ピアノ弾きの高校生

「ふい……今日はこれで終わりか」


 軽く伸びて背中をバキボキ鳴らしながらノートとシャーペンを机に置き、今日の授業予定が記載されているプリントを眺める。


 朝から授業を6限まで受けて8時間ぐらいか。もう夕方も近い。普段の何の変わりもなく授業を受けてはシャーペンを手に取ってノートを書き、様々な知識を脳へと詰め込んだ。


 ああ、申し遅れた。僕の名は“心太”。今年で18になる。つい最近、高校3年生になった。趣味はピアノを弾く事。通っている学校は中堅レベルのごく普通の高校。部活には所属していない。


 それなりの数の友人に恵まれ、楽しい青春生活を送れていると思う。ちなみに学業の成績はそこそこだが、授業を真面目に受ける生徒として先生からはかなり信頼されている。唯一のお悩み事は、そうだな……。


「どうやったら彼女が出来るのやら……」


 そう、女関連である。生まれてこの方、1度も恋愛をした事がないのだ!


……大声で胸張って言える事じゃなかった。沈んだ気分になる。泣きたい。


 どういう訳か、僕は今日まで恋人が出来なかった。18にもなれば1人ぐらい居てもおかしくない筈なのだが、告白された事もした事もない。


 友人には皆恋人が居るのに何故だ……。


 僕だって可愛い女の子とイチャラブ甘い生活をしてみたいってのに!


「はあ……今悩んでも仕方ないか。早く行こ」


 教科書やノートを詰め込んだリュックを背負って学校を出ると、徒歩で数分圏内にある公民館へと足を運んだ。


「あら、心太さんいらっしゃい! 今日も弾くんですか?」

「ええ。またお願いします」


 受付のお姉さんに挨拶して中へ入る。この公民館は非常に珍しくグランドピアノを常に開放しているので、僕はしょっちゅう暇さえあればここでピアノを弾かせてもらっている。この公民館は、僕の数少ない趣味を楽しめる幸せな場所だ。


 理由はサッパリ分からないのだが、僕は昔からピアノを弾くのが好きだ。演奏をしていると、何故だか幸せな気分になれる。


 と言っても、プロやアマチュア演奏者みたいな技術は持ち合わせていない。本当に趣味の範疇でしかなく、コンクールなんかに出たらボロクソに評価されて終わるだけだろう。


 好き勝手に弾きたい曲をチョイスし、公民館が閉館するギリギリまで弾き続けるだけ。ただそれだけだが、これがどうも楽しいのだ。


 有名どころのモーツァルトやヴェートーベンの曲を弾けば自然と心が程良く引き締まるし、最近流行りのJ-POPを弾きながら歌詞を口ずさめばクレッシェンドのように気分が高揚する。何をやっても楽しいのだ。ピアノを弾くのは。


 徐々に日が落ちていき、緋色の陽光が部屋に入る。それに合わせて曲をしんみりとした物に変えてしんみりするのも、逆にアップテンポな曲を弾いて更に気分を上げるのも楽しい。


 ピアノを置いてある音楽室には時折小さな子供が入ってきてキャッキャ話したり、ピアノの音色に合わせて歌ってくれたり。そんな楽しく幸せな時間が過ぎるのはあっという間だ。


「あの、もうそろそろ……」

「あ、閉館時間ですか。ごめんなさい、気が付かなくって」


 ふと気が付けば、春の陽はもう沈みかけていた。それは、この幸せな時間の終わりを指し示している。


 わざわざ時間を知らせに来てくれた職員のお姉さんにお礼を言いながら荷物をまとめる。ほんのり気分は沈み気味だ。


 ずっとこの公民館には通っているが、何度やってもこの幸せな時間が終わる感覚には慣れない。


「ふふ。心太さん、相変わらず分かりやすいですね」

「そんな顔に出てます?」

「とっても」


 顔に分かりやすく出てしまうぐらい、この時間が永遠に続いてくれたらと毎日思っている。幸せな時間がずっと続いたら。ここで刻が止まったら良いのに。


……贅沢は言えないな。刻が流れるのを止めたいだなんて、人間の僕が考えちゃいけないんだ。


 何とも言えない喪失感を胸に、僕は職員のお姉さんに挨拶して公民館を出た。


 暗くなり始めた道路を1人歩く。空には1番星が浮かび始めており、三日月と共に並んで道を照らしていた。道の脇にある公園に植えられた桜と見事にマッチしていてとても綺麗である。


 あまりにも綺麗なので、僕は脇道に逸れて公園に足を踏み入れる事にした。


「うん、やっぱ綺麗だ」


 完全には快晴でないのと、空が暗くなり切ってないのが決め手だ。紺とやや緋色がかった夕空。浮かぶ雲、金星、三日月。舞い散る桜の花びら。


 とても絵になる光景だ。僕に絵心があったら、きっとノートとペンを取り出してすぐさまスケッチを開始していたに違いない。


「……うん?」


 そうやって上をずっと眺めていたので、僕は目下のベンチに誰かが座っているのに中々気が付かなかった。


 ベンチに座っていたのは女の子だった。ベレー帽を被り、手にはペンを持って凄い速度でスケッチブックに何かを描いている。


 チラリと見えたスケッチブックに描かれている絵の巧さにまずは驚いたが、すぐにそれを遥かに上回る衝撃が僕を襲った。


 女の子と目が合った瞬間、脳裏に映像が浮かぶ。


『ねえ。病気が良くなって大人になったら、結婚しようよ』

『良いよ! 私、君のお嫁さんになる!』


 病院のベッドに寝た男の子が、椅子に座って男の子を眺めている女の子に婚約をしている。


 年は僕より遥かに下だろう。だが、彼らから感じる愛情の深さは、僕の両親や友人と恋人の愛情よりもずっと深い気がする。


 僕は暫しの間、女の子の顔に目が釘付けになって動けなかった。

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