絶望か、希望か、それとも無か
ここ1週間はあまり眠れなかった。ずっと眠気が瞼にのしかかってる。
その理由は言わずもがな、連弾の楽譜が思うような形で完成しなかったからだ。
しかし、もう時間は残されていない。何故なら、今日中に楽譜を名倉さんの元へ届けてもらわねばならなかったから。
これ以上、楽譜に何か手を加えることはできない。
楽譜を名倉さんに渡した時点で、文化祭までは残り2日。残された時間、僕は全力を挙げて練習に取り組んだ。
時には気絶するぐらいに、僕は必死に。そしてひたすらに練習を公民館で行った。未完成感の否めない楽譜に、何度も胸を刺されるような強烈な嫌悪感を抱きながら。
それは文化祭前日も変わらない。指が動かなくなるギリギリのところまで、僕はピアノを弾いていたぐらいだった。
全ては、言いようのない不安から少しでも逃れるため。
だが、現実逃避によって作られた薄いバリアは、いとも簡単に破られることになった。
「あら、私の未来の夫じゃないですか」
帰る途中、名倉さんと出くわしてしまったのである。
「うふふ、明日が楽しみです。あの程度の連弾で婚約をしてくれるのでしたら安いものですからね」
顔には、どうにか出さないでその場を切り抜けられた。彼女の言葉に「そうですか」とだけ返し、そのまま一目散に凜の家へと向かう。そこまでは身体が動いた。
しかし、それまでだった。家に到着した途端、僕は吐き気を催してトイレへと駆け込むことになったのだ。
圧倒的な才能の差に圧し潰されそうだった。名倉さんが隠そうともしない自信は、決して虚勢なんかではない。
比べて僕はどうだ?
好き勝手に弾いていただけの僕の技術は、音楽の世界に身を置く人間からすれば拙いもの。才能だって、響くんの心臓がなければゼロに等しい。
公民館の子供に。職員さんに。咲良お姉ちゃんに。響くんに。そして心愛に。優しい言葉で褒められて有頂天に。そして天狗になっていただけなのではないだろうか?
もはや何も信じられなかった。他人も、自分も。
翌朝を迎えても、僕の気持ちは晴れないまま。心配してくれている凛や響くんを極力無視し、久しぶりに制服に腕を通して学校へ向かった。
「おい、本当に大丈夫なのか? 酷い顔だぞ」
「疲れてるだけさ。それだけだよ」
何だか会うのが久方ぶりに感じるクラスメイトも、みんな優しい言葉を投げかけてくれる。
事情は凛が通していたらしく、文化祭の出しものの準備に参加できなかった僕を責める声はない。
シフト表を見せてもらうと、僕の名は見当たらない。事情を鑑みて、しっかり外してくれたようだ。
クラスメイトが責めてこないのは何よりの救いではあるが、自身の都合でみんなに迷惑をかけてしまったことに、僕は一段と気を落とした。
「頑張れよ。お前ならやれる」
「あんなやつに負けるな!」
優しい友人たちの言葉が、今は胸を刺すナイフみたいだ。
胸の痛みを訴える間もなく、文化祭の出しものが開店する時間になった。
温かい目で送ってくれるクラスメイトを背に、僕は既に教室の外で待っている名倉さんと対面する。
「さあ、楽しみましょう!」
「……ええ」
何の抵抗もなく手を取り、引っ張るようにして前へと名倉さんは進んでいく。
早速こみ上げる吐き気を半ば無理やり飲み込む。いきなりトイレに駆け込んでは、今日と明日を乗り切れやしない。
手始めに彼女が向かったのは、文化祭では定番(と思われる)チェキ撮影をしているクラスだった。
ウキウキで数回撮影するためのお金を払っている名倉さん。写真撮影を行えるクラスを最初に選んだのは、さっさと一緒に過ごした証を残すためだろうか。
和室。ラベンダー背景。三日月の上等。どんな場所で撮影しようか悩んでいる名倉さんを尻目に、僕はクラスの装飾がやけに凝っていることに気がついた。
ここは1年下のクラスが経営している店なのだが、それにしてはクオリティが異様に高いのである。
「何か、やけにクオリティ高くない?」
思わず口に出してしまった。
特に和室の装飾。さらに細かく言えば、狐のお面と和傘のクオリティがバケモノだ。本当に後輩のクラスなのか? と思ってしまう。
狐のお面を手にして眺めていると、犬の耳みたいなくせっ毛が生えている後輩ちゃんがニコニコの笑顔で近寄ってきた。
「あ、そのお面気に入ってくれたんですか? それ、お姉ちゃんの友人さんに少し手伝ってもらったんです。お姉ちゃんと友人さんはA美大の生徒なので、ほんの少し手を貸してくれるだけでこの通りの完成度です!」
「そうなんだ。これ単品でも売れちゃうんじゃない?」
なるほど、心愛と同じ大学に通ってる人が手伝ったのか。それならこのクオリティにも納得だ。
それなりに長い時間お面を見ていたからなのか、その流れで僕らは和室風な背景で撮影することになった。
撮影の都度に密着してくる名倉さんに軽く嫌悪感を抱きつつも撮影を終え、出てきた写真を見てまた吐き気を催す。完全に末期だ。
それでも作り笑いを浮かべて犬みたいな後輩ちゃんに礼を言い、クラスを後にしようとする。
すると、後輩ちゃんがちょいちょいと制服の裾を引っ張ってきた。
「このお面、あげます。まだお面は予備がいっぱいあるので」
「良いのかい? てか、そもそも他人に渡しても大丈夫なの?」
「はい! お姉ちゃんには、最初に来店したお客さんにプレゼントしろって言われてるので!」
確かに気に入っているので、プレゼントしてくれるのは素直に嬉しいが。本当に良いのか?
そう思ったが、厚意を無辜にするのはいただけない。再度後輩ちゃんに礼を言って狐のお面を受け取った。
折角のもらい物なので、お祭りのときみたく斜めにお面を装着する。
「似合ってますよ、あなた」
「そうですか」
狐のお面からは、かすかに知っている匂いがした。
その匂いが鼻に入ると、ほんの少しだけ心の平穏が戻る。どうしてかは全く分からんが。
「……まさか、ね」
いや、それはないだろう。変な期待をして、的外れだったらどうする。
僅かに浮かび上がった希望を自ら振り払い、再度僕は鋼の障壁を心の前に展開。作り笑いへと戻った。
そんな僕が面白くないのか、名倉さんは気を引くため腕に何かを押しつけたり、尽きぬ話題を口にしている。
酷い対応をしている自覚はある。自覚はあるが、君もまた随分と酷いことをした。このぐらいは神さまも許してほしい。
僕の恋人は、後にも先にも心愛だけなのだから。
「次はこっちですよ」
「……カフェ、ですか」
「カップル限定メニューがあるんです。それを一緒に食べましょう!」
次にやってきたのは、これまた文化祭ではお馴染みだと思われるカフェである。テンプレのメイドカフェではない。念のため。
それにしてもカップル限定か。ふざけてる。
嬉々としてメニューを注文している名倉さんには悪いが、君と僕はカップルでも何でもない、ただの他人同士だ。
冷やかしてくる生徒の声も耳には入らない。恋人ヅラをしてくる彼女がどうしようもなく憎く、音の受信すらも脳が拒否を始めた。
楽しそうにしている名倉さんの言葉通り、食べさせ合ったり飲み物の交換をしたりして過ごすこの時間は、もうどうしようもないぐらいに苦痛だ。
てか、嫌悪を通り過ぎて無になりつつある。
それでも、顔に貼り付けた作り笑いだけは崩さずメニューを完食。もはや何を食べていたのか分からんし、その間何を話していたのかすら認識してないが、とにかく乗り切った。
「あ、お兄さん。これをどうぞ」
会計を終えて退出しようとする僕を、1人の男子生徒が呼び止めてきた。
「手紙?」
「兄に『最初に来店したカップルの男に渡せ』って言われてたんです。何も言わず受け取ってください」
「わ、分かった。後で読むよ」
半ば押しつけられる形ではあるが、僕は手紙をもらった。一見、ラブレターのような形状をしている。
名倉さんに咎められるのも面倒なので、ズボンは制服のままなことを利用し、ベルトに挟んで上からクラスTシャツの裾を被せて隠した。
「少しトイレに行ってきますね」
そして、便意を催した体を装ってトイレに駆け込んだ。無論、手紙の中身を確認するためだ。
それにしても、まるで誰かが計算したかのように、訪れる先々で何かを受け取っている。これは偶然なのか、それとも本当に誰かが仕組んだことなのか。
「内容はっと……」
はらりと2つ折りにされた紙を開く。
その中身を見た僕は、思わず絶句した。
紙に書いてあった。いや、描いてあったのは息を吞むほどに素晴らしい絵だったのだ。
こんな素晴らしい絵を描ける人。僕はこの世で、たった1人しか知らない。
「待て。それならどうして、こんな形で絵を?」
絵を注意深く眺める。描かれた絵に、きっと何か意味があると信じて。
描かれているのは大きく分けて3つ。公園のベンチ、緑葉樹、時計台。
時計台が指し示している時間は午後6時半。午後と分かる理由は、緑葉樹の間からポツポツと星々が見えるからだ。
こんな風な場所、僕が知りうる限り1つしか存在していない。
「……まずはこの場を乗り切る。そして、終わったら行こう」
正解かは分からないが、やってみる価値はあるだろう。こうしてまで手紙を送った理由も分かるかもしれないから。
ほんのり浮上した希望。今度は捨てることなく、僕はトイレから出るのだった。
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