Anatoly

Caliber.6

「レイヴン・シンジケートへの検挙作戦を行う。そこでアナトリー、君には前線で指揮をとってほしい」

 デスクを挟んで座る上司が、にこやかな表情で俺を呼ぶ。俺はアナトリー・グマロヴィチ・オズノフ。ロシア内務省 組織犯罪・テロ対策部の刑事だ。

「...いつですか」

「一週間後、このサンクトペテルブルクで大規模な会合がある。そこを強襲してほしい」

「参加部隊は」

「OMONだ。全員にAKと実包を装備させる。大規模な制圧戦になるだろうが...やってくれるな」

「はい」

「よく言った。頼んだぞ」

 上司からの見送りを受け、とぼとぼと帰路に就く。ネクタイを緩めると、窮屈だった喉元に冷気が呼びこまれた。まるで、家に帰っても安息など得られないことを示唆しているかのように。


 青銅の騎士像を通り過ぎ、数日前に殺人のあったストアの建つ道を横切る。下手人の詳細は不明。被害者の詳細はレイヴン・シンジケートの構成員で、二人は射殺、一人は刺殺されていた。

 それから幾つかの角を曲がり、妻子の待つアパートへ入る。ドアの前に立ち、我慢しきれずにため息が漏れた。

 安物の鉄扉を開く。

「...」

 奥のリビングから嫁のエマが目配せしてきた。

「ただいま」

「...静かに開けて、レイラが起きるわ」

「すまない」

 子供部屋に向かい、中央の置かれたベビーベッドを除く。娘のレイラが、幸せそうに寝息を立てていた。

「話があるんだ」

 リビングに戻り、テーブルを挟んで向かい合う。

「...なに?」

「一週間後、サンクトペテルブルクで大規模な検挙作戦がある」

「...」

「その前線指揮官になった」

「すごいわね」

「それで、その日まで帰りが遅くなる」

「そう」

 そして、エマはため息をついた。

「いつも遅いじゃない」

「それは...」

「覚えてる?レイラが生まれる前のこと」

「...」

「もっと早かったわ。事件があっても、その都度ちゃんと会いに帰ってきてくれた」

「そうか、いや...すまない」

「別に謝らなくても。怒ってないわ」

「それは分かってるが...」

「頑張ってね、お仕事」

 しばらくの沈黙。互いに言うことはなくなった。それぞれの蒼い目を見つめ合い、家の中に生まれた気まずい空気を感じ取る。そして、自然に息を押し殺した。表でカラスが羽ばたく音でさえ、今はやかましく感じられる。

 先に動いたのはエマの方だった。何も言わずに席を立ち、静かな足取りで風呂場へ向かう。やがて、水の音が聞こえてきた。

「まだ八時じゃないか」

 俺は背もたれに体重を預け、エマに言えなかった感情を呟く。まだ八時。彼女から見れば、‘‘もう八時’’。互いの意識の乖離を噛み締め、エマが風呂から上がったら何を話そうか考える。

 この生活が、いつかレイラに悪影響を与えるのではないか。そんな懸念が芽生え、数秒とせずに恐怖に変わる。胸に無慈悲な痛み。まるで、心を薔薇で縛られたようだ。

 眠った愛娘のそばに立つ。小さな頬に触れようと手を伸ばす。が、それは途中で動かなくなる。俺は、なにか禁忌を犯そうとしているのではないか。そんな意識が体中に絡みつく。俺は触れてはならない。俺にそんな資格はない...

 ポケットに入れたスマートフォンが震える。メールの受信だ。席に戻って文面を開くと、それは上司からのものだと分かった。

 添付されたファイルを開く。PDFにまとめられていたのは、かつて栄華を誇ったマフィア、ジノーヴィ・ファミリーの構成員の情報だった。

 30代半ばに見える男。名前はボリス・タルコフスキー。その双眸には、静かな殺意が眠っていた。どうやら彼こそが、ストアでの銃撃事件の犯人と見られているらしい。

「何者だ、お前は...」

 一人佇むリビングに、浮かんだ疑問が溶けてゆく。

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