第34話 偶然と運

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 世界が平面であるのならば、その果てには必ず埋めるものがあるはずである。地球であれば氷が、宇宙であれば虚無が用意されている。では人の中の世界では、何をもって閉じられるのだろうか?


 少女は小さく呟く。そんなもの、答えがそこにあるじゃない、と。


 ここにあるのは白の色だけをあつめた棚氷。

 もちろんのことだが、これは事実でありながら現実でない、表面的には冷たいだけで、中身はマグマに匹敵するだろうほどに熱をため込む、見た目の上では世界を逼塞させる寒さであるが、同時に誰もかもを暖める棚氷だった。


 ひとまずそれを掘り、ソフィアたちは身を寄せ合って落ち着くことにしていた。服装はソフィアが何とかしてくれたから問題はなかった。しかし機械のアーティアだけは、機械としては不思議なことに眠っていた。

 エネルギーを使い果たしでも、したのだろうか。


「幹まで、一気に離れちゃった……」


 氷の川の脇で、ソフィアはつぶやく。


「行ける……かな。あの子たちも、多分変わってしまうだろうし…………それに、一人引きずっていくのは、私でも」


 することが無くて座っている篝は、膝に顔を押し付ける。

 次の追っ手を出してきたのだ、その次が来るのは時間の問題。急いで幹の世界に行かねばならないが、しかしそれにはアーティアの力が必要だ。

 しかし今の彼は。


「急がなきゃいけないのに、急いだら余計に遠ざかりそうだなんて、奇妙なものね。残ってる道は一つしかないのに、それをするには偶然と運が必要だなんて」


 ソフィアは考える。

 この世界の住人の中にもある、心理の奥の空間のことを。


 彼らも私の一部なのだから、必ず根の世界、幹の世界、そして枝の世界にまでつながっている。この世界に遍く広がっていた私を、ウィズを通して集めたように、その世界を使うことで転移をすることもできる。

 アーティアを経由して機械の街には戻ることは出来る。戻ることは、できる。それでどうしろというのだ。


「嫌だなぁ、また誰かがいなくなるのは」


 彼女は氷を軽く放り投げた。物語としての蓋然性が必要なのだ、そうするためには。

 あの時はウィズの行動そのものを私に重ねることで、類似性からそれを生み出した。篝が自分のことに気づくということで、偶然の中からつかみ取ったのだとして蓋然性をひねりだした。

 でもここには、可能性どころか何もない。


 完全な平面に近い、氷の山だ。フラットアースだと誰もが信じるような、完璧な氷の地獄。生きていることそのものを終わらせられるように、それらはどこまでも虚無で冷たい。

 色さえも描写さえも削り取られてしまいそうな世界だ————その中で、少女はわずかに手を振った。かかっていた髪が風になびき、耳たぶをくすぐって目を隠す。


「でも、そうするしかないのよね。滅ぶためには」


 彼女はそこで雪女めいて、小さく小さく呟くのだった。


「氷の海に潜るの?粉々になって根に入る?それとも、いっそ根を幹にしてしまうとか?」


「それも悪くはないわね。けれど誰も耐えられないでしょう。私たちはともかく、篝は人間なのだから」


「だよね。なら、どうしようもないか」


 自分で自分を決めることはできるが、それが人間であることを変えられるというわけではない。大本が確立しているからこそ、同一性が生まれて形になる。それを変えるのは、あくまで元から違う物体を組み合わせることのみなのである。

 だから仲間というものがいる。だから友というものがいる。だから私の中なのに、私でない誰かがいる。


 普通の人間が巨大なロボットに乗り込んで、兵士以上の力を手に入れる様なもの。

 何か別のものに変わるためには、何か別のものを取り入れなくてはならない。当たり前のこと。


「……でもおとぎ話なら、そうするのもいいかもね」


 だからこそ、そうなればいいなぁと声が伸びるのだった。

 愛と勇気でどうにかなる、誰かが救われるだけの物語。それにソフィアは、意外とまじめな顔をする。


「面白いかじゃなくて、どうするかを考えなさいよ」


「冗談よ。また幹まで向かうだけ」


 それからアーティアの元に歩き、魔法をあてがって力を与えるのだ。


「ただ一歩一歩、その場その場でできることをしていくだけ。それだけしか、私たちにはない。でも、できるとするなら————」


 作動液の抜けた彼は、目を光らせるだけしかできない。


「開くのよ。無理をして」


 冷たい声は、刺し貫くように問う。


「何を?ドア?それとも、ありうる可能性?」


「可能性……そうね。それも悪くはない。決まっていること、決まっていないこと。ただそれだけになるのでしょう」


「決める、決める…………再定義するの?」


「そうだけれど、ちょっと違うわ。無存在を存在すると、決めるのが近いかも。そしてそれは、きっとあなたがどうあるかにかかわる。もちろん、それは生きることでもあって、死ぬことでもある」


 ソフィアが言葉を一度切ると、なぜか口元で人差し指を立てる。どういうこと?今のは自分の……と思ったところで、決めるというのはそういうことなのかと、篝は理解をしたようだった。

 返答が一つ、烏有から響いた。


「でも、この場に決まってないことなんてないじゃない。あたりは氷の平面で、存在するのは篝、あなた、アーティアだけ。それ以上に何を決めるって言うの?それ以上を産むために、何を消費してどこにあることにするの?」


「ここに扉があることに決めるわ。幹の中へ入っていくことができる、不思議の扉。どこにでも繋がるけれど、つながらない。そしてそのためには————変えるのは、あなた」


 音を立てて、篝が立ちあがった。恐怖しているようだった。


「烏有に帰してもらうことになるでしょう。けれどそれは」


 ソフィアの声を遮って、返事があった。


「私……!私を……!殺すって言うの!私が邪魔になったから消すって!あなたが言っていることはそう言うことだって!」


 当たり前だ。生物の本能というのは遺伝子を続けるためにある。連続体としてあり続けることにある。そんなものが自ら死を望むことはあってはならないし、誰かに殺されようとすれば反抗しなければならない。そうできている。


「言ってないわよ。ただ犠牲にするだけ」


「同じよ!どっちにしろ私は死ぬじゃないの!」


 だから女は抗った。雪に溶け込む真っ白い少女を、自分をなかったことにするというその行動を、絶対に打倒せねばならぬ。

 ソフィアの首元に手が伸びた。しかし彼女はそれを気にも留めていない。その力強い指が、ごわごわの指が、最初からないかのよう。


「死ぬことがそんなに怖い?」


「もちろん怖いわよ!そんなこと当たり前じゃない!なんでそんなこと!気でも逸らそうって!」


 篝はずっと閉じていた口を開いて、ぼやけている像に触れる。これは手だろうか。ならこれが肩で、これが頬か。それは雪のよう。


「でも、生きていることが耐えられないくらいに重いことだってあるんだよ————私がそうだったように」


 氷の集合体のように、光の死んだ青のそれは、急激に形を見つける。どうにか人の形を留め、存在を肯定していくそれは、それそのものの自己決定によって、形を満たしていた。


 死にたくないだけ。篝の対偶。それが急速に、意思となって一つの形を持つのだった。



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