僕だけの味
寝る間も惜しんで楽譜へと向かい続けた結果。僕は1つの曲を生み出すことに成功した。
仕様は連弾。2人で1つの楽曲を完成させるものである。
響くんや咲良お姉ちゃんに「寝ろ」と心配されるぐらい根詰めた結果、驚異的な速度で僕は楽譜を書き上げた。凄まじく眠く、さらに数日間疲労が落ちなかったが。
楽譜が完成したら、次のステップへと進むため僕は凜にこんな感じのことを書いた手紙を名倉さんへ届けてもらった。
「詳しくは直接話すが、文化祭の個人発表で連弾をしてくれるなら婿入りを考える」
凛からのメールはすぐ届き、こんな風に記されていた。
「餌に食いつく魚みたいな速度で了承したぞ」と。随分と酷い表現だが、多分きっと的確なのだろう。
さて、作戦の大筋はこうだ。
近々に開催される高校の文化祭。その後夜祭において最後に行われる個人発表の部で、名倉さんと連弾をする。
無論、ただ連弾をするつもりはない。ありったけの“拒絶の意”を乗せるつもりだ。
そして仕上げた連弾の楽譜も、あの天才ピアニストである響くんが思いっきり顔をしかめる代物。拒絶の意を乗せるのはもちろんだが、それ以上に“無理だ”と心を折るのが1番の目的である。
名倉さんの親の力が一切及ばず、不正も不可能。また、生き証人が数え切れないぐらい大勢存在する場。そして何より重要なのが直近で行えること。この条件に当てはまるのは、もう文化祭の個人発表ぐらいしかない。
当たり前だが、それ相応の危険は伴う。連弾を行う条件として提示された「文化祭中は常に一緒」というものも、僕の身の危険を増長する一端を買っている。
仮に心を折ることに成功したとしても油断はできない。なりふり構わず暴れる可能性を、常に頭の片隅に置かなくては。
心愛の安全確保の人員も考えないといけないし、連弾もまず自分が失敗しないように練習しないとだし、他にも何かやらないと……。
「こら。少しは休む」
「咲良お姉ちゃん……」
「和菓子作ったから。ほら、食べて糖分補給しなさい」
思い詰めて作業をしていると、おおよそ2時間おきに頭を軽く叩いてくるのが咲良お姉ちゃんだ。
毎回和菓子を手に作業を止めてくる咲良お姉ちゃん。普通ならプンスカ怒っているのだが、それは響くんに止められている。
『心配なんだよ。お兄ちゃんの表情、般若か鬼かと見間違えるぐらいだから』
こう言われては流石に怒れない。
作ってくれた和菓子も美味しいので、さらに怒る気が萎えていく。まあ、鼻から本気で怒るつもりはないけど。
部屋から出て、外の客席で和菓子を食べながらリラックス。これが中々に心身のリフレッシュになっている
そんな質の高い休憩をなんやかんや取ってたからなのか、類を見ない速度で制作した楽譜は“狂気”に溢れるエグいものとなった。
響くんが制作した楽譜を最終楽章に据える狂気の連弾作品。当然、一瞬のミスも許されない緻密な音符が連なっている。
演奏が完成すれば、それはもう素晴らしい音色を聴く人に届けられるであろう。しかし、そもそも最終楽章までたどり着くのが恐ろしいぐらい難しい。
こんな楽譜を作った理由は1つ。また、心愛と静かに笑い合える日々を取り戻すため。
「ねえ、本当にしっかり休んでる? 目の隈が凄いよ」
「大丈夫。大丈夫ですよ。このぐらい平気ですから」
否、これっぽっちも大丈夫ではない。
楽譜が完璧な形で完成しないのだ。僕自身が納得行く形に、一向に変わろうとしないのである。
何か1つ。1ピース。たったそれだけ。それだけ埋めれば完成と認められるのに。その何かが分からないのだ。
正直、ものすごく苛ついている。自分の非力さ。そして才能のなさに。
響くんなら。そして名倉さんなら。簡単に回答を導き出せたであろう。その現実に、また心を乱される。
「才能があれば。僕にも才能があれば」
幾度となく考え、そして神さまに対して呪言を思った。神さまが僕に与えてくれたのは、心愛という運命の人。ただそれだけで、才能も技術も与えてはくれなかった。
無論、感謝はしている。素晴らしい運命の人て巡り合わせてくれたことに関しては、感謝をしているのだ。
だが、それでも思う。2物も3物も与える神さまが、どうして僕には1物しか与えなかったのだと。
「はあ……」
団子を口にしながら、1つ大きなため息を僕はついた。
すると、ずっと黙って僕を見ていた咲良お姉ちゃんがスッと立ち上がった。
何事かと思って目で追っていくと、彼女は僕が書いた楽譜を手にピアノへ向かっていく。
ぼうっとそれを見ていると、咲良お姉ちゃんは慣れた手付きでピアノをセッティング。そのまま椅子に座り、鍵盤に手を置いた。
そのまま流れるように始まったのは、流水のごとくピアノから叩き出される音色の数々。
これまで聴いてきた誰とも似ていない。彼女だけの音色が、僕の耳に焼き付けられる。
音の上下はあまり感じられない。その分、流れる水のように次々と繰り出される音色は心を洗い流していった。
とても不思議な音色である。上下の幅振れが大きい演奏を行う響くんを長らく見ていただけに、新しい音を発見した気分だ。
時折ミスタッチをしながらも、咲良お姉ちゃんはほぼ初見で、あの狂気に満ちた楽譜を弾ききってしまった。
「はあ。難しいね、これ」
優しくため息をつきながら夜空を眺める咲良お姉ちゃんの姿。星々に照らされたその佇まいはとても美しく、そして絵になっていて。思わず目を奪われる。
心愛なら、この情景を絵に描き出せるのだろうか。僕には決してできないが。
「こら、あまりジロジロ見ない」
「え、あ……すみませんっ」
「恋人いるんだから注意しなよ。それだけであの娘は妬くだろうし」
違いない。違いないが、言い訳を何となくしたい気持ちもある。
美しい情景に目を奪われるのが人間の性ではないのだろうか? なんてね。
この言葉は飲み込み、僕はまた別の言葉を口に出した。
「上手ですね、ピアノ。弾けたんですか?」
「響くんに憧れて、独学で練習したの。まだまだ響くんにも。そして心太くんにも及ばないけどね」
「そんな。聴いてて心地良かったですよ。流水みたいな滑らかさのある音色、僕は好きです」
すると、咲良お姉ちゃんが寂しげに微笑んだ。
その表情には、様々な感情が宿っているのに僕は気がつく。
「やっぱり、流水のように聴こえちゃうか。響くんの背中が遠いなぁ」
「え、それってどういう……」
「ピアニストの感情がそのまま演奏に表れる。怒りも、喜びも、悲しみも。そんな演奏を目指しているの。何故なら、響くんがそうやってピアノを弾いてたから」
圧倒的に藪蛇であった。少し考えれば察せただろうに、僕の馬鹿野郎。
謝ろうとする。だが、すぐさま咲良お姉ちゃんは僕の口に指を当てて言葉を吐かせない。
優しく、ただ首を横に振るだけ。
「君が初めてこの店に訪れて、あの曲を演奏してくれたとき。懐かしさと一緒に、うらやましさが私を襲った。見ず知らずの男が。響くんと比べたら音に覇気はなかったけど、音色の種類がかなり似通っている演奏をするんだもの」
「それは、響くんの心臓があるから……」
また、彼女は首を横に振る。
「違う。それは心太くんが持っている味。響くんは関係ない」
僕が。僕だけが持っている味。頭の中。そして口の中で反芻しても、その意味を理解するに至らない。
僕の持つ味って何だろう?
「響くんの演奏は確かに素晴らしかった。でも、心を動かされはしなかったと思う。凄いな、カッコいいな止まりだった。でも、心太くんは違う。心そのものを動かせる演奏をしている」
「心を、ですか」
「でも、ここ数日はそう感じない。きっと、何か条件があるんだろうね。心を動かせる演奏をするには、何か大きな条件があるみたい」
そう言い残し、咲良お姉ちゃんは室内へと引っ込んだ。
心そのものを揺り動かす演奏。全く意識していなかったが、どうも僕のピアノ演奏はそう聴こえるらしい。
しかし、それを言われたところで解決のヒントにはなり得ない。それを知ったところで何になるのだろうか。
結局、答えは見つからぬままタイムリミットの日を迎え。僕は凜の家へと移るのだった。
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