夢幻の奏者

「あれ、ここは……」


 心愛さんを抱いて眠りに落ちた僕が次に意識を取り戻すと、見覚えのある空間に移動していた。


 精神世界だ、ここは。僕と響くんがゆっくり対話をするための部屋。


「あ、来たね」


 ピアノを弾いていた響くんがこっちを振り向く。顔は相変わらずモヤがかっていて見えない。


 だが、彼はこの前よりも笑っている気がした。


「告白したんだね」

「うん。あの記憶が後押しになった」

「そっか。君はあの記憶をそんな感じで使ったんだね」

「ダメだったかい?」

「ううん、むしろ最高を超えた答案を君は出した。僕は、あの記憶を見て決意こそするけど、もっと告白自体は先延ばしにすると思ってたんだ」


 どうやらご期待に添えられたようだ。満足気である。


 それにしても、今回は何で彼がこの場に呼んだのか。それが一向に読めない。


 そんな僕の疑問はお見通しだったらしく、響くんはすぐに答えてくれた。


「今日はね、晴れて彼女と結ばれた君にお願いがあって呼んだんだよ」

「お願い?」


 とんと見当がつかない僕に、彼はなおも続ける。


「僕の夢、君はもう知ってるよね?」

「君の夢.……ああ、あれか。記憶を見たときに知ったけど、それがどうかしたのかい?」


 響くんの夢。それは、響くんが弾いた曲。そして、作った曲を素晴らしい絵で表現してくれる。そんな女の人と結婚することだったはずだ。


 それがいったい、どうしたと……いや、まさか。もしも想像通りだとしたら、君は相当に重たい思いを僕に……?


「夢を継げ、とまでは言わない。言えない。でも、頭の片隅に置いてほしいんだ」

「片隅に?」

「そう、片隅に。知っての通り、僕の夢は、僕が弾いた曲や作った曲を素晴らしい絵で表現してくれる人と結婚することだ。この夢を前提に、この楽譜を見てほしい」


 響くんから差し出されたのは数枚の楽譜であった。パッと見ると、手書きで五線や音符、記号、リズム等が全て書いてある。


「これは、僕が初めて作ろうとした曲の楽譜だ。結局完成しなかったけど」


 なるほど、確かに未完成だ。脳内で楽譜の通りに演奏を再生してみたが、区切りの悪い部分で紙がいっぱいになってしまっている。


 もう言わんとしていることが分かってしまった。響くんの顔がある場所をチラリと見ると、彼は深く頷く。つまり、そういうことか。


「この曲は、僕が死んだことで完成せず闇に消えた作品。この曲を何年もかけて完成させて演奏して、琴葉ちゃんには絵を描いてもらう。それが僕の、いつかは叶えたい夢だったんだ」


 とても、とても素敵な夢だ。とても儚いけど、目がくらむほどに美しく輝いている夢だったと思う。


 しかし、その夢は儚くも幻へと消えた。彼の死によって、希望は夢幻に名を変えてしまった。


「曲を完成させてくれて、演奏して。その様子を、琴葉ちゃんの心臓を持つ心愛お姉さんに絵を描いてもらえたら。もう心残りはないよ」

「そっか。それで未練は断ち切られるのか」


 あえて響くんが「お願いだ」と口にしないのは、彼の持ち合わせた優しさが働いていること他ならない。


 押し付けがましいと彼は思っているのだろう。言葉の節々から頼みたい気持ちは溢れてるが、口調はどこか遠慮気味だ。


 そんな口調で話さなくても、ストレートに頼めば良いものを。


 命の恩人の頼みを断る道理なんて、あるはずがないのだから。


「響くん。僕のセンスで曲を完成させてしまって良いんだね?」

「君が嫌でないのなら。嫌なら断ってくれても構わないけど……」

「何言ってんのさ。断るわけないだろ?」


 僕は純粋に、この楽曲の完成形を弾いてみたくなった。君が頼もうと、頼むまいと。関係なくこの曲を完成させたい。


「夢幻の奏者の遺産。僕が相続しよう」


 響くんは夢幻の奏者だ。その存在を知る人は少ないけど、どんな歴史の偉人よりも素晴らしい腕を持つ最高のピアニスト。しかし彼は、泡沫のような儚い命をあっという間に燃やし尽くして死んだ。


 死してなお、響くんは様々なものを遺した。


 まずは心臓。彼がこの心臓を遺していなかったら、僕はこの世に生きてはいない。


 次に、未来に存在していた無数の笑顔と幸福。類まれなる素質を武器に、彼は演奏で多くの人の心を救い、少し先にある未来を。そして笑顔と幸福を守った。


 そしてこの曲は、そんな彼が遺した最後の遺産だ。


「本当にいいの?」

「もちろんさ」

「ホントのホント?」

「男に二言なし。必ず完成させてみせる」


 見つめ合う。僕に響くんの顔は見えないが、それでも見つめる。


 やがて響くんはフッと息を吐いた。


「そっか。それなら、君にお願いしようかな」


 少しずつ、僕の意識が薄れ始めている。一旦解散をするつもりなのだろうか。それとも、もう朝なのか。


 分からなかったが、とにかくこの時間はもう終わり。また現実世界に戻らなくてはならない。


「僕が夢幻の奏者なら、心太お兄さんは無限の奏者だ。限りのない可能性を秘めているピアニスト。そんな君になら、僕は安心して任せられるよ」


 そうか。君にそう言われるのは光栄だな。


「頼んだよ、お兄さん」


 ああ、任せろ。

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