全てが
拗ねたのか、それとも落ち込んだのか。よく分からないが、うんともすんとも言わなくなった心愛。うつむいたまま口を閉ざしている。
ちょっと心配だ。2重の意味で。
「ああ、そうだ響くん……じゃなくて心太くん。これ、お騒がせしたお詫び」
「え、あ、はい。ご丁寧にどうも」
「彼女に謝っておいてくれる? からかいが過ぎたって」
「……直接伝えなさいよ、もう」
何を思ったのか、咲良お姉ちゃんはビニール袋に何かを詰めて僕に渡してきた。
もう、挑戦的な光を携えた瞳ではない。おそらくは彼女本来の、優しく儚い笑みを浮かべている。
いたずらっぽいところも含め、これがお姉ちゃんの素なのだろう。女性の良し悪しを決めるのは苦手な僕でも、咲良お姉ちゃんは素晴らしい女性だということが分かった。
「そろそろ帰ります。結構遠いとこから出張ってきたので」
「分かったわ。ねえ心太くん。何かあったら、またいらっしゃいね。例えば恋愛で困った、とかさ」
「……成立して2日目の僕に、物騒なこと言わないでくださいよ」
いやマジで。滅多なこと言わんといてほしいわ。不安で夜も眠れなくなっちゃうから。
「うふふ。私はいつでもフリーだからね?」
お姉ちゃん。笑顔はすっごい魅力的です。並大抵の男なら一瞬で恋すると思います。
でもね。恋人がいる目の前でやらないでくれ。黙ってた心愛さん、猛烈な殺気と嫉妬心を顕にして威嚇してるからね?
振り回し気味な人に囲まれて、よく響くんは倒れなかったものだ。
『慣れだよ』
慣れるのか……。
僕は困惑を胸に残したまま、咲良お姉ちゃんの経営する店を発った。
地図を見ると、店から最寄り駅まではそこまで遠くない。ノンビリ歩いても10分で到着するだろう。
さも当然のように手を繋ぎ、テクテクと田舎道をまた歩く。
「あの、心太さん」
少し歩いたところで、心愛が口を開いた。
「なんだい?」
「私、今日初めて琴葉ちゃんの気持ちが理解できました」
「……? そ、そうなんだ」
話の流れが見えない。急にそんなことを言い出して、どうしたのだろうか?
困惑気味に受け答えをすると、心愛は寂しそうに微笑んだ。
「まだ出会って3日目。恋人としては2日目。なのにもう、不安になってるんです。本当に私なんかが選ばれて良かったのかなって」
「……心のモヤモヤ、全て話しちゃってくれ。吐き出せるだけ、全部」
大事なお話。そんな気がする。この場で聞かないと、この先の未来はない。
もちろん、そんな保証も確信もない。理由もないと思う。それでも聞こうと思ったのは、院長先生のお話があったからだ。
「男も女も、思考回路にそこまで差はないんだ。恋人関係になった人が生まれたら、必ず悩みに悩む。本当に自分が恋人で良いのだろうかってね」
あの響くんだって悩んだ。琴葉ちゃんも大いに悩んでいる。僕だって例外ではない。
それなら、目の前の心愛が悩んでいるのも何らおかしい話ではないのだ。
「私、ちょっと前までは全部が灰色に見えてたんです。だから、人の気持ちには疎いし感性はズレてるし。言葉を表面通りに受け取っちゃう。語彙だって低い。心太さんには迷惑をかけてばっかり」
考えが上手くまとめられていないのだろう。拙い言葉で彼女は話している。だが、僕にはしっかりと伝わっていた。
ギュッと、軽く手を握り直す。大丈夫。僕はしっかり理解してる。分かってるよ。そんな意を込めて。
世界の全てが灰色一色にだけ見えていた。ゆえに、彼女はこれまで積極的に人と関わらなかったのだろう。だから、年齢の割には幼い一面が見受けられる。まだ、成長しきっていない精神面の部分が大きい。
今回、咲良お姉ちゃんと対面したことでそれが浮き彫りになった。
「咲良さんは賢いし人生経験が豊富。心太さんは年上の人とも対等にやれるだけの、人の感情の機微を正確に読み取れる能力がある。でも、私には絵を描く以外には何もない」
とんでもない。過大評価だ。僕はそんなに、誰かに褒められるような超人ではない。
そう言いたかった。とても言いたい。喉まで言葉が出かかってる。しかし、言葉を僕は飲み込む。口にしたら、彼女をもっと傷つけてしまいそうだったから。僕は口を閉じた。
言葉を飲んだことで次に湧いて出てくる感情。それは、怒り。
自虐の言葉を使うことは誰しもがあるだろう。謙遜の意で使うことも、本当に自分を貶めるために使うことも。
ネタの範疇なら構わない。笑って終わらせられる。だが、大切に思っている人が。寂しげな顔で。自分を貶める姿を見て。
「私なんかよりも、もっと良い人がいますよ。心太さんみたいに、才能と人格両方が素晴らしい人も、この世界を探せばどこかにいます。何なら、さっき出会ったあの人でも……」
「心愛。これ以上は何も言わないで」
むかっ腹が立たない人はいない。
咲良お姉ちゃんの方が、恋人としてお似合いだ? もっと他に、お似合いの女性がいる? ふざけるんじゃねえぞ。
その言葉、例え最愛の人からの言葉だとしても許さん。
「で、でも」
「もう忘れた? 僕は君の全てが好きってこと。それは良い面も、悪い面も全部ひっくるめてるってこと」
恋ならば、人の良い面だけ見て好きなることもあるだろう。そしてそのまま破局することも、続いて関係が発展することもある。
だが、愛と恋は違う。別物だ。
愛情は、人の美しい面と醜い面。両方を知ってなお、何よりも大切に想える場合のみにだけ芽生える特別な感情。
「咲良お姉ちゃんは確かに良い人だ。素晴らしい人だと思う。でも、それ止まりなんだよ。僕の中では」
お姉ちゃんに失礼? 知ったことではないさ。
僕にとって、愛情を注げるのは心愛ただ1人だ。それ以外はない。絶対にない。
「言葉を表面通りに受け取るなら、この言葉も同じように受け取ってくれ」
田舎道は人がそうそう通らない。それを良いことに、僕は心愛を抱き寄せる。そのまま、彼女の耳元に囁いた。なるべく優しい声音を意識して。
「全部だ。心愛を形成している全部。欠点も良点も、全てが愛おしい」
「ひゃ、ひゃの。耳、くすぐったいでしゅ……」
「うるさいやい。全部聞いてくれ」
「しょんなぁ……」
柄にもなく強引なことやって恥ずかしいが知らん。この際だから全部言ってやる。ついでに行動もしてやるわこの野郎!
「愛してる。君だけを、愛してる」
「ふ、ふにゃ……」
脱力を始めてる心愛をまた抱き寄せ、顔を近づけ。目を閉じて、僕はそのまま自分の唇を心愛の唇に重ね合わせた。
遠くから冷やかしにやってくる風の足音。それを聞きながら、2人だけの止まった時間へと没入していく。
何秒だろうか。数秒か、それとも分単位なのか。とても長い、凍った刻の中に2人きり。
初めてのキスは、春と夏の混ざった不思議な匂いと共に過ぎていった。
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