貴女じゃない

 思い詰めてたものを振り払い、ガラリと雰囲気の変わった心太さんを見送った私は、車の中で颯斗さんに何度も冷やかされた。


 正直顔から火が出そうなぐらい恥ずかしい。だが、それ以上の幸福感が私の脳内を満たしている。


 口には出さなかったが、私はまた惚れ直した。心太さんに。


 初めて心太さんと出会ったときのように、ドキドキと高鳴る胸は翌日になっても全く収まらず。どこかフワフワとした気持ちのまま、私は京香さんカップルと共に心太さんの学校へと向かった。


 それにしても高校の文化祭。私は経験せず大学へと進学したのだが、随分と活気がある。


 町に散見する店と比べれば見てくれは歴然としているが、手作りの感じがそのまま浮き彫りになっているデザインはむしろ良い味が出ていた。


「何だか新鮮」

『だね。私もやってみたかったなぁ』


 頼むからそんな重たい話、そう簡単にサラッと口にしないでくれ。返答にとっても困るから……。


 とはいえ、琴葉ちゃんの言葉もかなり共感できる。こんな感じで、同期のみんなで四苦八苦しながらも何かを完成させる。そんな経験、私もしてから大学へ進学したかった。


 恨むべきは過去の自分。己を確立せず、流されるがままに美術大へと入ってしまった自分を、私は恨んだ。


「……いけない。悪い想像は終わりにしよう」


 招待されている後夜祭まではまだ時間がある。それまでの間、ある程度は出店を回りたいところだ。


 京香さんカップルと別れ、取り敢えず最初に向かったのは、私が軽く製作の手伝いをした狐のお面を使用しているクラスの出店である。


「いらっしゃい……あ、心愛さんですか!?」

「こんにちは。えっと、京香さんの妹さんですよね。確か奈波さん」

「わあ、名前まで! あの心愛さんに覚えてもらえるなんて、すっごい感激です!」


 狐のお面を使ったのは、京香さんの妹さんである奈波さんのクラスであった。


 彼女に似て元気いっぱいな奈波さんを微笑ましく思いつつ、私は狐のお面を両手で拾い上げる。


 うん、完璧な完成度だ。満足いくまでリテイクした甲斐があった。細部まで、しっかりとこだわって製作できている。


『やっぱり凄いよこれ! 前々から思ってたことだけどさ、絵の才能だけじゃないのがお姉ちゃんの凄いとこだよ』


 己の手腕を琴葉ちゃんに褒められて、ほんのり気恥ずかしい。


 静かに微笑みながら狐のお面を眺めていると、不意にパシャリとシャッターを切った音がした。


 音がした方向を見ると、そこには満面の笑みの奈波さん。


「えへっ。良い絵だったので、ついつい」

「もう……」


 あまりにも無垢な笑みに、咎める気を萎えさせてしまう。ちょっと純真無垢すぎて、同性なのにドキリとした。


 何とも言えない私は露知らず。彼女は、その場で印刷された写真を手渡してくる。


 それを受け取ってまじまじ見てみると、そこには確かに良い絵が写っていた。


 狐のお面を眺めながら、静かに微笑む私の姿。こんな表情もできるようになったのかと驚く反面、当然かと思う気持ちもまた湧いてくる。


 心太さんのおかげで取り戻せた人間らしい感情。こうして客観的に見ると、ちょっと魅力的に見えるな。


「あ、そうだ。今日も彼氏さんたち来たんですけど、随分と雰囲気が変わってましたよ?」

「そうなんですか?」

「何というか、昨日とはまるで正反対な雰囲気でした。死んだ目がウソみたいに消えていて、代わりに見えたのはアメジストみたいにキラキラの瞳で」


 彼氏を褒められてシンプルに嬉しい気持ちと、どんな心境の変化があったのだろうかという疑念を同時に持つ。


 何かをキッカケとして、心太さんの心境がガラリと変わったのは明らかだ。しかし、その全貌までは把握するに至らない。


「でも、全く悪い感じはしなかったなぁ。あのよく分からん人の要求を受け入れてるようで、実は上手く躱している感じが特に。昨日に関しては、狐のお面渡すまではお人形さんみたいでしたもん」


 うむむ、と考え込んでる奈波さん。印象があまりにも変わっていて、彼女も少し混乱しているようだ。


 それは私も同じである。ただ、何となくこんな予感はあった。


「何かとんでもないことが起きるのではなかろうか?」という予感だ。


 前々から感じていた底知れなさが、昨日からより一層深みを増している心太さん。なんとも言えない不安感と、それを上回る期待感を私は抱いている。


 起こるのは目を覆うような悪夢か。それとも、信じられないような奇跡か。はたしてどっちだろうか?


 その答えは出ないまま、私は奈波さんと別れを告げて教室を後にする。


 次に向かったのは、颯斗さんの弟さんが在籍している教室だ。


 場所は奈波さんがいる教室がある階から1つ上のため、私は廊下を経由して階段に足を運ぶ。


 そこで、私は酷く見覚えのある人物とすれ違った。


「心太さん……?」


 彼の隣に立っているのはにっくきメス狐。それはもう乙女の笑顔を浮かべている。傍から見れば、その姿はとても魅力的に映るだろう。


 心太さんも、どういう風の吹き回しかニコニコと笑顔を浮かべていた。表面上だけ見れば、楽しさと幸福感を全開に表す顔だ。


 昨日あれだけ愛の言葉を囁いてくれたのに。あんなにもいっぱいキスをしてくれたのに。


 晴れないモヤモヤ。そして僅かな吐き気。好きな人が誰かの近くにいるだけで、こんなにも辛いなんて。


 面倒くさい女だろう、私は。こんなにも嫉妬心が強いのだから。


 だが、自己嫌悪感に溺れる寸前。心太さんだけが、私のことをチラリと見て表情筋を動かした。


 ほんの数瞬の、少しの変化だったけど。目まぐるしく変わった彼の表情筋が何を表していたのか、私には察することができた。


「ごめん。でも、ほんの少しだけ待ってて」

「必ず君の隣に帰ってくる」


 他の誰でもない、心太さんだからこそ分かった。穴が開くぐらい顔を見つめていたから、僅かな表情筋の動きでも何を表しているのか察せるようになったのだろう。


 数瞬だけ視線を交わすと、また互いに別の道を歩みだす。次に会うのは、それこそ後夜祭のときだろうか。


 幾分か良くなった気分を抱えながら、私は階段を登りきり、すぐ近くにある弟のさんの教室へと入った。


「あ、心愛さんいらっしゃい。待ってましたよ」


 出迎えてくれたのは颯斗さんの弟さん。名前は隆二さんだ。


「これ、ついさっき来店したお客さんからの預かりものです」

「え、私に?」


 手渡されたのは手紙だ。男性にしては少々珍しい、丸々とした文字で私の名前が刻まれている。


 中身を見ると、そこには綺麗な文字で書かれた楽章名があった。


「心の雨、暁月、永久の階段、曙、幽夢の奏者……あれ、その先も続いてる?」


 本来なら第5楽章で終わるはずが、先にもまだ楽章名が記されてあるのだ。


第6楽章 息吹く琴


最終楽章 夢幻の音色


 楽章名を目にした途端、凄まじい勢いで鳥肌が立った。


「わあ、すっごいお洒落な言い回しですね」

「え、あ、はい。確かにそうですね。お洒落です……」


 純粋な隆二さんの感想を軽く流している私だが、内心は全く穏やかではない。


 おそらく、この楽章名を見て意味を理解できるのは私だけだろう。そして、どんな思いで心太さんがこの楽章名を考えたのか。それを察せるのも私だけだ。


 あの人じゃ絶対に分からない。察せない。心太さんの真意を察せない人なんかが、彼の伴侶を務められるはずがない。隣に立つべき人は貴女じゃないのである。


 胸を埋め尽くしていた狂的な嫉妬心が、少しずつ愉悦へと変わっていく。


「心太さん……」


 楽しみだ。彼の演奏が。

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