本当の笑顔
翌日から私は、またいつもの大学生活に戻った。
朝にしては少し遅いぐらいの時間に家を出て、やや遠めの位置にある美術大学に足を運んで。あまり面白いとは感じない教授の講義を聞く。そんな毎日。
……の、ままかと思ったのだが。実際は大きく違うことに気がつかされた。
「あれ、心愛ちゃん2日ぶり! 今日は随分と明るい顔してるね!」
そう言って私の隣の席に座ったのは、普段からぶっきらぼうな私に毎日話しかけてくる女性だ。
彼女の名は京香さん。私とは異なり、高校を卒業した上でこの大学に進学した、同期の人間である。
ぶっきらぼうにも程がある私にも明るく話しかけてくれる、数少ない友人とも言える人物であった。
「そうですか……?」
「もうかつてないぐらい! あ、自覚なし?」
「自分の顔なんて分からないですから」
「そか~。すっごい優しい表情してるよ?」
マジか。全く自覚なかった。私としては普段通りの顔をしてるつもりだったのだが、第三者から見るとそうではないらしい。
とは言え、明るく優しいと思われる表情になってる理由は何となく察せる。
何となく、というか確信にも近い。心太さんと出会い、そして恋仲になったからだ。
「何か良いことあったでしょ?」
「この数日で、人生でも指折りの嬉しいことがありましたね」
「え、何それ。もしかして男が……?」
「そのまさかですよ。恋人ができました」
それ以外に理由がないので、正直に私は恋人ができた旨を伝えると、京香さんは満面の笑みを浮かべて詰め寄ってきた。顔が近いです。
「マジか! ぶっきらぼうオブぶっきらぼうの心愛ちゃんに彼氏かぁ!」
「わあ、酷い言い草」
否定できないけど。一切反論の余地ないけど……!
「んでんで? 写真とかは?」
「……絵でも? すぐ描きますから」
写真撮るのすっかり忘れてた。こうやって話したら、絶対に聞かれるだろうと分かってたのに。
仕方がないので、特技である早描きを使って心太さんの絵をこの場で描き上げることにした。
スケッチブックと鉛筆を取り出し、少しの思案を挟んだのちに私は手を動かし始める。
描くのは、「幻想曲 さくらさくら」を弾いている心太さんの様子だ。
昨日の情景は、脳が最重要フォルダとしてしっかり記憶にしっかりと残っている。どんな絵を描くのか決まっていれば、人物画1枚は一瞬に終わるだろう。
すぐの宣言通り、私はものの数分で心太さんの絵を描き上げた。色は塗ってないが、大まかな情報を伝えるならこのぐらいで十分だと判断できる完成度だ。
「こんな感じの人です」
「やだ、すっごいイケメンじゃない。恋人補正が入ってるとしても、この絵だけで心愛ちゃんの彼氏がすっごい優しくて誠実な演奏家だって分かる」
その通り。心太さんは、誰よりも誠実で優しくて。そして、私にとっては世界で1番のピアノ奏者だ。
「てか、やっぱり才能が違うなぁ。数分でこのクオリティの絵を描いちゃうなんてね。で、そんな神童心愛ちゃんの彼氏として、全く見劣りしない才能を持ってる男の人か」
「私なんかよりも凄いですよ。演奏聴いたら分かると思います」
「どんな天才ピアニストなんだそれ!?」
大げさに驚いている京香さんだが、私は嘘は一切言ってない。
人の心の深層にまで響く演奏を、ごく当たり前のようにやってのける心太さんは本物の神童だろう。
そうだ、神童。響くんと同じで、心太さんも神童。この言葉が1番しっくりくる。
「あ、もっと優しい顔になってるねぇ」
「え、本当ですか?」
「ホントホント。鏡か何かで見てみたらどうかな?」
いそいそと手鏡を取り出して自分の顔を見てみる。
鏡には、かつてない程に優しい表情をした私の顔があった。眉間のしわも、不機嫌そうな雰囲気もない。ごくごく普通の微笑み。
初めて見た。こんな顔。こんなにも人間らしい表情。
「きっと、それが本当の心愛ちゃんの笑顔なんだろうね」
「本当の、笑顔……」
人間らしい表情と、年相応の表情。両方を取り戻すキッカケを、心太さんは与えてくれたのだろうか。
分からない。まだ分からないけど。でも、それ以外の理由がない。
「恋する乙女って絵になるわぁ。ねね。今の心愛ちゃんを絵にしても?」
「え、それはダメ。恥ずかしい」
「そんなこと言わずに! 絶対に可愛く仕上げるからさ!」
「もっと恥ずかしいですよそれ!」
表情を取り戻せた理由を本格的に知るのは、もう少し先になりそうだった。
まずは、暴走してる京香さんを止めないと……!
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