月光

 心太さんがピアノを弾き始めた。


 曲は私でも知っているもの。ベートーヴェンのピアノソナタ月光の第1楽章だ。


 静かで優雅な音色が部屋を包む。月夜の晩の草原のような。凪いだ湖の水面のような。そこに差し込む月明かりのような。そんな音色。


 心太さんのたおやかな指が奏でる音色は、心の奥底にまで響く不思議なものだ。きっと彼より上手に、かつ正確に曲目を弾ける人はいるのだろうが、こんなにも心を直接揺さぶる演奏はそうそうない。


 素晴らしい演奏を聴いていると、時間がすぎるのはあっという間で。気がつけば、もう第1楽章は終盤であった。


 そのタイミングで辺りを見渡すと、何人の病人さんたちが心太さんの演奏に聞き入っている。


 気のせいかもしれないが、青白く生気があまり感じられない病人さんの顔が、彼の演奏を聴いた途端に良くなった。そんな気がした。


 月光は第2楽章へと差し掛かる。全体的に重たい雰囲気の第1楽章とは異なって、少し明るい音色が室内を包む。


 あまり有名ではない楽章だが、落ち着いた音色の中に確かな力強さと躍動感を感じさせる。私は嫌いじゃない。


 淡々と進んださっきとはまた違う、心が弾むような音色。徐々に顔を出し、辺りを照らす朝日と西に傾く白い月。そして明けの明星を連想させる。


 やはり心太さんの演奏は素晴らしい。こうも簡単に情景を連想させる演奏を、当たり前のようにやってくる。


 既に時間は7分弱経過しているが、全く飽きがこないのもポイントだ。


 ふと周りを見渡すと、もう結構な人が彼の演奏に聞き耳を立てている。老人から小さい子供まで。全員が聞き惚れている。


 楽章は移り、最後の第3楽章に突入した。第1楽章と第2楽章とは打って変わり、速さと迫力のある和音が激しく叩き出される。まるで、移り行く人の感情をそのままピアノで表現したみたい。


 美しい満月の下、激しい恋心を抱えて。しかし叶わぬ恋に、葛藤して悩み苦しむベートーヴェンの姿が私には見えていた。


「綺麗だ……」


 誰かがそう呟いた。私も心の中で深く同意する。


 とても。とっても綺麗な音色だ。心が徐々に浄化されていく。嫌なものが洗い流されていく。


 病に悩み、そして苦しむ彼らにとって、心太さんが弾くピアノから流れ出す音色は、神様のみが口にするのを許された聖なる水のような役割を果たしているのだろうか。


 音色は激しく打ち出されながらも、心太さん自身は全く動じない。ただ静かに、淡々と鍵盤を叩いている。その姿が神秘的で、どこか神々しい。


 ああ、なんて幸せなんだ。


 こんなにも素晴らしい人が運命の人だなんて。これまで誰にも取られてないのが不思議なぐらいの素晴らしい人と出会えたなんて。


 ありがとうと神様に感謝する。


「ふい……」


 最後の音を叩き、音色が消えてから息を吐いた心太さん。まるで、ずっと呼吸をしてないのでは? と思うぐらいに深呼吸をしている。


 室内はシンと静まり返っている。面白いぐらいに。


 心太さんが立ち上がり、礼をした。ペコリと、軽くお辞儀。


 私がまず拍手をする。素晴らしかった。もっと聞きたい。そんな意を込めて。


 私を中心として、次々と拍手が周囲から巻き起こった。


 口々に皆が心太さんの演奏を褒めたたえている。彼の演奏を批判する人間など、存在しなかった。


 ランばあちゃんや院長先生なんかは泣いていた。きっと、目に映る光景は私とは違うのだろう。


 お辞儀をしている心太さんの隣に、ペコリと礼をする響くんが一緒にいるに違いない。


「ありがとうございました」


 心太さんの言葉が発されると、拍手の音量が一気に増した。


 天まで。月まで。霊界にまで届けと言わんばかりの拍手だ。こんな拍手、私は初めて聞いた。心地よい喧しさを感じる。


『すごいでしょ?』


 脳内に声が響く。


『うん、すごい。心太さんと響くんの連弾』


 今の演奏は、きっと彼1人で行ったものではない。心太さんと響くんの連弾だ。


 そう信じて心で言うと、満足げに笑っている気がする琴葉ちゃんが見えた。気がした。


『ねえねえ。私たちも何かやろうよ』


 琴葉ちゃんが無邪気にそんなことを言った。


 良いだろう。その案、乗った。


 肩掛けカバンに入っているのは絵描きに必要な道具一式。いつでもどこでも絵を作れる準備はしてある。


 静かにスケッチブックを開くと、私は鉛筆を握って絵を描き始めた。


 不意に絵を描き始めたので、注目度は一気に高まる。だが、そんなこと気にしない。


 心太さんは何かを察したのだろうか。誰もがノリに乗って集中できるような曲を選んで弾き始めた。


 曲は「パリの散歩道」だ。とある有名なフィギアスケーターがこの曲に乗せて踊ったことで知れ渡っている。


 本来ならギターで弾くところを、彼はピアノ1つで完璧に表現していた。


 音楽に乗せ、私は絵を凄まじい速度で仕上げていく。顔が、手が、足が、目が、鼻が。一瞬のうちに形となる。


 鉛筆がガリガリと音を立てるぐらいに動かし、1本潰しながらも私は絵を描き上げた。所要時間、およそ5分。ピアノバージョンのパリの散歩道が終わるのと同じぐらいの時間だ。


「完成かな」


 タイトルは……そうだな。安着に「月光」とでもしておこうか?


 何故なら、この絵はついさっきまで月光を弾いていた心太さんの姿を描き出したものだから。


「す、すごっ……」

「え、なにこれ。リアルすぎない? これ、ホントに絵なの?」


 反応は上々。絵の出来上がりも満足だ。ピアノを弾く心太さんを上手く表現していると思う。


 私の描いた絵に驚く人々を尻目に、私は心太さんに視線を送った。


 彼も視線を返す。その意図は、口にせずとも理解できる。


「僕はピアノを」

「私は絵を」

「「作り上げよう」」

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