逃避行

 心太さんから一向に連絡が来ない。朝になっても、既読すら付いていない。


 たかがその程度と思うかもしれないが、昨晩の出来事と重ねて考えると、何か彼の身に起きたのではないかと不安になってしまう。


 拭えない不安感。とても朝食時にお父さんの追求を耳にするだけの余裕はない。結局、答え方がなあなあになってしまうのだ。


 半ば放心状態のまま、私は大学の教室にまで足を運んでいた。


「おっはよ〜……って、あれ?」


 京香さんが私の隣に座る。そんな様子も目に入らないぐらい、私は心を虚無にしている。


 彼女に改めて話しかけられたことで、初めて京香さんの存在に気がついたぐらいだ。


「心愛ちゃん? ちょっと、随分と虚ろな目をしてるけど大丈夫?」

「京香、さん……」

「もしかして喧嘩しちゃった?」


 違う。むしろ仲は深まった。あの日だけでも、これまでの数倍は心の距離が近くなったと思う。


 様々な心太さんの一面を見れて、とても充実した日だった。寝る前にお父さんからのお話がなければ。


 京香さんになら話しても良いだろう。きっとこの人なら、親身になって話を聞いてくれるはず。


「……私の知らないとこで、勝手にフランス行きが決まりかけてたんです」

「え、何それ」


 普通聞いても、一体何が起こったのかまず理解不能だろう。私だって無理だった。今も理解が追いついてないぐらいだし。


 私はなるべく分かりやすいように、要所だけを掻い摘んで京香さんに話す。


 いきなりお父さんにはフランスの有名な絵描きを名乗る人物からのコンタクトが来て。お母さんにはフランスの国立美術大学の案内と手紙が届いて。流されるがままに、両親は私をフランスへ行かせようと勝手に決め込んでいて。


 しかもその2人、まるで私が否定しないと確信している様子だった。無条件でフランスへ行くと。喜んでフランス行きを快諾するだろうと思っていたのだ。


「私、行きたくない。心太さんと離れたくない……」


 切なる願い。ほとんどの人が理解してくれないと分かっていながらも、私はそれを口に出した。


 世界に私の絵が認められるとか、多大な評価を受けて栄誉ある賞を手に入れられたとか。世界的にも有名な大学へ行くチャンスをもらえたとか。全部。全部どうでも良い。心太さんと過ごす時間に比べたら、どれも安い幸せだ。理解はされないだろうけど。


「そっか。彼氏と離れたくないんだね」

「……はい。絶対に離れるのは嫌です。離れるぐらいなら、いっそ死にたいぐらい」

「なら、逃げちゃえば?」


 逃げる? 逃げるってどういうことだ?


「そのままの意味。彼氏連れてでも良いし、そうでなくても良し。とにかく逃げるんだ」

「逃げるって、どこへ……」

「それは自分で決めないと。心愛ちゃんが『ここなら!』って場所へ、今すぐにでも逃げちゃえば良いの」


 突拍子もないことであっても、京香さんはズバッと言い切る。まるでそれが、最善策であると確信しているかのように。


 逃げる。世間には愛の逃避行なんて言葉もあったな。それを行うってことか。


「京香さん。私、行きます」

「はいはい。彼氏さんによろしく言っておいてね〜」


 現金の持ち合わせはそれなり。あの場所への電車代と、軽い食事代は何とか確保できるぐらいだ。


 念には念を入れてスマホの電源を切り、私はそのまま大学から飛び出した。


 向かうはあの病院。あそこなら絶対に受け入れてくれるはず。


「急がなきゃ……!」


 小走りを維持したまま、私は駅まで走るのだった。



「……さてと。心愛ちゃんを助けるため、私も少し動こうかな。颯斗くんに連絡っと」

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