桜の下で

 心太さんが戻ってきた。手にはさっきまでなかったクリアファイルがある。


「お待たせ」

「それじゃあ……」

「はいよ! アンタらもあの2人みたいに幸せになりなさいよ?」

「ふふ、もちろんです」


 すっかり近所のおばちゃんみたいなランばあちゃん。だが、それが良い。このフランクさが、琴葉ちゃんの心を幾度も救ってきたのだから。


「行こうか」

「はい!」


 空いた手を繋ぎ、病院を背にする。


 背中に当たるのは、様々な形の声。


 冷やかしもある。からかいの声だって聞こえる。でも、悪意に満ちた声はどこからも聞こえなかった。


「頑張って!」

「応援してるぞ!」


 エールを送るための温かな言葉は、確かに私の心の奥底まで響いていた。


 病院を出てしばらくしてからも、心の温かみは一向に消えない。ずっとポカポカしている。


 まるで、春の優しい陽だまりに照らされてるかのようだ。


「楽しそうだね」

「心太さんこそ。さっきから微笑みが抜けてませんよ」


 互いに笑い合う。ほんの僅かな時間しか病院には滞在しなかったけど、大切な話をたくさん聞けた。


「ミカン食べる?」

「あ、すっかり忘れてた。食べますっ」


 ミカンをつまみながら田舎道を歩く。


 なんてことない日々から、ほんのり外れた日々の一部分。


 学校をまるまる1日サボり、恋人となった心太さんと笑い合いながらノンビリデート。イケないことをやってるスリル感と、シンプルな幸福感がたまらない。


 のんべんだらり。そんな言葉が似合う、少し遠い田舎での2人旅。


 この田舎へ来る途中の電車で出会ったおばあさんからもらったパンフレットを眺め、「ここはどうだ?」「ここ行ってみよう」なんて言いながら歩く。


 パンフレットは手書きながら精巧に作られており、様々な店や観光スポットが小気味よい一口レビューと共に記されていた。


「あ、この店行ってみようよ。満開の桜の下で和食を食べられるみたいだ」

「なにそれ、すっごい趣きがありますね! ぜひ行きましょう!」


 テンション爆上がりである。灰色の世界から脱した私は、美しく趣きのあるものに目がない。釣り餌のように垂らされでもされたら、即座に食いつくぐらいには目がないぞ!


 元より舞い上がっていた気持ちがさらに上昇し、もう何が何だか分からない状態だ。気持ちがハイになりすぎて頭のネジがぶっ飛びそうである。


「元気いっぱいだねぇ」

「心太さんと出会ってからずっとこんな調子ですよ? 灰色の世界に住んでた人間に、色を突然もたらしたらこんなになっても不思議じゃないです」

「あ、僕のせいなんだね」

「良い意味で、ですよ」


 全く悪い意味で言ってませんからね? むしろ良い意味でしか私は捉えてません。


 色を知ったことで私はより素晴らしい絵を描けるようになったし、「恋」という名の幸福も知れた。季節の移ろいを目で見て美しさにうっとりすることも、感動することだってできる。


 当たり前のように人間が保持している感性を持ち合わせていなかった私だったが、心太さんのおかげで、やっと普通の人間らしい生活を送れるようになったのだ。


「あ、心太さん。お店見えてきましたよ」

「おお。パンフレット通りの場所にあるんだな。本当に満開の桜の下に店がある」

「早く行きましょう!」

「お、わわ。手を引いて走らないでよ!」


 我慢ならん。遠目からでも分かる満開の桜を早く満喫したいんだ私は!


 文句を言う心太さんの言葉には耳も貸さず、私は一目散に店に向かって足を動かした。


 店に近づけば近づくほど、風に乗って舞い散る桜の花びらの数が増える。花びらはベレー帽に積もっては流れているらしく、時折後ろの心太さんの顔に花びらが直撃しているようだ。「うわ口に入った!?」と彼は少々お間抜けな声を出している。


 走った甲斐もあってあっという間に店に到着すると、走ってやってきたことに驚いてフリーズしている店員さんに声をかけた。


「あの、今2人分の席ありますか?」

「え、あ……はい。全く問題ないですわよ?」


 よく見ると、店員さんは着物を見事に着こなしている綺麗なお姉さんだった。


 なるほど、桜の木や和食とよく合う。こんな店まで徹底してるとは素晴らしい。


 と、勝手に感心していると、不意に脳天に何かが降ってきた。


「へぶっ!?」

「少しは落ち着いてくれ。君、突っ走りすぎやしないか?」


 後ろを振り向くと、心太さんがジト目で私の頭にチョップを落としていた。


「ご、ごめんなさい……」


 思わず涙目になってしまった。心太さんに軽くとはいえ怒られたのは、私的にはかなりのショックだったのである。


 すると心太さんは、私の頭に乗ったままの手を横に倒す。


「怒ってないし嫌いにもなってない。だから、そんな泣きそうな顔はしないでくれ。人前なのに恥ずかしい」

「は、はい……ふぁっ、人前!?」


 完全に失念していた。人前であるということを……!


 ガバリともう1回後ろを向けば、着物のお姉さんがクスクスと笑っていた。完全に近所のおばあちゃんが「あらまあ熱いわねぇ!」と冷やかす感じの笑い方だ。


 やってしまった。また、やってしまった。行きの電車であれだけ猛省したのにっ!


「も、もう嫌だ……」


 思わず蹲ってしまうのだった。

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