幽鬼からただの彼氏へ

 黒い影法師に包まれて。風によって揺れた髪によって片眼は隠され。唯一見えている単眼は妖しい蒼い輝きを幻視できて。


 本当に心太さんなのかと疑った。口元すら見えない漆黒に身を包み、尋常ならざる冷気と霊気を全開にしていたその様子は、まるでこの世に生きる人間のものとは思えなかった。


 霊感が強い人なら、さっきの心太さんを見たら失神するかもしれない。何も霊感がない私ですら、あまりのプレッシャーに一瞬意識が消し飛びかけたのだから。


 すっかり元通りになった現在を見ると、なおさらさっきの様子は何だったのだろうかと感じる。


 明らかに心太さん1人が巻き起こした現象ではなかった。私は霊的なものは基本感じない。感じないはずなのに、今回だけはビンビンと肌に感じた。


 私に声をかけた男に向かって、怨念にも似た凄惨な殺意をぶつけている、この公民館に住み着いてる霊たちの様子を。


「あの、心太さん。さっきのって」

「僕にも分からないや……」


 心太さんにも説明ができないとなれば、もうこれはお手上げである。


 生きている者に留まらず、亡者までもが力を全力で貸すと。まあ、心太さんであれば普通にあり得る話だ。既に私たちは、死亡した人物から力を貸してもらってるのだから。その人数が増えることもあるだろう、多分。


 解答のない問題に頭がモヤモヤするが、すぐさま私は振り払うことにした。


 折角のデートなんだ。生まれたモヤモヤを完全に晴らすことよりも、もっと優先すべきことがある。


 デートは心から楽しむ。定石かつ常識だ。


「あら。あらあら心太くん! もしかして……!」


 公民館に入ると、早速受付のおばちゃん方に絡まれた。心太さんは顔なじみらしく、苦笑しながらもおばちゃん方の追及を受け流している。


 端々から聞こえる話を鑑みるに、どうも心太さんは本当に女っけのない生活をこれまでしていたらしい。


「しっかしまあ、こんな可愛い子捕まえちゃって! 日頃の行いが良い心太くんにお似合いだわぁ!」

「そんな良かったっけ……?」

「品行方正にも程があるってぐらいにね。気性は穏やかだわ、謙遜の塊だわ、人を褒めるのは上手だわ。何で可愛い子を捕まえられないのか不思議なぐらいだったよ」

「ええ……」


 聞いていてクスリと笑いたくなる光景だ。近所のおばちゃんに振り回される心太さんを見ているみたいで、全く飽きのない光景である。


「んじゃ、今日もピアノ借りますね」

「あいよ! 彼女さんによろしくね!」

「行こうか。こっちだ」


 おばちゃんの温かい視線に送られ、私は心太さんに連れられて部屋を移動した。ピアノはかなり奥の部屋にあるらしい。


 外からは、近くにある公園で遊ぶ子供の笑い声が聞こえる。窓からは夕陽が差し込み、何だか温かくて幻想的な空間だ。ただの廊下なのに。


 ピアノが安置してある部屋は、廊下よりもさらに幻想的だった。


「すごい……」


 思わず声が漏れるほどに、部屋の中は夕陽でいっぱいだったのだ。黒塗りのピアノが日光を乱反射していて美しい。


 いつもこんな素敵な空間でピアノを弾いているのか、心太さんは。


「落ち着くんだ。ぶっちゃけると家よりも」


 毎日わざわざ、学校ではなくこの公民館で練習をする。その意味が何となく分かった気がした。


 練習場所の雰囲気が素晴らしければ、そりゃあずっとその場所で練習するだろう。私だってそうだ。綺麗な景色が見える場所や、美味しい空気が吸える場所を見つけたら。ずっとそこで絵を描いてる。それと原理は同じだ、きっと。


「さて、僕はピアノを弾くけど。心愛はどうするの? ずっと弾きっぱなしだし、今日は作曲がメインだから途中で止まることばっかだし。心愛にとっては中々につまんない時間になると思うけど」

「大丈夫です。心太さんの演奏を聴きに来たんですから」


 正確には、彼の演奏を聴き、さらにそれを絵に映し出しに来た。


「それに、私は心太さんと一緒の空間で過ごせたらそれで満足です」

「……そっか。君がそれで良いのなら、遠慮なく」

「あ、でも時々は構ってくださいね? ずっと無視されたら拗ねますから」


 訂正。ずっと放置は少し寂しい。だから今のうちに保険をかけておく。


 すると心太さんはクスリと笑いながら、私の身体を優しく抱き寄せた。さっきの男とは違い、とても私を気遣っていると分かる力加減で。


「それじゃあ、まずはサルの匂い消しからだ」


 耳元で囁かれて幸せな気持ちになるのにまずは1秒。


 そして、キスをしてもっと幸せになるのに、もう数秒。

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