第17話 過去編 源翁心昭 其三

 有重は、「九尾の狐の居場所は、常陸国の賀毗禮山です」と源翁に伝えた。


 下総国の隣かと、源翁はまだ見ぬ賀毗禮山に一瞬だけ想いを馳せたが、それは本当に一瞬で、一気に自分の精神世界へと入った。そこでは、九尾の狐という妖怪について、そして、常陸国という場所、それを総合してどのようにすれば祓える可能性があるのかを考えた。


 有重は、思索に耽っている源翁を細かに観察した。

 源翁は顎の辺りを掻きながら遠くを見ている。何を見ている訳でもないので、完全に周りを遮断して九尾の狐の事を考えているようだ。瞑想とでも言うのだろうか、禅僧はこれができるから凄い。


 自分にこれができればと思うが、できない事を考えても始まらない。有重は今の任務に集中した。 


 源翁がここまでやってくれている以上、自分も腹を括らなければならない。頭の中で自分に出来る事とやれることを必死に整理する。全力で取り組めば、時に奇跡は起きる。

 九尾の狐を祓ってほしいと言った瞬間に、目ぼしい人間には軒並み断られた。もう後がないし、時間もない。九尾の狐が力を取り戻してしまえば完全に詰んでしまう。もし源翁が引き受けてくれるのであれば——本当に彼に実力があるのかを見定めた上にはなるが、全力でそれを成就させたい。

 金額はもう気にしない。何しろ足利家にも天皇家にも関わる話しだ。いくら注ぎ込んでも問題はない。

 そして、要求された物はあらゆる手段を使って供給する。しかも、確実に効くものをだ。こういうのだけは得意だ。

 文官が役に立つのは、こういうところしかない。


 源翁は未だ思索の世界にいる。

 この源翁の思考が終わったら、まずは彼が実際にどうやって祓うのか、そして全てを賭けるのに相応しいかの判断を下す事にしよう。そんな事を思っていると、遠くを見つめていた源翁が私に視線を戻した。

 すかさず、有重は源翁に話しをふった。

「源翁さま。復活を遂げた九尾の狐を、如何にすれば祓えるとお考えでしょう?」


 有重の質問を聞くやいなや、源翁は椅子から立ち上がり、目をカッと開け、有重を見た。


 その目力に圧倒された有重は、危うく後ろに倒れそうになったものの、左足を一歩下げることで何とか踏みとどまった。しかし、畳み掛けるように源翁の人差し指が有重の額の前に突き出された。すると、何かの力が額に突き刺さり、それに突き飛ばされた有重は、結局床に尻餅をついてしまった。

 身体に一つも触れていないのに、どうして転んでしまったのか、有重には理解できなかった。

 

 源翁は、有重に手を貸して立ち上がらせると、薄く笑った。

 どうやら試されていたのは自分だったのだと有重は理解した。今のは、怪異との戦いの基本も分かっていない事を理解しろという源翁の教育的指導だ。

 どうやらこの源翁心昭という人物は、思った以上にできる人物のようだ。このような人物が関東の僻地にいるのが信じられないが、このような地にいたからこそ、大きな怪異との戦いを経験できたとも言える。

 因果とは、不思議なものだと有重は思った。


 有重が私の資質を知りたがっていたのは分かる。相手が相手だし、ここまで軒並み断られてきた経緯もある。しかし、怪異の祓いができる人物かは、会話だけで判断する事は決してできない。その人間の気や術式を実際に見なければならない。お願いしても術式を見せない人間は、ハッタリの可能性が高い。

 少しやり過ぎたようにも思ったが、気は体験してもらった方が分かりやすい。弟子も初めて気を体験した時は驚いて目を剥いていた。

「これが気の力です。今、其方は私の圧力を受けて転びました。しかし、私は其方に一切触れていません。この力は様々な怪異祓いに応用できるのです。力のある寺院、神社のお札を使えば、神聖なる気で結界を創れますし、私の気を乗せて怪異に攻撃もできます。勿論、普段から鍛錬をしていますので、最悪、お札がなくとも真言と印を切る事で怪異と戦うこともできます」

「な、なるほど。しかし、源翁さまは曹洞宗の僧であられます。何故、天台密教の真言と印を使うのですか?」

 有重は、何故なのか分からないという顔をしている。

 源翁は、その訳を話した。

「悪霊、怨霊、その他怪異との戦いは、一つの宗派を極めたところで、とてもできるものではないのです。過去の術師たちが創り上げた多くの技術を組み合わせて初めて、恨みの塊と化した怨霊に立ち向かえます。

 ただし、頭でっかちでもいけない。要するに知識だけでは駄目なのです。怨霊や怪異との戦いは、様々な技法を駆使するため、経験を積むことでしか効き目を実感できない。だから、今の京の坊主、神主たちは怪異と戦えないのです」


 まさに、紀顕生の指摘した事そのものだ。しかも頼子の言い分とも合致する。有重は、少し興奮してきた。これはもしかするともしかすると思えてきたのだ。


「で、では源翁さまは、数多の祓いを経験していると?」

「勿論です。その事を知らずに私のところへ来たのですか?」

 確かに有重は、那古野で源翁は悪霊祓いが得意だと聞いたが、実例をそれほど詳しく聞いたわけではない。

「那古野の圓通寺で、總持寺の僧から源翁さまは悪霊祓いが得意だとは聞きました。数は分かりませんが、それなりに熟しているのだろうとは思っていました」


 まあ、そんなものだろうと思ったが、源翁は話を続けた。

「『それなりに』では駄目なのです。怪異との戦いは、数百という失敗と数回の成功を糧にして、ようやく入り口に辿り着けるのです。まずはそれを理解してください」

「数百…」

 有重は素直に驚いた。

 怪異を祓うというのは一朝一夕ではいかないのだ。数回祓ったことがあるなどと言っているうちは、決して大きな怪異は祓えない。源翁の話は、有重に貴重な判断基準を与えてくれる。


 有重の青ざめた表情を見た源翁は、彼が、ようやく怪異を祓う戦いとはどういう事なのかを理解できる土台に立ったと思えた。何しろ数百というのは、決して誇張した数字ではない。ほとんどの怨霊に対して全く効かない術式が、一部の怨霊には効いたりするのは当たり前で、怪異との駆け引きもある。人間の戦いと同様に、怪異それぞれの個性に合わせて戦うのだ。これは経験なしにできるものではない。


「小さき怪異を祓うことで身につけた術式を、中位の怪異で使えるようにするにも相当な年月がかかります。祓えない事も多々ありましたし、術が効かなくて死にかけた事も一度や二度ではありません。それでも、できる事を考えながら怪異に立ち向かっていくと、何とか中位の怪異も少しづつ祓えるようになってきます。そして、その先に、人間の恨みの塊ともいうべき、巨大な怨霊との戦いがあるのです」

 源翁は、有重に諭すように話した。


 有重はこの話を聞いて、ようやく怪異を祓うという事の凄さを理解した。

 確かにここまでの事をしなければならないとなれば、怪異の出なくなった京の人間に祓いをお願いしても無理な話だ。そして、この土俵に立っている人間が、日本中探してもほとんどいないという事実にも納得できた。


「数年前の越後国にな、鬼と化した武士の怨霊が出たことがあります」

 源翁は、目を瞑ってその時の事を思い出しながら語る。

「その怨霊、何しろ剣技が優れている上、頭が良くて手が付けられない。そんな怪異に手を焼いた越後国から私にその武士の怨霊を退治してほしいと連絡が来ました。その頃の私は、かなりの経験を積み、上位の怨霊も祓えるようになっていた事もあり、二つ返事で越後に赴きました。

 そして、程なく私はその怨霊と邂逅しました。

 しかし、その怨霊がまだ遠くにいるにも関わらず、私は恐怖で竦んでしまったのです。これはまずいかもしれないと、その時は本気で思いました。今でもそれを思い出しただけで冷や汗が出るほどです。

 その怨霊は山のように大きく、瘴気を撒き散らし、刀を振り回しながら目に入るもの全てを切り刻み、奇声を上げていました。卑怯な手で殺されたという武士の怨霊の恨みは凄まじく、縁因を慰める為に祈る程度ではとても祓えないとすぐに分かりました。こうなると戦うしかないのですが、その剣技が念阿弥慈恩直伝の念流で、迂闊に近づく事もできないのです」


 話しながら、源翁はよく生きていたものだと思った。しかし、九尾の狐は、この武士の怨霊よりも遥かに手強い。

 完全に話に入ってしまっている有重は、「そ、それで…?」と続きを急かした。


「まともに戦っては勝ち目はない。私はその場でどうすれば良いかを考え、二つの選択肢に絞りました。

 一つは供養塔を建て、そこに封印するというものです。供養塔にこの怨霊を封じ込めて、誰も近づけない完全なる禁足地にするのです。もう一つは、何らかの手を講じ、剣を握らせないよう怨霊の腕を気で切り落として動きを封じた後、他部位も切ってその場所で祓うというものです。供養塔は建てるのに時間がかかることから、怨霊の腕を切り落とすこととなりました」


 源翁は茶をグイッと飲み、喉を潤すと湯呑みを再び机に置いた。


「この怨霊は頭が良かった。私が他の僧にお願いして仕掛けてもらった罠を悉く破ってみせたのです。そこで、私はそれを逆手にとって駆け引きをすることにしました。普通の怨霊は突進してくるだけで、人間らしさはほとんどありません。しかし、この怨霊に限っては、武士の感覚が残っているのです。それを利用しない手はありません」

 有重は息を飲んで聞いている。

「話は飛びますが、私の若い頃、医療の為、能登国へと赴いた京の陰陽師がいました。その陰陽師は非常に人が良く、私に式神について教えてくれました。私は見よう見まねで紙人形を使役する方法を教えてもらったのです。勿論、安倍晴明が使役したという十二天将に比べれば、その強度は相当に落ちますが。

 そして、もう一ついいことを教えてもらいました。それは、怨霊にはやはり式神が一番効くということです」

 源翁は両手の人差し指で、式神はこれくらいの大きさだと見せた。有重は静かに頷いた。陰陽寮にある紙の依代と大体同じ大きさだ。あれを使っている人間を見たことがないが。

「私は、怨霊が目の前に来ると、五体の式神に命を吹き込みました。

 式神は空中で静止し、怨霊を待ち受けます。道の木を切り倒し、田畑を枯らしながら、ついに怨霊は私の前へとやって来ました。そして、怨霊は私の存在に気づきました。

 怨霊が刀を振り回すと、とんでもない大きさのかまいたちが私を襲ってきました。

 私は地面に仕掛けておいたお札で硬い土の壁を作り、そのかまいたちをいなしたところで反撃に出ました。

 この怨霊は、元々は剣の実力は北陸で一番と言われていました男なのです。そんな彼を倒して名を上げようと勝負を挑んできた剣士がいました。その剣士はまともに勝負しても勝てないので、潜ませておいた部下に男を後ろから切らせました。

 男は卑怯者と連呼しながら命を落としたそうです。

 私は、そのため、この怨霊が後ろを非常に気にしていると踏みました。

 さて、私の作った式神のうち、本当に強いのは一体だけで、他の四体は荷物運びがようやくといった式神です。

 私は、その弱い四体を怨霊の後ろへと飛ばし、待機させました。そして、まず強い一体を怨霊へと飛ばしました。唯一強かった一体は、あっさりと奴の刃に撃ち落とされました。すぐさま、私は後ろの四体を怨霊へと飛ばしました。後ろから迫る式神に気づいた怨霊は、すぐさま後ろを向いて、その四体に襲いかかりました。

 当時の苦い記憶が刻まれている怨霊は、私の読み通りに後ろから来る敵に過剰に反応しました。

 そして、私はそれを待っていたのです。

 最初の一体は、わざとやられたふりをして地に落としていたので、すぐに空中へと浮かし、私の持ちうる全ての気を注入して奴へと飛ばしました。四体の式神を片付けた怨霊がこちらへと向いた瞬間、光の刃と化した式神が怨霊へと突進し、剣を持つ右腕を切り落としました。

 剣を持てなくなった怨霊は当然暴れました。

 しかし、剣で撃ち落とされる危険がなくなったことで、私は式神を全力で操れます。手、足を式神で切ると、さすがの怨霊もその場で進めなくなりました。

 その代わり、怨霊の傷跡から大量の瘴気が漏れ出しました。辺りが瘴気で真っ暗になったほどです。

 それからが大変でした。怨霊がこの場から出ないよう結界を貼り、山のような大きさの怨霊に瘴気を吐き出させ、大きさを小さくしていきます。

 私は経を唱えながら、寝ずの番をしました。

 その後、四日目に瘴気を出し尽くした怨霊は、ようやく私たちと同じ大きさにまで小さくなりました。最後に、私はその怨霊に特性のお札を貼り、動きを封じ、曹洞宗の悪魔祓いの経を唱えました。

 こうして怨霊は消滅しました。

 この手の怨霊は絶対に改心しませんし、この世の未練を断ち切ることもできません。だからこそ山のような大きさの怨霊になるのです。ですから、できるのであれば完全に祓わなければなりません」


 とんでもない話を聞いたことで、有重は、何か言いたかったが声が出ない。


 一気に話した源翁は、また茶を飲んで、ふうと一息吐いた。

 まあ、格好つけて一撃で腕を切り落とした事にしたが、実は何度も避けられ、苦し紛れに放った式神がたまたま当たったというのが真相だ。あれが当たらなければ、確実に私が死んでいたと思う。頭が良く、身体能力のある怨霊が手強いという教訓を得るのには充分な相手だった。

 ただ、一度勝っているという経験が重要なのだ。

 どのようにすれば勝てるのかを知っているのと、全く知らないのではやれることが全く違うのだ。だからこそ経験が重要だと耳にタコができるほど言っている。


 有重は、まだ押し黙っていた。

 何か感想を言わなければと思ったが、言葉が出てこない。これほどの話は聞いたことがない。そして、これほどの経験をしているのは、この源翁心昭くらいのものだろう。


 有重はようやく心が落ち着いたので、源翁にお願いをすることにした。


「貴重なお話ありがとうございました。怨霊祓いがどれだけ大変なのか理解できました。そして、源翁さま以外の方々が軒並み断った理由もよく分かりました。それを踏まえて、改めて九尾の狐の祓いをお願いしたいと思います。まずはこの文をご覧になっていただきたいと存じます」

 有重は懐に手を入れ、西陣織の入れ物を取り出すと、その入れ物から丁寧に文を出した。

 

 その式典をしているような動きは、貴族と言うに相応しい振る舞いで洗練されている。この神職、役人、学者を一体化したような雰囲気で安倍とくれば、やはりあの安倍晴明の子孫だろうなと源翁は思う。


 有重は、恭しくその文を源翁に差し出した。

「拝見させていただきます」と言い、源翁も両手を差し出した。


 文を受け取った瞬間、源翁はその手触りに驚いた。これは、何という滑らかさか…

 その紙質は、上流貴族でもなければ一生お目にかかれないもので、きめ細かい繊維の滑らかさは尋常ではない。これほどの和紙で書かれた文など見たことがない。幕府も朝廷も九尾の狐に相当な脅威を感じているのだ。

 見た目も実に立派で、折り目を付けることすら勇気がいった事だろう。

 私は、破れないよう充分に気を配ってこの文を広げていった。中の文章も、恐ろしく丁寧な文字で書かれていた。清書奉行が、その一字一字に魂を込めて書いたに違いない。


 中身は驚くものだった。

 足利義満と第三位の安倍有世が、窮状を訴え、九尾の狐の討伐を要請していたのだ。

 そして、これは日本全体のためだと書かれていた。九尾の狐に実体が戻れば、最早打つ手はなく、この日本は焼け野原になるだろう。と結ばれている。

 

 源翁の予想とほぼ同じだ。朝廷の上はこの危険度を分かっている。


 この文で指摘されているように、魂の状態の九尾の狐であれば、まだ祓える可能性があると源翁も判断した。

 ただし、それでも準備するものが多い。果たしてそれが間に合うのか、そして、自らも心を鍛え直さなければならない。


 その前にもう一つ聞いてみたいことがある。


「有重どの。一つ聞いてもよいですか?」

「はい。何なりと」

「其方は、『獣狩り』についてご存じですか?」

「は————…」

 一瞬、言葉が詰まった。まさかここで『獣狩り』の話が出るとは思わなかった。

 ただ、この源翁に隠し立てをしてはならない。信頼関係に関わるからだ。有重は、『獣狩り』について知っていることを話すことにした。

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