第16話 過去編 源翁心昭 其二

 有重は目的の寺へと入った。手入れが行き届いた境内は、外から見た印象通り気品と風情を感じる。


 この寺は安隠寺と言い、主である源翁心昭は曹洞宗の僧で、多くの寺を開創した事で知られる。


 その源翁心昭は、ここ下総国の安隠寺の前にも、出羽国や下野国で寺を開創している。この時代、曹洞宗を広める為に寺を開創した僧は多かれど、源翁ほど多くの寺を開創した人物はいない。

 寺を建てるに当たっては、曹洞宗に拘らず、時には修験の為の寺を開創したこともある。これは、源翁が曹洞宗に身を置きながらも、その他の宗派にも寛容さがあった為である。


 安隠寺の明り取りから太陽の光が燦々と注ぎ込まれている。これほどまでに濃い明かりが入るのも珍しい。

 基本的に寺の中にずっといるので、源翁は思わず空を見たくなった。よいせっと窓から頭を出して上を見る。


 空は抜けるように青く、雲もほとんどなかった。


 ここのところ天気も安定していなかったので、久しぶりに心も晴れやかになる。

 朝課の座禅を終えたばかりの源翁は、今朝方あまり宜しくない夢を見たので、この初夏の暖かい陽の光に心を温められた感じがした。夢の中では、十年程前に祓った鬼と化した武士の怨霊が再び現れ、あの時の紙一重の戦いをもう一度やる事となった。

 現実に還った今でも、あの時の戦いを思い出すと冷や汗が出る。

 何故、今日そんな夢を見たのかは分からないが、世の中平和に越した事はない。


 少し外に出たくなったので、源翁は寺の祭壇前から庭先の修行場へと向かった。緑の匂いを運ぶ風が頬に当たり、心地よい気分にさせてくれる。丁度目に入った、修行場の掃除と片付けをしていた小僧の円来を呼ぶ。

「円来。少し良いですか?」

 円来は掃除の手を止め、「はい!」と元気よく返事をして駆けて来た。若いので息も切れない。

「円来。お掃除の後、あの庭木を剪定してから修行に努めてくれませんか?」

 円来は後ろを見て、指定された木の枝を確認した。確かに少し出ている枝が何箇所かある。

「はい。承知しました。大和尚様」

 円来は更に元気に返事をすると、早速、道具を取りに走って行った。

 修行場の掃除を終えてからで良いのにとは思ったが、動きながら考えることも必要かと思い直す。

 どんな行動をしても、最後に目的に辿り着けば良いのだ。もちろんその過程は大事だが、それは各自修行に励んで判断力を上げていけば良い。


 ついでにと、源翁は寺の庭を眺めた。


 砂利は鉄製の熊手で綺麗にかけられている。木々も水が行き渡っており青々としている。見ているだけで、心が洗われる庭だと思う。これを庭師ではなく坊主がやっていると知った人は、当たり前だが皆驚く。

 寺の庭は、綺麗にしておけばいいというものではない。考えられた空間を造ることで、この寺の概念をそこに表現しなければならない。源翁は弟子たちに発想力を持ってもらいたいと、庭の半分を弟子たちが独自に造る空間にしている。今しがた指定した木は、源翁の担当場所だ。

 

 庭に満足した源翁は、祭壇へと引き返した。昼ご飯までの間に、溜まった雑務をこなすためだ。

 別棟の厨房へと向かう小僧に、自分が祭壇横の部屋にいることを告げ、早速その部屋へと向かう。

 この部屋は、三つの鍵で厳重に施錠され、その中身も厳重に秘匿し、源翁自身が管理している。ここは寺の財産を管理している部屋なのだ。源翁はその部屋へと入り、まずは檀家のお布施の整理を始めた。

 ありがたいことに、源翁がここに安隠寺を開創してから十年ほどが経った。

 その間、順調に檀家も増え、安隠寺では複数の弟子が安心して修行に励める環境を整えられるに至った。

 まず、曹洞宗は他宗派に比べて修行が厳しい。それ故に、修行が円滑にできる環境を作ることが、寺の運営上非常に大切なことなのだ。


 帳簿を捲って、さて仕事をしようかという時に、部屋の扉が叩かれた。


 源翁が「何事ですか?」と聞くと、枝を切っていたはずの円来が口を開いた。

「大和尚様。お客様が見えております。何やら急用とのことです」

「分かりました。すぐ行きます」

 源翁は、折角出した帳簿を元の隠し扉の中に隠すと、部屋を施錠して玄関先へと向かった。

 急ぎとの事だが、源翁は走らない。何故なら、早朝に掃き清められた廊下は塵一つない上、磨かれすぎて滑るのだ。弟子の真面目さがこの滑る床を作り上げている。


 源翁が、玄関先に着くと、身なりの良い若者が一人立っていた。

 このような場所に、貴族が着るような服を纏った人間が来る事はほとんどない。急用との事だしこれは何かあるなと、源翁は充分に気を引き締めた。


 若者は、源翁を認めると頭を下げ、挨拶をした。

「初めまして。私は安倍有重と申します。京の陰陽寮からやって参りました。源翁禅師に大事なお願いがあります。まずは私の話を聞いていただけないでしょうか」

 一瞬、源翁は耳を疑った。しかし、訪問客は彼一人なので、今のは間違いなく彼の言葉だ。

 安倍姓を持つにも関わらず、至極丁寧な挨拶をした。これは驚きに値する。大抵の場合、貴族は下々の人間に横柄な態度をとり、京言葉で偉そうに話すものだ。そんな貴族が斯程に丁寧な挨拶をしたのは、彼の性格的特性なのか、それともその『お願い』への布石なのかは、今のところ五分五分だ。

 実際どちらなのかは、話してみれば分かる。

「初めまして。この寺の主人の源翁心昭です」

 源翁も丁寧に頭を下げた。たまたま案内で隣にいた円来も深々と頭を下げた。


 若者は、一見穏やかそうに見えるが、目は真剣そのもので、源翁をじっと探るように見ていた。


 もうすでに私の観察が始まっているのだろう。彼の目的が何であれ、彼は私がその目的に足る人物であるのかを慎重に見極めているのだ。

 源翁は、有重の観察に気づかないふりをして、寺に招き入れることにした。

「分かりました。立ち話でするようなお話しではないようですね。奥で話を聞きましょう。まずは上がってください」

「ありがとうございます」

 草履を脱ぎ、きちんと並べると、有重は寺へと上がった。円来がその草履を靴箱へと持って行く。

「円来。私たちは、私の自室でお話をします。お茶を用意して持ってきてください」

「はい。承知致しました」

 円来は、そのまま厨房へと走って行った。有重はその様子も目で追っていた。

 やれやれ、油断ならないと源翁は背筋を伸ばした。

「では、こちらへ」

 源翁は、有重を最奥にある自室へと案内する。

 自室ならば、誰にも話を聞かれずに話ができる。あの部屋はそういう造りにしてあるのだ。

 歩きながら、源翁はふと今日見た夢を思い出した。あれは、この訪問の予兆だったのかもしれないと思ったが、物事を勝手に決めつけるのは宜しくない。一つ一つの事実を確定させてからそう考えるべきだろう。

 有重は、首は動かさないものの、目だけを忙しく動かしながらついて来ている。全てを観察しないと気が済まない性格なのかもしれない。

 ただ、ここまでの有重を見て、源翁は一つだけ気づいていたことがある。

 本人はおくびにも出さずと思っているのかもしれないが、彼の表情はかなり切羽詰まっている。源翁はこれまでに海千山千の人間とやり合ってきたので、その辺りの雰囲気がはっきりと分かるのだ。しかも、京からこんな僻地に来るとは余程のことがあったはずだ。


 廊下から外の庭園が見えると、有重は「素晴らしい」などと感心していたが、その直後に磨き抜かれた廊下で転びそうになっていた。

 この廊下は集中を切らすと、滑って転んでしまうのだ。

 若干恥ずかしかったようで、「廊下もよく手入れされていますね」などと言いながら、手拭いで額の汗を拭っていた。


 祭壇の先の廊下を曲がり、さらに進むと源翁の自室へ至る。


 有重は前を行く源翁を見ながら、この人は、ここまで会ってきた人々とは何か違うと思っていた。うまく言えないが懐の深さを感じるし、何も話していないにも関わらず、自分の目的をある程度見透かしている気分にもなるのだ。寺も管理が行き届いているし、庭の空間には仏教的宇宙を感じる。

 何か大きな可能性を感じてはいるが、それが当たって欲しいと祈らずにはいられない。


「では、お入りください」

 源翁は、有重を自室に招き入れた。

「失礼します」

 有重は慎重に部屋へと入った。

 自室は一人使用で造られているので狭いが、二人で話ができるくらいには広い。写経用の机と椅子、小さな本棚以外は寝具を入れる籠があるだけなので、空間も広く見える。

 椅子を薦めて有重に座ってもらうと、源翁も椅子に座った。

「大和尚様。お茶をお持ちしました」

 戸を叩く音と同時に円来が言う。

「ではここに持って来てください」

 円来は緊張気味に部屋へと入ると、机にお茶を二つ置き、お盆を抱えて「失礼します」と言って部屋を出ていった。

「遠いところお疲れでしょう。お茶をどうぞ」

「では、失礼して」

 一口お茶を啜った。程よい濃さのお茶で心が落ち着いた有重は、大きく息をして源翁を見た。 


 さて、頃合いか。

 源翁は話しを切り出した。


「さて、有重どの。急用との事ですが、この私に何用ですかな?」

「はい。単刀直入に言いますと、この程、九尾の狐が復活しました。そして、我々はその九尾の狐を祓える人間を探しております」


 九尾の狐!!

 源翁は言葉に詰まった。目を見開いたまま有重を見ることしかできない。

 まさか、そんな理由でここに誰かが来るとは考えてもいなかったのだ。音に聴く大妖怪がこの時代に現れたか。

 それにしてもだ…

 九尾の狐を祓う。

 それは、命を懸けて取り組まなければ、とても達成できない任務だ。やはりあの夢は人間の危機を象徴していたようだ。


 源翁は一呼吸置いて、頭を整理しながら話を進めることにした。有重の顔も緊張の色が濃い。


「なるほど。九尾の狐ですか。それで私のところへいらしたと?」

 有重は、ここぞと思ったのか、椅子から立ち上がって話し始めた。意外と熱血漢なのかもしれない。

「はい。九尾の狐を祓える人材を求め、私は京を始めとして様々な場所を回りました。しかし、誰一人として快い返事をもらえませんでしたし、この時代に九尾の狐を祓える人間はいないとまで言われました。

 熱田神宮でも断られ、私が参っていた折、那古野で出会った曹洞宗の僧に、源翁さまを教えていただいたのです。その方は、源翁様は悪霊祓いの経験も豊富で、霊との戦いにおいては他の誰よりも一日の長があると申しておられました」

「ふむ。那古野とな」

 熱田の圓通寺には私を良く知っている人間はいない。という事は、たまたま總持寺から誰かが来ており、私の名を出したと考えられる。縁というものは、必ず繋がるようにできている。その僧が私の名前を出したのも、私がこの有重と縁があったからこそだ。

「ふむ。もう少し詳しく話して頂けますか?」

「分かりました」


 有重は顔を引き締めた。

 源翁がこれ以上の話を聞くという事は、少なくとも、彼はそれが出来ると思っているのだと判断できる。身体が熱くなり、話にも力が入る。

「まず。九尾の狐が復活したのが分かった経緯について話します」


 有重の話は驚くべきものだった。話の大きさが桁違いだと言える。


 まず驚いたのが、鎌倉公の夢に九尾の狐が出てきて関東を滅ぼすとのたまった事だ。そして、その話が京へと行き、第三位の安倍有世が、この有重を抜擢し、その彼が最終的にここに来た。話に出てくる人物が大物すぎることもあり、余り現実的に考えられないが、最終的には九尾の狐に収束するのだから、ここは九尾の狐のことだけ考える事にした。

 余計なことを考えると、進べき道を見失ってしまうものだ。


 源翁は聞き終わった後、考えることが多すぎて「そうですか…」としか言えなかった。

 

 いかに魂の状態とはいえ、九尾の狐を祓うのはその辺の怨霊を祓うのとは訳が違う。そして、有重が強調したように時間がないのも事実。あんなものが実態を取り戻しては、もう手がつけられない。

 畳み掛けるように有重が言った。

「そして、私の元にもう一つ情報が入って来ました。それは九尾の狐の居場所の情報です」


 それは、ここから西に四十里ほど行ったところだった。

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