第18話
期末が終わって、気分が浮足立っているあいだに、カブトムシの幼虫あらためカブトムシの蛹は、羽化の準備が最終段階にはいっていた。蛹は、全身の色が濃くなって、黒に近い。
とうとうその日がやってきた。羽化がはじまったのだ。蛹を覆っていた皮がはがれはじめている。それまで動かずじっとしていた蛹が、足をジタバタしている。
男子が蛹のはいった容器を取り囲む。わたしは遠くから見る。授業が始まるといってみんなが席にもどるスキをついて、わたしはカブトムシに注目した。
一番うしろの足と腹のあたりを残して皮がむけていた。面白いことに、頭と胸は黒いのに、腹は白い。まだいくらか皮がのこっているけど、腹の白さがよくわかる。鞘羽が小さい。これから伸びて腹を覆うようになるのだろう。そのための柔軟さがこの白さなのだ。
授業を受けているうちに、カブトムシは皮を全部脱ぎ捨てていた。わりとアッサリ皮を脱いでしまうものだ。まだ腹も鞘羽も白い。内羽は伸びきって鞘羽には収まっていない。
昼休みになった。カブトムシカブトムシ。内羽は折りたたまれている。鞘羽は伸びきって、色は赤っぽい。あとは、時間がたてば黒くなる。そのはずなのだけれど、右側の鞘羽がいびつで、腹を覆いきれていない。なにがあったのだろう。まだこれから鞘羽が伸びるのだろうか。
「美結ちゃん、この子背中ヘンだね」
愛音ちゃんがいつの間にか隣にきていた。男子はもう興味を失ったのか、やってこなかった。わたしが占領しているから?給食に興味が集中しているからかな。
「うん、そうなの。これからまだ鞘羽が伸びるのかなー」
「奇形なんじゃない?」
「うーん、そういうこともあるみたいだけど。まだわからない」
わたしは、このカブトムシをいとおしく感じた。給食の準備で愛音ちゃんは去って行った。
放課後、やっぱりカブトムシの鞘羽は変形したまま黒くなっていた。痩せガエルを応援した小林一茶の気分はこんな感じだったのだろうか。わたしは羽化不全のカブトムシを無性に応援したい気分になっている。
でも、鞘羽が変形していることについて、ダサいという男子の声が聞こえてきたりした。なんて心ないことをいうんだと憤りを感じる。
カブトムシにとって、腹は組織がやわらかく弱点だ。鞘羽で覆えないということは、外敵から身を守るのにも、カブトムシどうしで戦うときにも不利になる。
わたしは人が少なくなった放課後の教室で、なおもカブトムシを眺める。
「そろそろ、いいかな」
カブトムシと二人きりの世界から引き戻された。声をかけてきたのは、男子だ。
「ごめんなさい。なんだか気になって」
「ううん。いいんだけど。やっと羽化したことだし、今日家にもって帰ろうと思って。終業式までに荷物を減らしておかないと、大変なことになるから」
カブトムシの所有者の男子だ。
「やっとってことは、羽化が遅かったの?」
「うん。たぶん温度のせい。学校はコンクリートづくりだから温度が低いんじゃないかな。温度が低いと羽化が遅れるんだ」
「ふーん」
「本当はカブトムシがこの穴から出てくるまでそっとしておいたほうがいいんだけどね。できるだけ揺らさないように持ってかえるよ」
そういえば、この男子は、期末の理科でわたしと同点で一位だったんだ。
「理科得意なんだよね。理科好きなの?」
「ああ、期末?同じ点だったんだよね。あんなのまぐれだよ。理科というか、生物は好きだけど」
わたしと同じだ。
「この鞘羽。ちゃんと伸びなかったね」
「羽化不全だね。けっこうなるんだ」
「そうなの?」
「うん。理由はよくわからないけど」
「羽化が遅かったからじゃないの?」
「関係ないみたいだね、家のカブトムシはもうみんな羽化してるけど、やっぱり羽化不全のがいるよ。いままでの経験では、早く羽化したかとか関係ないみたい」
「早く死んじゃう?」
「そんなことないよ。外敵に襲われることないから、普通だよ」
「ほかのカブトムシにイジメられたりしない?」
「角があるからね。鞘羽は関係ない。飛ぶのも問題ないし」
「ちょっとさ、かわいそうっていうんじゃないけど、応援したい気持ちになってた」
「うん、わかるよ。でも、本人は余計なお世話だって思うかもね。野生じゃないから、こんなのただの個性だよ」
「個性か」
「そう、ちょっとくせっ毛って感じ?他人がブラシとドライヤーもってきて、まっすぐにしてあげるよっていっても、やめてくれっていうみたいな」
わたしは、つい頭に手をやって髪をなでた。
「ふーん、そんなものか」
「そんなものだよ。うちにカブトムシがウジャウジャいるけど、そのうちのいくつかは羽化不全だし、羽化しないで死んじゃうのもいるし。いちいち気にならなくなるよ」
「そっかー、この子しか知らないから、お節介オバちゃんになっちゃったのかな」
「たぶんね。昆虫はいっぱい卵産むんだ。いっぱい死ぬ。食べられたりもする。でも、いっぱいの親がいっぱいの卵を産むから、いっぱい死んだっていいんだ。もともと寿命が短いし。人間にこんな風につかまったって、大したことない。人間とは全然ちがうよ」
「わたし、人間と同じに考えてたから応援したくなっちゃってたのかな」
「そうかもしれないね。一匹のカブトムシの羽化不全なんて気にする必要ないと思うよ」
「そっかー。じゃあさ、カブトムシがいっぱい増えたらどうなるの?」
「鳥やなんかがエサにできる量が増えて、鳥やなんかの数が増えるんじゃないかな。そしたらカブトムシの食べられる量が増えて生き残るのが減るから、また元に戻る。カブトムシが減ったとしても、同じようにしてまた元に戻るよ」
「なるほど。すごいね、わたしよりいろいろ知ってる」
「すごくないよ、好きでずっとこんなことやってるからってだけだよ」
「ほかには?なにか育ててるの?」
「いまはカブトムシばっかりかな。まえは、オタマジャクシをカエルにしたり、ヤゴをトンボにしたりはやったことある。スズメのヒナを死んだスズメのヒナにしたり、カメを死んだカメにしたりもしたよ?」
「ヒドイ」
「ヒドイね。でも、生き物が好きなやつって、みんなそんな風に生かしたり殺したりして大きくなるんものじゃないかな」
「そうなの?」
「そうだよ。死んだ金魚の生臭さを知らずに育ったやつなんて、生き物好きとはいえないね」
「わたし知らない」
「金魚飼ったことないの?」
「うん」
「祭で金魚すくいは?」
「ない」
「へー、かわってる」
「わたしのほうがかわってるの?」
「おれか。なにか飼ったことないの?」
「ジャンガリアンハムスター飼ってるよ」
「おー、かわいいやつだ。まだ死んだことない?」
「うん」
「そっか。いっぱい飼って、いっぱい死ぬのを経験した方がいいよ。一度飼って、死んで終わりというのは、一番キツイんじゃないかな」
「考えたことなかった、アルナが死んじゃうなんて」
人の死については、このあいだ考えたばかりだ。
「ハムスターの寿命なんて、何年でもないでしょ。死んじゃったら、すぐ次のを飼いなよ。いまからこんなこというのはなんだけど」
「うん、覚えておく」
羽化したカブトムシが側面を爪でひっかいている容器を、席にまとめてあった荷物と一緒にもって、男子は教室を出て行った。出ていくときに、さよならと言った。わたしも、さよならと返した。
人間も同じなのかな。いろんな人の死を経験すると、死のショックが小さくなるのかな。わたしには、わからない。
愛音ちゃんがどこからかやってきて、部活行こうと言った。
終業式があって、学校は夏休みにはいった。
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