月まで届け

「あ、ああ……まさか、響ちゃんと琴葉ちゃんなのかい!?」


 違うよ。心太さんと心愛さんですよ。人違いだよ。


……なんて、そんな無粋なことは言えない。彼女もきっと同じこと考えてる。


「はい。姿形は変わっちゃったけど、約束通り帰ってきました」

「2人一緒に、ね」


 繋いだ手は離さず、僕はそう言い切った。心愛さんもナイス追撃である。


 ランばあちゃんは、涙を隠そうともせず受付カウンターから出て僕たちに抱き着いた。そして人目もはばからず泣き出す。


 突然の行動に思わず思考が停止するが、心臓に宿る魂が代わりに僕の身体を動かしてランばあちゃんを抱きしめ返した。


 脳内には記憶の断片が映像として流れる。


 ランばあちゃんは、響くんの世話を任されていた看護師だったらしい。映る記憶には、生活をサポートするランばあちゃんでいっぱいだ。


 また、最初に響くんのピアノ演奏を聴いたのは他でもないランばあちゃんだそうだ。初めての演奏に涙を流すランばあちゃんの記憶が流れてくる。


 響くんの演奏に感動したランばあちゃんは、他の看護師や先生に相談して演奏会の開催を決定。その際に、響くんと琴葉ちゃんは出会った。


 つまり、彼女は遠い過去に響くんと琴葉ちゃんの縁を繋いだキーマン的な存在ということになるな。


「ホントに、ホントに帰ってきたんだ! 待っててね、院長さん呼んでくるから!」


 風のように消えたランばあちゃん。記憶の彼方にある通り、ちょっとせかせかしている元気な人だ。


 心愛さんはどんな記憶を見たのだろうか。響くんの初演奏会の映像かな? それとも、もっと別の何か?


「どっちもです。他にも色々と」

「ふーん……」


 君は僕の心が読めるのかい? だとしたら凄いねぇ……。


 もう多少ぶっ飛んだ程度の行動では驚かない。特に反応もしない。人間に備わっている順応性ってのは恐ろしい物だ。ほんの少しの時間で「ある程度の慣れ」を感覚的に与えてしまうのだから。


「連れてきたよ2人とも!」

「お、おお! 響くんに琴葉ちゃんお帰り! 本当に帰ってきたのか!」


 どうやらランばあちゃんが院長先生を連れてきたようだ。振り返ると、初老の眼鏡をかけたおじいさんが、ランばあちゃんと同じく涙目でこちらを見ている。


 それにしても、彼らにはしっかりと響くんたちの姿が見えているのだろうか。何の疑いも持たず。そして否定もせずに、僕らを見た瞬間に「響くんと琴葉ちゃんだ!」と言ってのけたのだから、何かしらありそうだが。


「私たちの隣に見えてるのでは? 病院勤務の方は霊感が強い人が多いですし」


 ああ、なるほど。それなら納得。


 ふと周りの看護師を確認すれば、ひそひそと「4人? いや2人か?」なんて会話をしている。心愛さんの見解はきっと大当たりだ。


「そうだ響ちゃん! あの日と同じように演奏会を開かない?」

「え、演奏会ですか?」

「レクリエーションルームには変わらずピアノ置いてるから、先に行ってて! 私と先生は患者さん集めてくるから!」


 あれよあれよという間に、僕のミニ演奏会の開催が決定してしまった。さっき見た記憶と重なる光景だ。


 あの時も、ランばあちゃんは困惑する響くんをほっぽり出して「演奏会を開くぞ!」と言い回っていた。


 思わず心愛さんの顔を見ると、彼女はクスリと笑みを浮かべている。


 何か新たな記憶を見たらしい。僕の方を見て、また素敵な微笑みを向けてくれた。心臓がドキリと跳ねる跳ねる。


「演奏会。やるんですか?」


 分かり切ってるくせに、彼女はそんなことを尋ねてきた。


 手持ちのカバンに入っているのは、数曲分の楽譜。最初っからピアノをどこかで弾けるよう準備をしていた。きっと、響くんがそう仕向けたのだろう。


 答えは口に出さない。必要ないから。


 彼女だって分かっている。僕がどうするかを。


 カバンから楽譜を取り出し、僕は響くんに導かれるようにしてレクリエーションルームへ向かう。


 レクリエーションルームには、立派なグランドピアノがポツンと置いてあった。


 ピアノに触れる。すると、記憶が次々と溢れ出る。


 まだ心愛さん以外には誰もいない。だが、もう弾き始めてしまおうか。


 チューニングを適当に済ませ、楽譜を広げ。鍵盤に指を置く。


 選んだ曲は、かの有名なベートーヴェンが描いたと言われる「ピアノソナタ月光」だ。


 月は……出ている。白い半月が。


 この音色、月まで届けて見せようではないか。

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