神さまが遺した未完の大作

 目が覚めた。今度は現実世界の方で。


 隣には昨日恋人になった心愛。まだ寝たりないらしく、スヤスヤと寝息を立てている。


 髪の毛を軽く撫でてみると、心愛はくすぐったそうに笑いながら寝返りを打った。幸せそうで何よりだ。


 目覚めて早々ホッコリした僕は、一足先にベッドから出て身支度を始める。記憶の通りなら、この病院の朝食の時間は7時半。現在時刻は6時45分なので、まだまだ余裕がある。


 いつでも病院を出られる準備を終えると、僕はベッドに腰を下ろす。


 相変わらず心愛は寝ていた。それはもう、幸せそうな寝顔を晒していらっしゃる。


「ん、ふふ……」

「……ホント、可愛いなあ。こんなに可愛い人が僕の恋人なの、夢みたいだ」


 年下で、天才美術大生な恋人。内面は甘えん坊と母性の混ざった融合体と来た。属性モリモリすぎて、場合によっては卒倒する人が現れるのではないだろうか?


 そんな他愛のないことを考えつつも、心愛を撫でる手を止めはしない。


 撫で心地が抜群で、正直病みつきになっている。髪、肌、ほっぺ。どこを触っても面白いのだ。


 ツンツンとほっぺを触ってみる。彼女は顔はかなりシュッとしているタイプなのだが、想像以上にほっぺはモチモチしてた。


「ん、んぅ。うーん……?」


 癖になる触り心地だったので存分に弄くり回してると、心愛がゆっくりと目を開けながら意識を覚ました。流石に目が覚めたらしい。


 あくびをして虚空をしばらく見つめてた心愛だったが、僕を視界に映すと途端にニヘ〜と笑みを作る。


「あ、おはようです……」

「うん、おはよう」


 起きて早々に見た笑顔が魅力的すぎて、思わず吐血しそうだった。可愛すぎるぞ僕の恋人。


 極力悟られないように、僕は少し強めに心愛の頭をワシャワシャと撫でた。


「む……犬じゃないですよ」

「手に頭を擦り付けてる時点でその言葉の説得力は皆無だけどね」

「生理反応です……」


 うーん、やっぱり犬だ。愛犬だ。


 可愛いからヨシッ! なんだけどね。可愛いは正義。


 朝から糖分高めのやり取りを行うと、自然と「今日も頑張るぞ〜!」という気分になる。1日に必要な精神エネルギーを、イチャイチャすることでチャージしているのだろうか。


 心理学者かカウンセラーあたりにこの現象を説明してほしいものだ。


「ところで、いつから起きてましたか?」

「うーん……15分前かな。着替えて準備してからはずっと君の寝顔を見てた」

「……ちょっと恥ずかしいです」

「寝顔も可愛かったよ」

「ン゛ッ゛……」


 時折出るその声は何なんだい?


「失礼。また達するとこでして」

「達する?」

「……有り体に言えば、限界オタク化することですよ」


 分からん。サッパリ分からん! 誰か詳しく教えておくれ!


 特に意味はない会話ばかりしてる。だが、これもまた一興。恋人となら、今のところ基本的に何をしていても楽しく感じる。


 そうしていると時間が経過するのはあっという間だ。ふと時計を見ると、7時半まで残り5分程度となっていた。


 朝食は部屋に運び込まれる形式を取られている。それまでに着替えと洗顔ぐらいは済ませるべきだろう。


「もうすぐご飯だし、準備始めたらどうだい?」

「嫌です、離れたくない……」

「流石に着替えぐらいしようよ。このままダラダラするわけにもいかんでしょうに」

「なら着替えさせてくだしゃい……ふああ……」


 どうやら彼女、相当に朝が弱いらしい。大学生ともなれば、朝はそこまで早く起きなくても何とかなるもんなのだろうか?


 それと、着替えさせるのは僕の理性が崩壊しそうなので絶対ダメです。


 混浴の際も鋼の自制心を総動員し、何度も崩壊しそうになった理性を保っていた。それをインターバル開けず、連続で行うのは無理だ。間違いなく我慢が利かず、理性が地平線の彼方にまで消し飛ぶ。


「困ったなぁ……」


 このまま食事を運び込まれても困る。冷やかしを食らうのはもう勘弁だ。


 しかし、僕に打つ手がない以上どうもできない。いよいよ手詰まりになり、諦めて冷やかしを受けようかとまで思い始めたところで、心愛がガバリと起き上がった。


「……困らせるのは違うので起きます」

「お、おう。そうですか」


 行動原理は分からないが、ともかくしっかり起き上がって準備を開始してくれたので良かった。これで解決……だと思う。



 さて、最大の懸念事項も取り敢えず解決し、朝食もペロリと胃の中に収めた僕たちは、それぞれ世話になった人への挨拶に出向いていた。


「そうか。もう帰ってしまうのか、響くん」

「ごめんね先生。心臓を使っているお兄さんにこれ以上迷惑はかけられないんだ」


 現在僕は、院長先生と話している。実際には先生の言葉に反応した響くんが僕の口を借りて喋っており、短い時間ながら楽しそうにしている。


「ああ、そうだ先生。僕が書いた楽譜はまだこの病院にある?」

「ん? 楽譜はまだあるけど……それがどうかしたのかい?」

「それ、返してほしいんだ。ある人との約束を果たすためにね」


 どんな顔をして言葉を口にしているのかは分からない。しかし、院長先生が軽く目を見開いて脂汗を流していることから、相当な威圧感を持った表情をしていると推察できた。


「そうか。ついに……そうなんだね。君の想いを受け継ぐ人が現れたんだね?」

「それがこのお兄さんなんだ。僕と同じピアニスト。そして、遺産の相続人とでも言おうかな? ともかく、彼があの曲を完成させてくれるんだ」

「なら、すぐにでも持ってくるよ。あの日受け取った楽譜は、あの日の状態のまま保管してあるからね」


 あの日。その話を僕は聞いたことがないし、記憶も見たことがない。しかし、分かった。あの日というのは心太くんが死亡した前後のことだ。


 おそらくは死亡する直前に、院長先生に楽譜を託したのだろう。数年、いや数十年先の未来に、自身の意志を継げる継承者が現れるまで大切に保管してくれと。


 立ち上がってこの場を1度は去った先生が戻ってくると、その手には数枚の紙が入ったクリアファイルを持っていた。


「はい、これだよ」

「……うん、本当に変わりないね。もう少し紙が劣化してると思ったんだけど、あの日見たときと何も変わってないや」


 クリアファイルを受け取った響くんは中身を確認すると、僕の表情筋を操って微笑みを作った。


 院長先生がハッとした表情を浮かべる。


「ありがとう先生。曲が完成したら、病院に帰ってくるね」

「響くん……」

「それじゃあ、またいつの日か」


 その言葉を最後に、響くんの意識は僕の心の奥底へと引っ込んでいった。言いたいことは全て言えたらしい。


 響くんがやったように、僕もクリアファイルの中身を見る。


 あの世界で見た楽譜と何も変わらない。全く同じだ。


「……ありがとうございます。僕が絶対、この曲を完成させてみせますから。それまで待っていてください」

「彼の遺産を相続する人が現れるなんて、夢でも見てるみたいだ。何から何まで響くんの言葉通りだ」

「言葉通り、ですか?」

「死ぬ間際に、彼はこう言ったんだよ」


 いつの日か現れる継承者に、この楽譜を渡してほしい


 何度目かの寒気を感じた。


 まるで未来が分かっているかのような言動。その予言じみた言葉は、数年先の未来で確かに的中した。数分の狂いもなく。


「僕は、神さまの遺産を継いだんですね」


 突拍子もない僕の言葉。基本的には誰も信じないだろうし、鼻で笑われて終わるだろう。


 しかし、院長先生は否定せず浅く頷いた。


 きっと、そうなのだろう。


 神の遺した未完の大作を、僕は引き継いだのだ。

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