凛とした風と共に
「まあそんな怖い顔をせずに。どこかに座りましょうか」
名倉さんに連れられて辿り着いたのは、初めて心愛と出会ったあの公園である。
この公園自体は頻繁に訪れるので良い。一緒にいるのが名倉さんってこと以外は。
普段はあまり人を疑らないのだが、今日ばかりは違った。ナンパ野郎と出会ったことも理由の1つだが、何やら名倉さんから危険な匂いが漂ってくるのが大きい。
僕の第六感は案外バカにはできない。結構な頻度で的中する。主に危険な事柄に関して。
「……もう1回聞きます。何用ですか? こんな夜に」
故に警戒心を深める。夜闇も相まって、僕の脳が出す危険信号はけたたましく鳴り響いていた。
『何かいる。他にも』
何だって?
『姿はハッキリと見えない。でも何かがこっちを見張ってる。多分だけど、逃げ出しても捕獲するためのガードマンだ』
いよいよ命の危険を感じてきた。今すぐにでも逃げたい。
しかし、響くんの言ってることが本当なら。非力な僕がこの場を逃走するのはほぼ不可能だ。
『また霊の者を集めてみる。時間は必要だけど』
頼んだ。打てる手は全て打っておきたい。
僕は名倉さんが見えない位置で、護身のためのペンをポケットに忍ばせた。貧弱武装だが、あるなしでは雲泥の差だろう。
さらに、とある人物のメールへ簡素なメッセージを送る。なに、点と伸ばし棒しか使わないから一瞬で終わる。
「さて、今日わざわざこうして会いに来たのには理由があります」
「でしょうね。ストーカーしてまで僕を探したんだ。よっぽど重要な案件なんでしょう?」
努めて冷ややかに。しかし名倉さんは微笑を絶やさない。
「ええ。まずはこの紙をご覧ください」
手渡しされた紙。それは契約書のようなものであった。
契約書には様々なことが書かれているが、まず目に入ったのはこれだ。
「名倉家へ婿入り……?」
「あら、早速そこを見てくれたのですね」
「以前話しましたよね、恋人いるって。だから無理です。てか嫌です。彼女以外の人とは結ばれたくない」
「ふふふ。そう言うでしょうね、貴方なら」
名倉さんの目からは獰猛な獣と見間違えるような眼光が放たれている。
あくまで微笑みを崩さないのは、何か切り札があるからだろうか。
「ですがもう遅いのです。貴方の恋人さんは、明日にでもフランスへ行くのですから」
「……へえ?」
「いやあ、あの家の親御さんが娘バカで助かりましたよ。少し本場の国立美術大学の名を出せば、簡単に娘のフランス行きをオーケーするんですもの。居候先の正体が政界の妖怪とも知らずに、ねえ?」
沸々と怒りが湧いてくる。しかし顔には一切出さない。おそらく、僕が怒り狂う姿を彼女は見たいのだろうから。
正直、今すぐにでもあの口をガムテープで塞いでしまいたいとは思う。だってウザイんだもの。だが、行動も起こさないことにする。
怒りに吞まれたら終わりだ。冷静さを極力保て……!
代わりに浮かべるのは能面。無の表情だ。それ以上は何もない。しない。
「そこまでして僕を手に入れたい理由はありますか?」
「やだ、それを言わせます? 罪なお人なこと。まあ良いですけどね」
少し顔を赤らめている様子は、恋人のいない男子学生なら胸がドキドキするだろう。名倉さんだって顔が整った美人。夜闇と月。そして暗い公園が似合っている。
だが、僕は何も感じない。ただ顔を赤くしているとしか認識していない。
微塵も魅力を感じていないのである。
「貴方に惚れたからです。あの力強くもしなやかな音色を奏でている貴方の姿に。その演奏に」
へえ、そうなんだ。それはどうも。
あの日と感想は全く同じだ。心底どうでもいいと感じている。
褒められたら誰でも嬉しいよね、うん。それ以上は何もないけど。
「それとは別に、貴方の才能を腐らせるのがどうも惜しいのですよ。ですが、我が家の優れた施設や講師を駆使すれば。貴方は必ず世界で最も優れたピアニストになれます。当然その道のりは苦しく険しいですがご安心を。この私が完璧に貴方を。いいえ、旦那様をあんなメス猿よりも立派に支えてみせますからね」
冗談抜きでキレそうだ。随分と自分勝手なことをよくもまあ、こんなベラベラと喋れるな。
メス猿はどっちだか。僕からすれば、目の前に立ってる人の形をした何かの方がよっぽどメス猿なんだけど。
あいつなら。僕の友人なら、きっとノータイムでヤクザキックを飛ばしていたであろう。
「……親と相談しても?」
「もう済んでますわ。貴方さえ了承すれば、ご家族様は口出ししないと言質を取っています。貴方も聞きますか?」
「いや結構。ただ、念のため両親と確認を取ります」
そう言って僕はスマホを取り出した。
とても両親らしいなと、メールを送りながら感じる。最後に決めるのは僕だと暗に伝えてきている。そんな気がした。
良くも悪くも、両親の口出しは存在しない。干渉はゼロ。そういうことになる。ならば動きやすい。
息子の決断を尊重してくれる両親に感謝だ。
さて、すぐさま届いた新着のメールは3件。上から順に心愛、両親、そして友人である。
心愛のメッセージは後回しにして、まずは両親のメールを見た。
「自分で決めろ、ね」
おおよそ期待通りの言葉がノータイムで返ってきた。僕がどんな決断を下そうとも、両親は何も言わないだろう。
次に見たのは友人からのメッセージ。とは言っても、両親のやつとは違ってメール欄を開きはしない。
「あと数分」
そうか、分かった。なら僕は、あと最低でも数分間はどうにかして粘らなければならないな。
メッセージをそう長々と確認すると名倉さんに怪しまれるので、僕はあくまでも両親とのメールが終わった体でスマホから目を切った。
「なるほど。確かに話は行き届いてるみたいですね」
「当然です。そのぐらい私は本気ですから」
胸を張って「エッヘン」とでも言いたげな名倉さんを冷めた目で見やる。
「でもね名倉さん。僕は誰かに、このピアノの腕を認められたいとは思ってないんですよ。世界で1番とかどうでもいいんです」
これは紛うことなき本心だ。僕は昔からそうだが、自身の腕を誰かに見せつけたいとは一切思っていない。
世間体の評価とか感想とか。正直言ってクソほどの価値も存在しないと思っているぐらいだ。
唯一意味を持っている感想を挙げるとすれば、心愛の感想ぐらいである。
「講師にレッスンを受けたいとも。整った環境でピアノを弾きたいとも思いません。僕は上手になりたくてピアノを弾き続けているんじゃない。ずっと恵まれた環境で練習をしている名倉さんに、この気持ちは到底分からないでしょうけど」
痛烈な皮肉には気がついていないのか、それとも分かっていて無視を決め込んでいるのか。あくまでも名倉さんは微笑みを崩そうとしない。しかし、ほんの僅かだが眉間にしわが寄ったのを僕は見逃さなかった。
思い通りの回答を一切得られないのはストレスがさぞ溜まることだろう。
「何度でも言います。僕は絶対に貴方とは恋仲にはならないし、世界を目指すこともない。心愛がフランスへ行くなら、僕もすぐにフランスへ行く準備をします。貴方が思うようには絶対にさせない」
「……なら、無理にでも私の家に連れていくだけです。貴方1人ぐらい、私のボディーガードにかかればすぐですから」
「言ったでしょ? 思い通りにはさせないってね。その意味を正しく理解してくださいよ」
数分は粘った。必要最低限の時間、僕は何とか稼いだ。
少し遅めの話し方を意識してみたり、間を長めに取ったり。遅延を起こすために涙ぐましい努力をした甲斐あって、彼は何とか間に合ったらしい。
「よお、待たせたな」
「想定より早いね。助かるよ」
僕が知り得る限り、1番こういった厄介事に耐性がありそうな人物を呼んだ。
手に革手袋らしきものを装着している凛。それが、僕が呼んだ人物である。
「外を囲ってた人たちは?」
「今は楽しい夢でも見てるさ。闇討ちすれば一瞬よ」
そのための数分だ。そう付け加え、凛が僕と名倉さんの間に入った。
「事情は後回しだ。今は逃げるぞ」
凛が割って入ったことで、名倉さんが纏っていた空気が一変する。
「……どうして? どうして邪魔しか入らないの? 何で思い通りにならないの!?」
ずっと隠していた憎悪の念。そして怒り。その全てが噴火したかのようだ。
だが、空気が一変したのは名倉さんだけではない。
『お待たせ。行くよ』
響くんの声と共に、周囲の空気そのものが一気に冷え込んだ。
噴火すらも凍りつかせる冷気。そして霊気。本日2度目の心霊タイムである。公民館のやつよりは圧が抑えられてるが、それでも十二分に効果は作用するだろう。
『霊の者は夜闇が深ければ深いほど力が増す。数は少なくても強い』
まあ、草木も眠る丑三つ時なんて言葉もあるぐらいだしね。夜は幽霊が本領発揮する場だろう。
『ちなみに今回集まったのは、この公園で出会った運命の2人を応援する人たちだよ』
幽霊も恋バナは大好きらしい。あんまりドロドロしてるやつじゃなくて、シンプルで甘々な純愛系統が特に。
……めっちゃベタで運命的な出会いをして本当に良かった。あくまで副次的な効果とはいえ、幽霊にまで味方をしてもらえるのだから。
ともかく、これで役者は揃った。逃走のための役者が。
強烈なプレッシャーで数刻の間、身体を強張らせたのを確認した僕は即座に行動を開始する。
そう、逃走だ。
「っ、待って!」
脱兎のごとく逃走体勢を取った僕を逃すまいと、プレッシャーを振り切った名倉さんは凄まじいスピードで距離を詰めてくる。
手にはスパークを起こしている何か。形までは確認できないが、あれを受けたらヤバい。
回避を試みるには少し遅すぎる。このままモロに受けたらヤバいのに。これでは間に合わないだろう。
だが、名倉さんよりも速く場にカットインした人物が1人。
「っと、スタンガンは中々に危ないな」
凛である。名倉さんが突き出した右腕を弾きつつ、僕の前に出て身を守ってくれた。
「邪魔しないで!」
「心太、先に行け。また数分後、最寄り駅で落ち合うぞ」
「分かった。任せたよ」
今度こそ僕は、この公園から逃げ出すことに成功した。
背中側では凛と名倉さんが何かを言い合っているが、それを聞き取る余裕はない。
まあ凛なら大丈夫だ。太極拳やシラットにも似た体捌きと、躰道のような変幻自在の足技を持つ彼ならば。スタンガン程度、物ともせずあの場を切り抜けるはずだ。
凛の無事を願いながら、僕はひたすらに足を動かすのだった。
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