Caliber.5

 ケロシンの匂いが漂う。目の前で、何冊かの本が焼かれている。レイ・ブラッドベリの世界をそのまま持ってきたかのように、不定形な火竜が本を包む。

 これは私の夢だ。子供の頃のトラウマだ。意識の中に寄生する、忌まわしい記憶が見せる幻だ。今年で三十代の半ばとなるが、あの日の記憶を忘れないでいる。大好きだった本を焼かれた、あの寒い日を...

 目頭に涙が浮かぶ。隣でケロシンをかける人物の足は、父親だろうか、それとも母親だろうか。いつの間にか眼球を覆っていた液体を振りほどき、私は隣の足に、持っていた木の棒を突き刺す。すかさずバランスを崩した人間の後ろに回り、子供ながら精一杯の力で押す。

 紙の燃える匂いに、ヒトの服が、肉が燃える匂いが加わった。毒々しい。今にも吐きそうだ。よく覚えている。

 私が初めて人を殺した日だ。よく覚えている。

「大丈夫?」

 ソフィアの声がした。燃える人や本が暗闇に溶け、混ざり合い、そして消える。代わりに開いた視界に戻ってきたのは、窓から差し込む朝焼けの光だった。

「泣いてたわ」

「ソフィア、起きてたのか」

「あんまり眠れなかった」

 彼女は背を向け、キッチンに入って湯を沸かし始める。

「あ、でもベッドが悪かったわけじゃないわ」

 思い出したように言う姿に、私は思わず吹き出してしまった。昨夜のストアでの一件後、私たちが帰宅した時には午前零時を過ぎていた。もはや食事をとる気にもなれず、彼女はベッドで、私はリビングのソファで眠った。

「ならよかった」

「ねぇ」

 彼女は心配そうに私を見る。

「どうして泣いていたの」

「...」

「ごめんなさい。言いたくないなら」

「いや、いいよ。言うよ」

 食い気味に言葉を返し、私は夢の内容を教える。

「子供の頃、初めて人を殺した日の夢だ。親に本を焼かれてね。理由は覚えていないけれど...でも「非道徳的だから」とか、そんなものだった気がする。私は親の足を棒で刺して、火の中に押し込んだんだ。ケロシンの燃える火の中に...」

 一息ついて彼女を見やると、落ち着いた目をしていた。何の動揺もなく、私の話を聞いてくれている。

 優しい女だ。心の底からそう思った。二十余年の間、一度も他人と共有しなかった記憶を語っても、嫌な顔ひとつせずに話を飲み下してくれる。私は彼女の前で、初めてあの記憶の荷解きができた。

「後悔してる?」

「...分からない。あの日の答えは出せない」

「そうよね...でも」

 ソフィアがコンロの火を止め、私の目の前の椅子に座る。

「それでいいと思う」

「そうかな。そうかもな」

「...おはよう、ボリス」

 彼女は澄んだ声で告げ、細い腕で私の肩を抱いた。白い頬が眼前に迫る。突然のことだったが、なぜか驚きはしなかった。

「あぁ。おはよう、ソフィア」

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