第35話 存在していたい?

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 どこまでも白い雪の園で、ずっとソフィアが話をしていたのは、篝ではなかった。


「そうね、あなたはネヴェル……とでもしましょう」


 全ての存在には根源があり、存在は確認されることによって世界に残る。ならば誰も観測しない地には、有と無のうねりの中で偶発的に、それが生まれてもおかしくはない。そしてそれがいつの間にか消失していても、おかしくなどない。

 それが生きて続くことだって、同じく。


「ネヴェル。あなたは存在していたい?それとも、揺蕩う水の流れのように、ただの一度の流れとして消えてしまいたい?」


 そういうとソフィアは、どうにか形を保つ人型を、無理やりまともな形に整えた。なんとか見られる彫刻、なんとか髪に見える雪。それらは再定義によるもので、彼女の中から飛んでいきそうな赤い半透明が見え始めるたび、ソフィアは形を確定させる。


「あなたも私の一部分。眠るたびの夢のような、忘れられるかもしれないひとかけら。けれどそれでも、あなたはあろうと望む?この世界が生きることに足りると、本気で願う?」


 その中で肉体を風花に変えて、ネヴェルは叫ぶ。


「どうであれ、私は生きるの!生きて、それからゆっくりと死ぬのよ!いつか訪れる平穏は、自分が手にするのではなくて最後に手に入れるもの。だからやれるだけ私は生きるのよ!」


 篝には輝きすぎて苦しいように。

 自分の感じていたことの重みも知らないで、という風に言ってみたくなる。それをきれいごとだとしか思えなくなるまでに、続けた自己批判を同じように与えたくなる。けれどそれは、辛いことだ。


「……アーティア、こうして生まれたのかな……」


 だから耐えきれなくて、小さなつぶやきは、静寂の中に、聞こえることなく消えた。


「それでこそ!」


 まだいくらか震えているが、なんとか確定したようで、ソフィアは名付けた手を取って、胸の奥を開いた。


「だから力を借りるわネヴェル。あなたが生きていることの意味を、その生涯で証明して見せなさい!」


 そしてアーティアを背負って篝を引いて、その虚空へと飛び込んだ。行く先は絶対に暗い光。だけれど、生まれたばかりの彼女そのものなのだろう。時折小さな雹が降り注ぐ以外に何も起きず、生まれた場所を小さく埋め込んだように思えた。

 不思議に心は、熱っぽい。


「誰だって、生まれた場所に小さく結びつく。雪国の少年が、滑らない走り方を身につけるように、砂漠の少女が熱を知らないように。篝。あなたが、ありようを決める力を持つように」


 彼女は作った世界を泳ぐ。何もない分、どこに進むべき道があるのかがひどくわかりやすく、ぽっかり空いた穴がそれだと見て取れた。吹きすさぶ吹雪が、塊のように飛んでいた。


「きっと彼女はもう、生きることそのものが生きる理由となったでしょう。熱は彼女の周りに無数に存在する。死ぬこともきっと、思い至らない。いつまでも彼女は続くでしょうね」


 存在の中には、必ず根源があるという。人の中に心があるように、雲の中心には氷が存在しているように、これが無ければ構成されることすらない物体。それが根源であると、ソフィアは続けた。


 この世界の根源はソフィアではあるが、同時に彼女の根源は血族でもあった。遺伝子というものが始まりであり、思い出や情景というものがそれを固定する情報で、人と人との結びつきがそれを結束する。そして最後に動かすのは感情で、願い。

 そうだというなら、私というものは。


「でもそれだって、どこまで行っても結局は意欲。今までに感じた偏見を集めたものばかり。自分なんてどこにもないのかもしれない。でも、人なんてそれでいい」


 どこか慰めるように、ソフィアの言葉は響いた。


「何が見える?篝」


「何も見えない。見えないことのモヤしかわからない」


 少女らは暗黒の中に、ふわりと浮いていた。


「見えないのに、どうやって見るのさ。私たちは光がいる生き物。感知できるものしかわからない生き物。見えるのは見えるとわかるときだけでしょう?」


 篝は実在しないのだと、その影に手を伸ばした。手が伸びていることも分からなくて、そこにあることが体の情報でしかわからない。ライトがあればなと、置いてきた荷物を思う。


「見ようとしないから見えないのよ。空気だって水の中なら見えるわ。暗黒だって、見えないことが見える。見方が多すぎるから、気づかないだけよ」


「…………あなたには、何が見えるの?」


「見えないわ。感じているだけ」


「何を?」


「ずっと近くにいて、遠い世界の目たちを」


 ふわりとした会話だ。篝は何がなんだかわからないことだけ理解して、ソフィアが泳ぐ方向を見た。ぼんやりと氷たちが吸い込まれていて、ブラックホールがあるように思えた。


 触れたとたんに何もかもが分解されて、粉みじんに互いをこすり合わせながら、恐るべき光を発して消滅していく、どこかへの穴。

 大きさこそソフィアの手のひらで包み込めるくらいだが、実際にそうしたら、彼女ですら無事では済まないだろう。


 ソフィアはある程度のところで動きを止め、限界かと呟いた。篝が隣に行くと、確かに引きずり込まれる。一歩進んだなら、無の中へ叩きこまれると確信できた。


「見えたかしら。これが根源————正確に言えば、それへつながる無の補充穴。生きている限り実在を吸い取っていって、世界を閉じてゆくだけの穴。寿命を産むもの、とでも言えるかしら」


 彼女はは篝の腕輪を握り、わずかに光を込めた。複雑な分割線が展開して開いていくそれは、明らかに元の体積を超え始めている。


「さて、幹へ向かうけれど、何か聞きたいことはある?」


 バキン、ボキン、バリバリ。壊れるような音がするのは、一度きりの変形だったからだろうか。それとも彼女が生きているからなのだろうか。見えなくなっていく外の世界を目にしながら、開いていく球の壁を見ながら、篝は一つ声にした。


「この世界は、どこかが断たれている。そうなのよね?」


「そう。どこが断たれているかはわからない。葉と根の間で、どこかは分かたれたわ。でもそれが、一回だけかも知らない。百万の断片にされているかもわからないわ」


 あえて途中で切ったが、それをソフィアも分かっているようで、これ以上あるのでしょう?という様子だった。もちろんその気だと、彼女は疑問で答える。


「でも、ここみたいに根源、というものはある。ならば私やさっきの子のように、一応は生きているはずになる。でも、根の国?は人が入るような場所じゃない。あくまでその上に命を乗せる場所。なかに住まわせる場所じゃなかった————あのエレベータがそうだったのかもしれないけれど、そうならこの外から直通の道があるわけじゃない。ならどうやって私たちはそこに行くの?」


 現実性の壁が少しずつ狭まっているのが見える。明らかにここは人がいていい場所ではないのだとわかる。サブ世界だのアンダーワールドだの言いようはあるのかもしれないが、そもそも根源というものは触れていいものではないのかもしれない。


「実在は幹へ吸い取られている。あなたはさっきそう言った。でも今のあなたには、行くべき場所がない。それはどこに吐き出されているの?それはどこに使われるの?」


 遠くの方の、絶対的に内外を分けているはずのその壁が、薄くなって透けていく。取り残された氷の結晶が、境界線に触れて塵になる。存在そのものがなくなる、といった様子だ。


「……私たちは、そこで形を留めていられるの?」


 粉々になって、擦りあって消滅するのは、存在するからこその消滅であるのだろう。この氷塊が彼女の一部であるのならば、そこに間借りしている私たちももちろん。


「いられると思う?」


 ソフィアは冷徹にいる。見たままを考えれば、そんなわけがないだろう。恐ろしく篝は答える。


「思えない。散り散りになってバラバラになって消えてしまって、その先に何が待っているのか————意思が残るのか、そこに合った情報だけが残るのか。でもきっと、そこは今よりも苦しい世界があるんだって、勝手に思う」


 この世が苦しくて自殺を選んだなら、地獄があったような感覚だろう。何を感じることも薄れて、世界から消えるまで苦しむのかもしれない。死の瞬間が続くのかもしれない。そんな今よりも悪くなる可能性を、ソフィアは肯定する。


「そうね。普通なら、そうなるわ」


 けれどそのアクセントは『普通』の部分にあった。

 それは今、ここは普通でないことを、示しているのでもあって。



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