十六夜

 演奏が終わった。僕は楽譜を最初から最後まで、少しも間違うことなく。代償として指が攣りそうだが。


 この楽譜が持つ意味。それは、視聴者に対し様々なメッセージを送ることだ。


 響くんは、この楽譜に様々な思いを乗せた上で製作していたのだろう。


 お世話になった院長先生に対して。ランばあちゃんに対して。


 ほんの少しだけしか会わなかったとはいえ、心を通い合わせていた咲良お姉ちゃんに対して。


 そして、最愛の人である琴葉ちゃんに対して。


 言葉ではとても収まりきらない気持ちを。メッセージを。伝えるために作ったこの楽譜。


 僕もまた、この楽譜に強い思いを込めた。それは、心愛にしっかりと伝わっているのだろうか……?


 その心配は、どうやら杞憂らしかった。


「大丈夫です。しっかり、伝わってます」

「そっか」


 流石は心愛だ。


 正直、心配でならなかった。あんな凄まじい楽譜を託されて。しかも、自ら望んだとはいえ重たい思いまで背負って。


 加えて何だかあまり詳しくは知らない人に告白されたり、僕の恋愛事情を根掘り葉掘り聞かれたり。人間関係絡みで疲弊していたこともあり、精神状態が非常に良くない方面へ傾きかけていた。


 だから僕は、この曲が持っている力に頼った。結果はまあ、見ての通りだ。しっかりと心のSOSを見抜いた心愛のおかげで、どうにか心の平穏は取り戻せそうである。


「演奏自体はどうだった?」

「耳が幸せ。これで勘弁してください」

「ううん。上々だよ」


 うん。その感想も、僕が最も望んだものだ。


 君の聴覚が幸せだと感じられる演奏ができているのならば、それ以上の何かを僕は望みはしない。


 ずっと、何のためにピアノを演奏するのか分かっていなかったけど、やっとその意味が見つかったとも言えよう。


 僕は、心愛の幸福のためにピアノを弾いているのだ。


「あ、そうだ心太さん。ちょっとこっちに」

「ん、何だい?」

「……ギュッ」


 幸福のおこぼれも少し受け取れるらしい。


 慈愛の女神かと錯覚するぐらいに深い笑みを浮かべた心愛は、僕の頭を自身の胸元にグイっと引きつけた。


 ガッツリ柔らかい何かが当たってるという事実に焦る前に、優しい彼女の手が僕の頭を撫で回す。


「少しずつ。でも確実に、2人で前へ進みましょう」

「心愛……」

「でも辛かったら言ってくださいね? 心太さんが悩んでたり苦しんでる姿を見るの、私も結構辛いんですから」


 こいつマジで女神か。あるいはその生まれ変わりなんじゃないかと素で思った。


 きっと褒めたところで、彼女は謙遜して自虐をするだろう。だから、賞賛の言葉は1つも口にはしない。


「……ありがとう」


 ただ、礼を言った。僕も彼女も、これ以上の言葉は望まない。そう分かったからこそ、僕はこれだけを告げた。


 ああ、それにしても。こうやって心愛に抱きしめられると、とても落ち着いた気分になるな。


 誰かに抱きしめられるのは久しぶりすぎてすっかり忘れてたが、こうしてハグをされるのは昔から大好きだった。


「あれ、心太さん笑ってます?」

「ごめんごめん。ちょっとむず痒くって」

「そうですか。そういえばこの状況、病院の時とは逆ですね」

「あ、確かに……」


 正直、こんな感じで彼女に甘えるつもりは1ミリもなかった。


 不安定であろう心愛を支えるためなら、多少の僕のモヤモヤは放置する予定だったのだが。こうして甘えてみると、それも案外悪くないなと思ってしまう。


 そういや、凛がこんなこと言ってたな。


「助け、助けられの関係ではないと長続きカップルにはならない」って。


 一方が助けるだけの関係は、すぐに破綻するらしい。聞かされた当初は「何言ってんの?」と思ったのだが、今は何となくその理由が察せた。


 どちらか一方が独りよがりになれば、関係が破綻するのも早いだろう。多分。


「これ、私気に入ったかもです」

「そう? なら、これからもたくさん甘えようかな」

「……心太さん可愛いですね」


 それはちょっと心外である……。


 でも、悪い気はしないかも。形はどうであれ、褒められるのは嬉しい。


 心愛の頬を軽く撫でると、僕は立ち上がって散らばったままの楽譜をリュックに放り込む。


「あ……」

「そんな残念そうな顔しないで。もうすぐこの公民館の閉館時間なんだ。帰る準備をしないと」

「そ、そうですか。もう終わりなんですね……」


 やっぱり彼女は可愛い。


 露骨に残念がる心愛を、荷物を纏め終えた僕は優しく抱き寄せた。


「終わりはもう少し先だ。君の家にたどり着くまで続くよ」

「心太さん……」

「今度は僕が、君にいっぱいの幸せを送る番だ」


 いつまでも甘えてばかりではないさ。僕にだって男の意地がある。


 心愛の右手をいわゆる恋人握りで手に取ると、彼女も静かに握り返してきた。


 そのまま僕らは公民館の外へ出る。途中ですれ違った職員さんには目いっぱい冷やかされたが知ったことではない。


 こうして少しでも触れ合うことが、彼女の幸せへと続くのだ。


「あ、月が綺麗……」


 外に出た僕らを迎えたのは、満月よりほんのり欠けた十六夜のお月さんである。


 満月よりは不完全に見える月。しかし、その美しさは負けず劣らず。公民館の傍に植えられた桜と共に、柔らかな月明かりを地面にまで届けていた。


「もう死んでも良い、とでも言っておこうか?」

「あら、相変わらず詩的ですね心太さん。でも死んだらダメですよ? 生きてるからこそ、こうやって幸せを感じられるんです」

「そうか、君はそう感じているのか。これは失敬」


 少しふざけつつ、笑いながら歩く2人だけの夜道。誰にも邪魔をされない2人きりの空間。うん、とても良い。


 この時間が永遠に続いたら。そう、それこそ時を止める力を手に入れて、2人きりの空間を手に入れられたら。どんなに良いだろうかと思う。


 しかし、叶いもしない願いを抱いても仕方がない。今はただ、心愛との時間を楽しもうではないか。



 楽しい時間の進みは異常なほど早い。体感にして一瞬で、僕は心愛の家の前にまでたどり着いていた。


「あの……お別れ前にキス、欲しいです」

「……君は本当に可愛いな」


 グズグズと別れを引き延ばしはしない。次があると分かっているから。


 優しく。しかし激しく長いキス。それが僕らの間に交わされた、別れの挨拶だ。


「それじゃあ」

「はい。また、時間があったら」


 最後にもう1度だけハグをした僕らは、それぞれ背を向けて向かうべき道へ足を踏み出した。心愛は家の中へ。僕は自身の家路へと。


 とても、とても幸せに満ち足りた時間であった。彼女の姿を見つけてから数分の間と、別れて数分が経過した今この瞬間以外は。


「……気がついてるぞ。さっきから後ろから付け回しているのは誰?」


 夜は感覚が鋭利になる。人からの視線に関しては特に。


「ふふ。やっと、見つけましたよ」


 思いっきりため息をついた後、僕は振り向いた。


「何用ですか? 名倉さん」


 視界に映った女に、不快感を隠そうともせず。

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