独りじゃない

 心太さんの演奏が始まった。


 彼がずっと作成をしていた楽曲の演奏。未完成状態の演奏はところどころブツ切りになりながらも聴いていたのだが、それですらも素晴らしかった。ある程度形になった演奏は、一体どのぐらい凄まじい演奏なのだろうか?


『響くんが作った曲、か』


 琴葉ちゃんも感慨深げに呟いていた。


 彼女は結局、あの曲の完成版を耳にすることなく命を落としている。最愛の人が手掛けている曲の完成版ともなれば、聴くのは楽しみだろうし、センチな気分にもなるだろう。


『曲を作ってる姿は見たことある。何なら、一緒にアイディアを出しながら作ってた。演奏している姿は結局見れなかったんだ』


 無論、演奏している響くんの絵を描くこともなかった。1番描きたかった絵を、彼女は描く前に死んだ。


『描ける?』


 ああ、もちろん。神さまが授けてくれたこの才能、今こそ活かす時である。


 さて、心太さんが弾いている曲の特徴であるが、とてもゆっくりとしたテンポの中で無数の音が連なって耳に入ってくるというものだ。


 ほんの1分のズレすら許していない様子であり、やや遠目で見ても、心太さんの顔は苦しそうに歪んでいる。


 そんな彼の苦心の甲斐もあり、私が耳にしている楽曲は非常に素晴らしい出来上がりだ。重厚で美しい音符の数々が、聴く人の心を強く揺さぶってくる。


 曲が進むのと比例し、心臓の弾みは強くなっていく。


 演奏を聴く人々の心の奥底にまで音色を響かせるという心太さんの特性と、演奏者に多大な負担を強いる代わりに、聴く人の耳に必ず残るメロディーラインを作成した響くんの楽譜。両方が合わさり、何かを想起させる演奏と化していた。


 私が想起したもの。それは、心太さんが楽譜に込めた想いと願い。


「まだ、完成ではないんだ」


 心の奥底にまで降臨した心太さんが言う。今演奏しているこの楽譜は、未だ完成には程遠いのだと。


 冗談言うなと。そして、噓だろと言いたい。こんなにも素晴らしい演奏なのに。貴方はまだ、完成してないと言うのか。


「きっと、完成には途方もない時間が必要なのがこの楽譜だ。世の中が高く評価している作詞家であっても、絶対に完成まで辛抱は不可能。作れば作るほど、自身の無力感に苛まれる。響くんの才能に、圧し潰されそうになるよ。それでも。それでも僕は……」


 派手で華やかな演奏の裏に隠された、途方もない無情感と悲しみ。


 無限にも思える完成までの道のりは、心太さんであっても絶望感を覚えるものだったのだろう。


 それを彼は、たった1人で抱えようとしていた。響くんにも明かさずに。


 だが、私には。私にだけは明かしてくれた。


 きっとこの言葉は、琴葉ちゃんには届いていない。彼女にはおそらく、響くんからのメッセージが届いているはずだ。


 この曲に秘められた能力的なもの。それは、聴く人によって様々なメッセージを送り、そして受け取れることだろう。


 それが理解できたならば、私が取る行動は1つ。


「大丈夫です」

「え?」

「大丈夫、ですよ。心太さんは独りぼっちじゃない」


 心の奥底にまで降りてきた心太さんを、優しく抱き締めることだ。


 そう簡単には弱みを見せようとはしなさそうな心太さんが、こうして演奏を通して私に助けを求めてきた。それに応えないのは、あまりにも無粋である。


「私も、心太さんと一緒に行きましょう」

「……長い道だよ? 終わりが見えない、無限回廊のような果てしない道。それでも良いの?」

「もちろん。だって私は、心太さんの恋人なんですから」


 それ以外に、何の理由が必要なのだろうか。


 無限に終わらない? そんな心配、いつか夢幻であったと思わせてやる。


 独りなら確かに、無限の道のりは辛かろう。だが、2人なら。3人なら。4人ならどうだ?


「私だけじゃないですよ、心太さんの味方は」


 その言葉を彼に届けると。どこか悲壮感が入り混じっていた演奏の音色が、少しだけ希望の輝きを取り戻した。そんな気がした。

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