不敵

 昨日と同じ地獄の時間。しかし、今日は心の余裕が違う。


 よそ行きようの作り笑いの精度が段違いだ。面白いぐらいに取り繕えているのが面白い。


 あれだけ昨日は長く感じた時間が、今日はとてもあっという間に過ぎ去ってしまった。


 現在の時刻は午後4時ぐらい。クラスの出しもので使った道具類の片づけや分解を行う時間だ。


「よお。無事だったか」

「大丈夫だったかい? 疲れてるなら無理しなくて大丈夫だからね!」

「その分、後夜祭の演奏に集中してくれよな!」


 昨日が相当にボロボロだっただけに、凛を含め色んな人が口々に心配してくれている。良き友人たちに恵まれたことに、僕は感謝の気持ちでいっぱいだ。


 彼らへの感謝の気持ちも忘れずに、後夜祭の演奏に臨むべきだろう。


『すっかり復調したみたいだね』


 みんなの厚意に甘え、一足先に後夜祭会場である体育館隣にある控室の椅子に座っていると、響くんが話しかけてきた。


 彼にも随分と心配をかけさせてしまったなと改めて思う。


「うん。もう迷わないさ」

『そっか』

「僕の軸をやっと見つけられた、とも言えそうだよ。笑顔を少しでも多く増やすため演奏するのは二の次。僕が愛する人たちのために鍵盤を全身全霊で叩く。それが僕の、新しい軸だ」


 ずっと、何となくでピアノを続けてきた。演奏してきた。特筆たる動機も、軸も何も持たないまま。


 小さい頃は、ピアノの演奏を聴いて笑顔になってくれる人がいっぱい見られたから。そして、笑顔を見るのは好きだったから。ただそれだけの理由で弾いていた。


 やがて、そんな陳腐な目的を幼稚に感じ、何も抱かず鍵盤を叩くようになった。心愛と出会うまでは。


『行きすぎた他人優先な思考は咎められることが多い。でも、誰かのために動く人間が発揮する力が強大なのもまた事実』

「響くんも、やっぱりそうだった? 琴葉ちゃんのために弾くのを軸としてたとか」

『無論だよ。彼女の笑顔に勝るものはない』


 演奏を大きく評価されるようになったのは、心愛と出会ってからである。


 とりわけ、彼女を想って演奏した曲の評価は異常に高いのだ。


 次に評価が高いのは、自分に近しい人を想って演奏した曲であるが、まあこれは心愛の事例を考えれば必然だろう。大切な人を想って演奏した曲の完成度は素晴らしい。


「案外、君と僕は似てるのかもね」

『愛する人を想って鍵盤を叩くことが?』

「そう。神童と凡人の間に共通点なんて見つからないと思ってたけど、やっと見つけられた気がするよ」

『……君も凡人ではないと思うけどね』


 他にもあるかもしれないが、今のところすぐに思いつくのはそれぐらいだ。だが、それでも十分すぎるだろう。


 凡人発言に関しては響くん含め、これまでも何人かに否定されてはいるが、こればかりは譲れない。僕は凡人。覆しようのない事実である。


 そんな凡人でも、神童と並んでみんなに誇れるものがある。僕はそれで満足だ。


 意見を覆すつもりがないことを悟ったのか、響くんはそれっきり言葉を発さず大人しくなった。


 僕も特段語ることがないので黙っていると、不意に扉がコンコンとノックされ、誰かが部屋に入ってきた。


 入ってきた人物を見て、ほんの少し僕は顔をしかめる。


「名倉さんですか。何か用で?」

「愛する未来の旦那様の姿を見にきたんですよ」


 心底面倒だと感じるが、それを顔に出しはせず頷くにとどめる。


 彼女は随分とやる気を出しているらしく、服装も演奏会で着るようなドレスだ。しかも純白。いったい何を意識してるんですかね。


「ふふ、楽しみです。この後夜祭における演奏会を完璧に終わらせれば、私は貴方と一緒になれる。あの女狐も、本当の意味で始末できる……」


 なるほど、そう考えているのか。


 僕の伝え方的にも、彼女の認識の仕方はあながち間違っていない。実際、そこまで宣言しなければ彼女は誘いに乗らなかっただろうと僕は考えている。


 だが、彼女はどうも見通しが甘いらしい。


「僕も楽しみですよ。これからの演奏で、名倉さんがどれだけ苦しそうな顔をするのか」


 想定を遥かに超えたイレギュラーの数々。どこまで作用するか未知数だが、何があってもこれだけは心に決めていた。


 第3楽章で、彼女の演奏を止めると。


「……何が言いたいんですか?」

「結構回りくどい言い回しでしたね。これは申し訳ない。なら、ハッキリ言ってしまいますか」


 ニッコリと、不敵な笑みを浮かべながら立ち上がる。


 僅かに後ずさりした名倉さんをまっすぐ見つめると、僕は宣言した。


「どんなに頑張っても、名倉さんは第3楽章までしかたどり着けない。それ以上先は、僕が弾かせない」


 こいつは何を言ってるんだ? という顔をしてる名倉さん。そりゃそうだ。こんな発言、急に叩きつけられて混乱しない人はいないだろう。


「急に何を言うのかと思えば、そんな戯言ですか?」

「あれ、戯言のトーンに聞こえます? 不思議ですねぇ」


 大マジも良いところだ。何のために、第3楽章の名前をわざわざ“永久の階段”にしたと思ってる。


「まあ、実際に弾けば分かりますよ。貴女は第3楽章までしか弾けませんから」


 永久の階段。別名に直せば無限階段とも考えられる。


 階段から抜け出せれば彼女の勝ち。抜けられなければ僕の勝ち。シンプルかつ簡単な勝負だろう?


「……バカにしてるんですか?」

「いや全く。僕はただ、事実を述べてるだけですよ」


 バカにはしていない。舐めてもいない。そんな慢心して挑める相手でないのは僕が1番分かってる。まあ、恨みも憎みもしてるが。


 最愛の人との時間を奪いつつある彼女を、僕が憎まないとでも思っているのか?


 チラリと名倉さんを見る。笑顔は貼り付けたまま。


「っ……!?」


 少し、彼女が後ろに下がった。そんなに怖い顔をしてるのだろうか。


 まあ良い。そろそろ時間だし、行くとしよう。


 心に何か冷たい風のようなものが入り込むのを感じながら、僕は体育館に向かうのだった。

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