眠る幽鬼はすぐ隣に
「んじゃね。このまま公民館行くから」
「おう。最近は物騒な事件も多いから気をつけろよ~」
急遽決まったデートの約束。何だかよく分からん人に絡まれて沈んでいた僕の気持ちは、一瞬にして最高潮にまで達することになった。
普段は聞き流すだけのつまらない授業もしっかりと受けると、僕は途中まで凛と公民館へ向かったのだが、その最中に心がざわつく話を聞いた。
「ここ数日、強引なナンパするバカが増えてるらしくてな。俺の恋人も声をかけられたらしい。お前の彼女も可愛いし、バカ共に狙われるかもしれんぞ」
頼むから心臓がキュッとなるお話は勘弁願いたい。
心愛が見知らぬ男に話しかけられてる場面とか考えたくもないんだが。それも、デートの誘いとかならもっと嫌だ。八つ裂きにしてやるそんなクソ野郎。
ちなみに凛も全くの同感らしく、頭を掻きながらこんなことを言った。
「ほんとクソだよな。あいつら、彼氏がいると分かってもナンパを諦めようとしない。いっぺん死んでも良いんじゃね?」
凛がこれを言うと重みが違う。元来から超が付く巻き込まれ体質な凛は、サルが悪質なナンパをしている場面を何度も見てきている。
巻き込まれ体質に加え、超が付くお人好しな凜は、そんな場面をみたら絶対にその渦中へと飛び込むという勇気……と無謀さを兼ね備えている。彼に見つかったが最後、警察へ突き出されるついでに金的へエグいヤクザキックを食らうことになるんだろうなぁ……。
「お前もそれなりに覚悟は決めとけよ? 自分の女ぐらいは自分で守る。そのためには身体を張る覚悟をな」
分かってる。響くんが命を削ってピアノを弾き、琴葉ちゃんの心を守ったように。僕もまた、違う形であっても心愛を守るつもりだ。
そんな決意を胸に抱いて凛と別れた僕は、普段よりもちょっと気合が入った状態で公民館前まで辿り着いた。
ありていに言えば「ふんすふんす」してる状態だったからなのか、やけに広い僕の視野は看過できない光景を一瞬で発見した。いや、マジで看過できない光景。
「良いじゃんちょっとぐらい。ほら、こっち来いよ」
「止めてっ。放して!」
心愛が、何だかよく分からないバカに腕を掴まれてる光景を。
一気に頭へ血が上った。尋常じゃないぐらい、一瞬で。
リュックをやや雑に下ろして片手に持ち、駆け足で心愛の元へ駆け寄る。
「心愛、待たせた」
「心太さん……!」
心愛がサルの腕を思いっきり振り払い、僕の胸に飛び込んだ。
心愛を受け止めて頭を軽く撫でる。腕の中の彼女は、微かに体を震わせていた。突然、見ず知らずの男に絡まれて怖かったに違いない。
途端、胸の奥から強烈な怒りが噴き上がってくる。それはまるで、噴火寸前のマグマのようだ。
「何やってんですか? 僕の彼女に、何しようとしてたんです?」
自分でも驚くぐらい、低い声が出た。声の調子は静かなのに、明らかに激怒していると分かる声音。聞く人を縮こまらせる、対象を威嚇するためだけのものだ。
これまでの人生で、これほどにまで強い怒りを感じたことはない。
「何だよお前。邪魔するんじゃねえよな」
挙句、全く悪びれてないと見える。自分の起こす行動が全て正しくて、疑いようのない間違いないものだと信じてるのだろうか?
自分の起こした行動が、不特定多数の人間に対し、一生癒えないかもしれない傷を負わせるかもとは思えないのか? あ、それはサルだから無理?
しかしこのサル、まるで引く気配がないな。不機嫌そうな顔しながら、今にも喉笛を搔っ切ろうという雰囲気を隠しもしない。
「邪魔するなら……」
ついにはファイティングポーズまで取っている。どうやら殴り合いも辞さない姿勢らしい。面倒くさい、本当に。
心愛の前で。そして、公民館の前で血生臭い殴り合いをするわけにはいかないのだが、逃げ場所がどこにもないのが致命的だ。
ましてや僕は、生まれてからずっと音楽一筋の人間なので殴り合いは苦手だし弱い。そりゃ握力は強いかもしれないが、それだけだ。パンチやキックなんて弱すぎて話にならんと思う。
しかし、僕だって引くという選択肢を取ることはない。心愛を守るため、立ち向かわなければならない。
『大丈夫。戦うのは1人じゃない。君は1人じゃないよ』
と、そこへ脳内に響く声。
どういうことだ? そう聞く前に、いきなり話しかけてきた響くんは、含み笑いを浮かべていると明らかに分かる雰囲気のままこう言った。
『霊の者は皆、君へ力を貸す。演奏に心ひかれたから』
途端に、僕を背中側から何かが包んでいった。
そして巻き起こる、墓場からやってきた冷風。否、霊風。
公民館のそばに生えた木々に生い茂る、無数の緑葉と枝が風によってこすれ合い、地獄の釜から這い出たバケモノのような唸り声をあげた。
晴れていた空は突如として暗くなる。雲がやってきたのではなく、夜闇が一足先にこの場へ顔を出した。そんな暗さ。
太陽が月に化ける。亡者が彷徨う夜闇の踊場へ、僕らが立つこの場だけが姿を変える。
急速に冷えた空気の中、やけにハッキリとしている僕の視覚。それが捉えたのは、顔面を蒼白にして腰を抜かしたサルの醜態。
人ならざる者が作ったこの極寒の空気。さぞ怖かろう。
「邪魔をするなら、どうするんです?」
自分でも驚くぐらい、恐ろしく低くて冷たい声が出た。何だか声がノイズががってるのだが、それも響くんの言う霊の者の仕業なのだろうか。
まあ、この場においてはその方がありがたい。きっと威圧感は段違いだろう。
「ねえ、だんまりですか? 黙ってちゃ何も分からない」
腰を抜かし、声帯までもが委縮してしまっているのだろう。奇妙な呻き声しか出さないサルを見て、徐々に呆れが強くなってきた僕は、ゆっくりと男の元へ歩く。
逃げようと尻をズリズリ動かすサルだが、僕が目の前に立った時点でピタリと動きを完全に止めた。
まるで、金縛りを受けてるかのように。
しゃがみ込んでサルと目線を合わせると、一言だけ僕は告げた。
「消えろ」
その言葉を口にし終えると同時に、サルは脱兎のごとく一目散にどこかへと走り去っていった。
サルの姿が見えなくなると、異様だった辺りの様子が戻った。空は広大なキャンパスに綺麗な夕焼けを描き、月は太陽として地を優しく照らしている。
ため息を1つ。そして、深呼吸を数回。すると、僕を包んでいた何かも露散してしまった。
「夢、ではないよね」
夢みたいな。幻みたいな。そんな変化だった。
「夢幻が無限に化ける、か」
力を貸してくれた何かに心の中で礼を言うと、僕は心愛のところへ戻るのだった。
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