土の上に緑が繁茂すればそれだけで美しい。

 源翁は、頭の中に越後の妙高山を思い浮かべた。あの山は夏尚寒いが、見晴らしの良さは格別で、越後の美しさを存分に感じる事ができる。雲下に広がる越後平野は、一面緑に覆われ、大地は生命力に溢れている。空飛ぶ船の天磐船で大和に降り立ったと言われる饒速日は、雲の上であのような風景を見ていたのだろうか?だとすれば、どれだけ羨ましいことか。

 この山も九尾の狐がいなくなれば、このような変な植物が一掃され、良き山に変わっていく筈だ。


 そうやって一心不乱に草を抜き続けたが、残念ながら途中で夜の帷が降りてしまった。


 夜は夜で怪異に備えつつ身体を休めなければならない。悔しいが、今日はここまでだ。いつものように、適当な木を見つけ、その周りに結界を張る。相変わらず上空に何か大きな気を感じるので、上にも少し強めに結界を張った。

 木の上で身体を休めつつ朝を待つ。干物を齧って腹を繋ぎ、残り少ない水をちびりと飲んだ。この栄養で明日に臨む事になる。


 うふふ。頑張るねえ。

 餓死しちゃえばいいのに。

 そんな事を言わないで、おりんももう少し楽しめばいいのに。あの緑のカッパも一生懸命なのですよ。

 まどろっこしいことしていないで、私が斬ればすぐに終わるのに。

 それじゃ面白くないでしょう。

 九尾の狐さま。趣味が悪いです。

 そうですか?うふふふ。

 

 夜の間、所々で笑われていたような気がするが、無事朝を迎えることができた。

 恐ろしい事に、賀毗禮山に入って四日目を迎えたことになる。

 山の高さは近くの月居山の方が高いくらいなのに、これだけの時間が掛かるのは、どう考えても九尾の狐の力によるものだ。しかも、ほとんど眠らずに怪異を警戒していたので、疲れは溜まる一方だ。

 朝靄の中、九尾の狐の気を感じる方を見ると、その方向に向かってあの茎植物がずっと続いていた。あれだけ抜いても尚これだけ続いていると、気持ち的に厳しいものがあるが、千里の道も一歩からと思い、私は木を降りて茎植物の茂みに手を突っ込んだ。この植物を抜き続け、何が何でも先に進まなくてはならない。


 今日だけで何本抜いたのか分からないが、いつの間にか太陽が真上に来ていた。


 それだけ集中していたとも言えるが、かなりの勾配を踏ん張り続けていた事で、腰の痛みが余計に酷くなった。

 もう手に付いた樹液で抜くことも厳しくなった時、私は何とかこの茎植物地帯を抜けられた。


 茎植物がなくなると、気持ちばかり何もない場所に出たので、私はそこにあった木で全身を擦り、樹液を落とせるだけ落とした。しかし、肌や僧服はすっかり緑色になってしまって、水なしは完全に落とすことは叶わない。


 茎植物地帯を抜けた先は、少し広めの平地だった。

 しかし、全く安心はできない。私の前に、また違う植生が姿を現したからだ。しかも、今までと同じように群生している。まだ次があるのか…と言いたくなったが、挫けないと決めた手前、それは言わなかった。 


 今度の植物は、先の茎植物よりも更に背が高い。


 その高さは有に私の倍はあり、大きな一枚の笹の葉が地面から生えているといった感じだ。幹の太さも相当で、私の拳くらの太さがある。そして、茎植物地帯同様どこまで続いているのか分からないほど奥まで続いている。

 山の中腹にこれほどの平地があるのは見たことがない。にわかに信じられる話ではないが、九尾の狐は山の地形まで変えてしまったのかもしれない。

 私は、まずこの植物を触ってみた。指で軽く触れてみると、草なのかと疑問に思うほど異常に硬くて反発力が強かった。両手で折ろうとしてみたが、硬すぎて折る所ではない。引き抜こうにも、手の握力を使い果たしてもう無理だ。最悪なのは、葉の両端が本物の笹のように切れやすくなっている事だ。私は、特大の笹の葉が地面から生えてきたと思うことにした。

 

 よくもまあ、これほどの天然の要害を作りあげられるものだと、逆に感心してしまう。


 うふふ。困っているねえ。

 あの笹に切られて死んじゃえばいいのに。

 そんなこと言わないで、ここからはお楽しみが多いですよ。それを見て楽しみましょうよ。

 私が斬った方が上手く斬れるのに。

 それじゃ面白くないでしょう。

 九尾の狐さま。趣味が悪いです。

 そうですか?うふふふ。  


 熟考するまでもなく、折ることも抜くこともできないので、この巨大笹の葉をかき分けながら進むしかない。それに、ご丁寧にもこの平地の周りは切り立った崖に囲まれていて周り道はできない。当然、この丈の長い草を掻き分けて進むしかない。

 私は、意を決し、この植物の中に足を踏み入れた。まずは葉を手で押しのけてみたが、手の力だけではしなりさえしない。では、と葉に身体ごと寄りかかると、身体が入っていけるだけの隙間ができた。こうして出来た隙間に身体をねじ込んで次の葉をしならせれば、何とか前に進める。

 私は、隙間に身体をねじ込んで、次から次へと葉をしならせながら進んだ。

 この巨大笹の葉の中に入って行けば行くほど、周りが暗くなっていく。周りを囲む崖が太陽を遮っている上、頭上はこの笹のような植物が覆っていて太陽が塞がれているのだ。四方八方が緑の葉しか見えないので、ほとんど夜のような感じにもなる。言うまでもなく暗闇は怪異を呼び寄せる。

 源翁は、気の網を最大限広げた。そうしないと不意打ちを喰らいかねない。

 そんな中、突然、怪異特有の金切り声のような音が聞こえた———気がした。

 私は、心の中で警戒を最大限に高めた。相手はもう私を見つけている。


 これは気だけでは戦えない。そう思い、私は胸の前に両手を置き、常に印を切れるようにしながら随時真言を唱えた。気と術式の二段構えで戦う体勢を整えた事になる。


 いつ終わるか分からないこの巨大な葉の地帯を、真言を唱えながら必死に進む。しかし、どうにも進んでいる感じがしない。葉に身体を預け、反転しながら移動するのだが、反転する都度、方向感覚が曖昧になっているからかもしれない。

 次の草に反転しようとした所、突然、悍ましい黒い霊気を感じた。

 全身に寒気が走り、一気に緊張感が増した。

 次の草に寄りかかって体勢を整え、どこだ?と私は感覚を研ぎ澄ました。

 怪異の正確な場所は分からないが、霊気を感じた方へ私は手印を切った。常に真言を唱えているので、印を切った瞬間、対魔の術式が怪異へと飛んだ。しかし、方向感覚が鈍っているからか、放った気は半分も当たらなかったようだ。

 まずい。と思った瞬間、左手の前腕部に痛みが走った。まるで鎌に切られたかのような痛みが走り、線状の傷口から血が噴いた。せめてもの幸いは、左手が切り落とされなかったことだ。

 次に斬られれば致命傷だ。私は、気の網を拡張して怪異の方向を探った。敵が動いた瞬間、私の気の網に掛かるはずだ。

 予想通り、すぐさま私の気の網が横に動く怪異を捉えた。但し、怪異は途轍もなく近かった。

 今度は足を狙って、風の速さで飛んできた。術式では間に合わない。

 怪異が足へと飛び込んできた瞬間、私は特大の気を足下に飛ばした。今度は完璧に当たった。強大な気に押し潰された怪異は、耳をつんざくような大きな金切り声を上げた。

 足下を見ると、一瞬だけカマキリの怪異が見えたが、それも霧が晴れるようにかき消えた。


 私は、大きく息をして、心の平静を取り戻そうとした。


 精神の乱れは気の乱れ。興奮を無理やりに鎮め、目の前の事象の解決を頭に浮かべた。この怪我を放っておいては次の戦いには臨めない。

 周りを警戒しながらも、私は歯を食いしばって腕の裂傷を糸で縫った。傷の深さよりも怪異に備え切れなかったことの方が問題だと反省する。

 袋から出した消毒用のお酒を口に含み、傷口に吹いた。痛みで「うっ」と声が出る。

 常に真言を唱えて術式を使えるようにしていても、隠れている怪異を見つけて倒すのは至難の業だった。であれば、ここは術式に頼らず、気の網を張ることに集中し、ほんの僅かな気の揺らぎをも感知し、怪異の存在を察知する他ない。

 源翁は、左腕の前腕部を手拭いで巻き、簡易的に血止めをした。そして、更に大きな気を練り、怪異を察知する範囲を広げた。かなり疲れるが、最早そんな事は言っていられない。

 

 それにしてもだ。こうも容易く自然を変異させる力とは、どのようなものなのだろうか?


 道具は自然物から作れるが、自然物そのものを人間には作れない。元々あった石を削る事はできるが、石そのものを作り出せないのと同意だ。どこかに存在した作物の種を植えて発芽はさせられるが、新たな植物を作る事もできない。それができるとすれば、それは、人知を超えている。我々は、理解の及ばない事柄を、怪異の仕業として勝手に理解したことにするが、ここの植生は間違いなく九尾の狐が作った物で、この草そのものを怪異に見立てる必要もない。

 我々人間からすれば、この可毗禮山は全てが怪異という特異な空間で形成されている。九尾の狐の力の大きさを認めるしかない。

 こうやってそれを嫌でも理解させ、格の違いを見せつけているのだ。そして、私もまんまと傷を負った。


 私と九尾の狐の間にどれだけ力の差があろうと、可能性のある限り諦める訳にはいかない。

 私は体重を掛け、先へと草を掻き分けて進んだ。


 うふふ。結構な傷を負ったねえ。

 私ならもっと上手く腕を真っ二つに斬れます。

 それじゃつまらないじゃないか。もっと苦しんでくれないと。

 蟻が苦しんでいるのを見ても面白くありません。

 蟻じゃなくてタコだって。しかも緑色の。うふふう。

 九尾の狐さま。趣味が悪いです。

 そうですか?うふふふ。

 

 どれだけ進んだのかは分からないが、全身を使って植物を押しながら進むので、これまでよりも多くの体力を使う。気が完全に練られなくなる前にここを出たいが、九尾の狐がそうはさせないだろう。

 

 流石に息が苦しくなった。

 鼻呼吸を諦め、口で息を吸った瞬間だ。山の霊気が喉に傾れ込み、その上何かの虫が口に入った。

 慌てて虫を唾と共に吐き出したが、口の中には苦いものが残る。その上、山の霊気が直接気道に入り、喉が恐ろしく痛い。思わず咳き込んで胸の中まで痛くなった。下を向いて何とか咳を止めると、足の脹脛辺りが草で切れ、少量の血が流れているのが目に入った。その傷に複数の山蛭がくっ付いていた。山蛭が付くと暫くは血が止まらなくなるので、脹脛から草鞋まで血だらけになっていた。

 この植物群にいる間はいくらでも山蛭がくっついてくる。くっついた山蛭はここを抜けてから処理する事にした。

 気を周囲に向けていることもあり、草の跳ね返りなどで切ってしまい、手や身体にも傷が増えてきた。もう切れていないところはないように思う。

 結局、全身山蛭まみれになった。もう虫を吐き捨てる唾すらなかなかでない。助けを呼びたくても、呼ぶ人間もいない。こんな所に住む人間は皆無に違いない。ここに住むには、世程気骨がなければとても無理だと思う。

 間も無く夜になろうかという頃、唐突に草がなくなった。

 体重をかけられる草がなくなり、私は思い切り地べたに叩きつけられた。

「くう…痛たた…」

 思わず鎮痛な声を出してしまったが、この草地獄もここまでだったと思えば、この痛みくらい何とも感じない。何度か襲ってきた怪異も無事祓えたので、致命傷を負うこともなかった。

 震える手で、袋に入れた竹筒を出した。中には少量だが水が入っている。

 口の中に広がった苦い虫の味を追い出す為、私は水を口に含んで濯ぎ、一気に吐き捨てた。虫の足やら羽やらが吐き出した水と共に地面に落ちた。

 全くもって不快の極みだ。

 そして、次は全身にひっついた山蛭だ。

 まず、私は近くに落ちている枝と枯葉をかき集めた。そして、火打ち石でその枯葉に火を付けた。白い煙と共に火がついた所で、山蛭達を火にかけて落としていく。どれだけついていたのかと思うほど、大量の蛭が火に落ちて、その度にジュッという音を立てた。

 無益な殺生は好まないが、これは致し方がない。自分がジナ教徒でなくて本当に良かったと思う。この蛭を殺せないとなると九尾の狐どころの話ではない。火で炙ることで山蛭を落とし終えたものの、傷口から流れる血は止まらない。しばらく我慢して血が止まるまでは我慢するしかない。

 全身から発される鉄の匂いが酷い。手は緑色に変色し、服も緑と赤で不気味な色になってしまっている。

 それでもまだ生きているし、気力も衰えてはいないので、気の重さはなかった。


 うふうう。あの緑のカッパは、なかなかしぶといねえ。やるねえ。

 もうそろそろ私に斬らせてください。

 まあ、そう言わないで、もう少しだけ楽しもうじゃないか。ここまで来られる人間は只者じゃないよ。

 あんな状態じゃ高が知れています。

 分かってないなあ。息も絶え絶えに足掻いている緑のカッパが最高に面白いんじゃないか。

 九尾の狐さま。趣味が悪いです。

 そうかい?うふふふ。


 また笑われるようだ。気を取り直して今日の寝床を探そうと、私は周りを見渡した。


 すると、向こうに大きな木があるのが見えた。あの木の枝で今夜は過ごそうと、私は早速その木に向かった。着いてみると、樹齢百年はあろうかという随分と太い木で、これなら登っても枝の折れる心配もない。近くに落ちている石で釜戸を作り、私は動物避けの火を燃やした。燃料となる薪の一部を木の上によいせっと上げた。この枝を落としながら朝まで火を絶やさないようにしなければならない。

 次に、いつもの通り木の周りに注連縄を回して結界を張った。

 今日の怪異は想定以上に手強かった。こんなところで躓かないためにも、できる事はやっておかなければならない。


 そして、今日も襲っては来なかったが、やはり上空にはずっと怪異の気配があった。


 私は疲れた身体に鞭を打ち、最後の力を振り絞って枝の上に上がった。上空に向けて結界を強め、腹の足しにと丸薬を飲んだ。苦味が口一杯に広がったが、少しだけ腹の減りが治まったように感じる。

 傷口に軟膏を塗って、血止めをする。頂上まで身体を保たせなければならないのだ。

 木の上で坐禅を組むと、意識の度合いを小さくし、いつもの通り頭の中で九尾の狐に相対した時にどうするのかの問答を繰り返す。頭は働いているが身体は休んでいる。この不思議な状態を作れるのは、普段からの座禅のおかげだ。

 怪異を寄せ付けないよう火を保ち、私は一夜を木の上で過ごした。

 気がつけば、日が昇る時間となった。


 五日目の朝が来たのだ。

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