目覚め
トイレから出て名倉さんの元へ戻ってからは、地獄そのものと言っても全く差し支えない時間が続いた。
出しものが終了するのは午後3時。その時間になるギリギリまで、名倉さんに密着されたまま過ごしたのである。
もはや、どんな出しものに立ち寄ったか記憶が定かではない。
それでも何とか乗り切り、フラフラになりながら教室へ戻った僕は一瞬で気を失った。
ギャグマンガも凌駕する勢いで気絶した僕が、目を覚ますまでに使った時間はおよそ2時間。終礼に出ることも叶わず、かなり落ち込んだ僕だが、寝かされているベッドの近くの椅子に女性が座っているのに気がついた。
その人は自身を京香と名乗ると、いきなり頭を下げてきたのだ。
「ごめん。あの人のガードが高すぎて、引き剥がす機会がなかった」
なんでも、彼女は僕の事情を知っているらしい。
名倉さんがあまりにもベッタリだったので失敗してしまったが、どうにかして僕の気を休められないかと奮闘していたようだ。
どうして協力的なのか。どうして事情を知っているのか。その全てが分からなかったが、こうやって多くの人が僕のために動いてくれているのが嬉しくて。その場で思わず涙した。
しかし、泣いてる時間はないと諭された僕は、京香と名乗った女性に一礼してから学校を飛び出した。無論、向かう先は決まっている。
指定された時間より数分前に公園に到着すると、以前よりも夏の匂いが強くなっていた。空もまだ明るく、1番星が辛うじて見えるかどうかといった具合だ。
うだるような夏の暑さ。セミの鳴き声。さらに、少し遅れて鳴り響いた車の停車音と、そして。
「心太さん!」
愛する人の声。
我も忘れ、僕は胸に飛び込んだ心愛を強く抱いた。
時間にすれば、およそ1ヵ月近くは彼女と会えてなかった。その悲しみと寂しさは、心を深く抉るような苦しみを僕に与えていた。だからこそ、こうして会えた今。少し彼女が苦しくなってしまうぐらいの強さで腕に力を入れている。
心に宿った苦しみを涙に乗せて流し、全身で感じる心愛の温もりで上書きしていく。
「会いたかった。君と……」
散々な日を送ったからこそ。こうやって彼女と触れ合えるのがたまらなく嬉しい。
止まることのない涙。流れ落ちていく分量だけ、心の苦しみは比例して消えていく。
「はい。私も、私も会いたかったです。大好きな心太さん」
彼女の顔を見ると、そこには天国を彷彿とさせる極上の笑みがあった。
誰よりも美しく。そして穢れのない純粋な笑み。それが、心臓を握られていると錯覚するぐらいに愛おしく感じる。
辛抱ならず、僕は彼女の唇を自身の唇と重ね合わせた。
まずは短いキス。慣れてきたら、次は少し長めのキス。キスの度、心には幸福が集まっていく。
ああ、なんて幸せなのだろうか。
キスを終えても、その幸福感は全く消え失せない。
「ふふ。がっつきますね」
「……仕方ないじゃん。てか、心愛だっていつもより激しい」
「久しぶりに最愛の人に会えたら、誰でもこうなりますよ」
ほら、またこんな可愛いことを言う。
だから歯止めがかからなくなるのだ。もしかして、君は狙ってやってるのかい?
彼女以外では、こんな感情芽生えはしない。心愛にしか持たない。持てない感情。名倉さんに対してなんぞもっての外だ。
「ああ、もう。ホント大好き」
語彙力を崩壊させながらも、僕は心愛をいっそう強く抱いた。身体に染みついた悪臭を、心愛の匂いで上書きするように。
名倉さんと絡んだからこそ、より強く感じる愛情。恋情なんかではない。もはや愛情に昇格している。
これから先の将来。ずっと一緒が良いだなんて、きっと後にも先にも彼女にしか感じないだろう。
そのまま、日が落ちたと認識するまでの30分。見る人がいれば、絶対に致死量の砂糖を吐き散らかすような甘いやり取りを行うと、ようやく心が落ち着いてきた。
手を握ったままベンチに座り、心愛の顔をまた眺める。
「それにしても狐のお面、似合いますね。和服を着せたらもっと良い感じになりそうです」
「そう? 君に言われると嬉しいな」
身につけていると、少しだけ心が落ち着く謎の作用持ちのお面。それを何度か空いた手で撫でていると、彼女がこんなことを言い出した。
「そのお面、私が作ったんです」
「えっ?」
「京香さんの妹さんにお願いして、心太さんに渡すよう頼みました。心太さんは他の女の元には行かせない。私だけの運命の人だって、少しでも示すために」
まさかの新事実である。だが、同時に心から納得もした。だから精神がほんのり安定したのかと。
「手紙は颯斗さんの弟さんに託したんです。ちゃんと届いて、本当に良かった」
「……そうだったんだ。全部、心愛がやってくれたんだね」
「発案は京香さんと颯斗さんです。数は少ないけど、とっても良い友人に恵まれたんだなって今感じてますよ」
……いつか、直接僕の口から感謝の言葉を伝えよう。ちょっと高い菓子折りを持参して。
「あ、そうそう。明日、ミニ演奏会をやりますよね?」
「そうだけど、誰かに聞いたの?」
「京香さんから少し。それで最後の連弾曲なんですけど、途中から私も心太さんの隣に座って演奏することになりました」
「……えっ!?」
え、マジ? マジで? マジで言ってるの?
あ、大マジだこの顔。ジョークでも何でもないって、顔が物語っている。
「急な予定変更ですけど、京香さんたちから大丈夫だって太鼓判を押してもらってます。私と心太さんなら、完璧に合わせて打鍵できるって」
いや、嬉しい。すっごく嬉しいんだが。何なら、足りてない最後のピースが埋まったような感覚にすら陥ってるのだが。
そうか、マジなのか。心愛との演奏。人生でやってみたいことランキングでもトップに位置することだ。
だが、素直に喜べない自分も存在している。
……常々感じていることだが、本当に色んな人が集まって、僕と心愛のために精一杯動いてくれている。そして心愛も、僕のために動いてくれている。
対して僕はどうだ。何か動けているのだろうか? 誰かのことを思いながら行動しているだろうか?
答えは否。自分のことで精一杯。演奏の出来だって中途半端だ。
「はは、みんなスゴい」
「心太さん……?」
「みんな第3者のことを考えられてる。誰かを思いながら行動してる。しかも、自分のことは棚に上げるぐらいに。それに比べて、僕は自分のことしか見えてない」
中途半端は案で妥協して。中途半端な楽譜しか生み出せず。中途半端な自身の技術を今さらになって焦り。
何もかもが中途半端だった、僕は。
その結果、自分のことしか見えないくらいに視野が狭くなっている。
言葉はこれ以上紡げず、僕はただ項垂れた。
ああ、僕も響くんぐらい、ずば抜けた才覚を持っていれば良いのに。
心愛やその友人さんみたいに、誰かを常に思う気持ちを持てたら良いのに。
何もない。僕は、何も持っちゃいない。
あったとしても、それは中途半端で歪な才能。
「みんなが羨ましいなぁ……」
自虐でもう押し潰されだった。しかし、詮を外してしまった今、自身を苛む行為はそう簡単に止まりはしない。
響くんが「それは違う」と叫んでいるが、それすらも耳には入らなかった。むしろ、否定すらしたい気分だ。
神童の君と、その辺のモブキャラの僕とでは根本的に違うんだと。
心愛は何も口にしない。肯定してくれているのか、それとも否定から怒りに震えているのか。
いったいどっちなんだろう。そう考えていると、不意に何かが僕の頭を包み込んだ。同時に、少しばかり腰が心愛側に折れる。
「心愛?」
何も言わない。何も発さない。だが、僅かに体が震えていた。
泣かせてしまったようだ。何が原因なのか。それは明白だが、それがどうして泣かせる要因となってしまったのかまでは分からない。
『愛する人の自虐ってね。何だか自分のことまで責められてる気がするんだよ』
珍しく、少し怒った口調の響くんの言葉は、普段よりも強く僕の脳内に響き渡った。
しかし、理解までは追いつかなかった。彼の言うことは、上手く脳内で分かりやすい言葉への変換ができない。
『もしも君が、彼女の聞くに堪えない自虐を耳にしたら。才能がない。絵は上手くないと言い出したら。どう思う?』
何バカなこと言ってるんだと僕は思うだろう。彼女が。心愛が才能を持っているのは紛れもない事実であるし、絵が下手なら世間に評価されることもないし。
それに、彼女の自虐はまるで僕をもバカにしてるような感じがするし、少し悲しいとも……あっ。
『そう。指摘されるまでは案外気がつかないけど、自虐ってのは信用してくれてる人も同時にバカにしてる行為なんだ』
今度の彼の言葉は、落雷のように僕の心に響いた。
こんな簡単なことも分からなかった自分が嫌になる。そうだ。自虐ってのは、自分よりも周囲に与える影響が凄まじいものだった。
真面目な自虐なんてもってのほかだ。聞いていて楽しいわけがない。
「心愛。その、ごめん……」
思わず出たのは謝罪の言葉。もっとも僕を信用してくれている人を、こうもアッサリと傷つけてしまった。
自分が許せない。愛する人の気持ちも考えず、自分の考えだけを口に出す。そんな自分自身が。
「……心太さん。貴方の素敵なところ、全部言います」
より強く僕を抱きながら、彼女はポツリと口を開いた。
「常に私のことを考えてくれるところ。どんな苦境の中でも。誘惑されたとしても、優先順位のトップは常に私。それが、私は限りなく嬉しい」
「心愛……」
「好きだって。あ、愛してるって口にしてくれるところ。幾万のベタな恋文なんかよりも、貴方のその言葉をたくさん聞きたいと考えてますけど、それを貴方は、私が欲しいタイミングで必ず口にしてくれる」
髪の毛を心愛が優しく撫でている。不思議と、黒く淀んだ心が洗い流されている。そんな気がした。
荒んだ心が凪いでいく中、彼女は言葉を紡いでいく。鈴の鳴るような声音で。
「ほら。心太さん、常に誰かのことを考えながら行動してるじゃないですか。自分のことを放り出してまで、苦しい中でも立ち上がろうとしてるじゃないですか」
「そう、なのかな」
「とっても」
陽光のごときその温もりは、凍った僕の心を優しく溶かしていく。
「才能がないって卑下するのはどうかと思いますけどね。流石に無自覚すぎるだろとは思ってますよ。でも、そんな一面も言い換えてしまえば、とても謙虚なんだと言えます」
心愛は、不意に僕の両頬を包み込む形で手を置き、さらに僕の顔を軽く上に持ち上げた。
心愛と目が合う。世界のどんな宝石よりも美しい、黒水晶のような瞳と。
「才能がないなんてことはあり得ない。そして言わせない。1番、貴方の近くで演奏を聴いている私が言うんですから、これは間違いないですよ。絶対にね」
君の近くで演奏する時は、少なからず気合が入っている。それに、君の心を満たせるよう感情を込めて弾くから、そう聴こえるのではないだろうか。
そこまで考えたところで、やっと僕の演奏に足りなかったものを察することができた。
「……信じるよ。心愛の言葉だもの」
今、ハッキリと目が覚めた。中途半端に開いていた窓が、完全に解き放たれる。
「ありがとう。かなり元気が出た。まるで魔法みたいだ」
「愛する人の言葉は万病に効く。私が実際に経験したことです」
フンスとドヤ顔している心愛が愛らしい。
だが、いつまでもやり返さないのはアレだ。僕は行動を起こす。
頬に置かれたままの手をすり抜けると、僕は何度目かのキスを、少し油断している心愛の右頬に落とした。
息を呑む彼女に、優しく微笑みかける。
「明日は特等席に座る君に、最高の演奏を届けようと思う」
「そ、そうですか。それは楽しみです」
もう迷わない。もう見失いはしない。
「どうか、見守っていてくれ」
もう何度目か分からない、唇へのキスを彼女へ落とすのだった。
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