第20話 やっぱり、特に何もない
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篝が歩き出す。どこへ向かうのかは、彼女にもわからない。あえて最初から定義していないようで、彼女の目線になってすらも分からない。
ひとまず見えるあたりにあるものを調べてどういうことかを考えてから動くつもりらしく、まずは覗くあの屋根へと、彼女は道を下っている。
いくらかの虫、いくらかの草の味、いくらかの日差し、そしていくらかの言葉。
この世界は見た目だけは夏だが、同時に冬でもある。同じように、昼でもあって夜なのかもしれない。光があることも、同時にないことの表れなのかもしれない。
全部が全部嘘であるのかもしれないと考えると同時に、そう画一的に定義されていることこそも、おかしいかもしれない。
でも遠くに見えるあの屋根は、本当にそうあるのだろうか。あれくらいは近くにあると、歩かなくて済むんだろうけどなぁ。
彼女がそう最初に選んだそれは、センチ単位だった大きさだったのが、不思議なことにすぐに近づき始め、ガードレールと街灯を通り過ぎたころ、二人はそれにたどり着いた。一軒家でなら3、4軒ほどしかない距離なのに、こちらも不思議なものだ。
途中にあった二つの物は、振り返ると100メートルずつは離れているように見える。本当にそうだろうかと10メートル戻ってみたら、今度は正しい距離にある。本当にわけがわからないものだ。
篝は埋もれたはずのアスファルトがそこにないことを目にして、じゃあ今の足元も大丈夫なんだろうと思えば、高く飛び跳ねても問題ない。やはりそうだ、物語の書き換えなんだ。もう埋もれないと決めたんだ、じゃあその跡がないことは————そうか移動したことそのものを、無意識に書き換えたんだ。
だったらと意図的にそれを無視すると、数秒の内に彼女はそこへたどり着く。
遠くの果てに会った屋根の主は完全に崩れ落ちて、壁だけを残しているらしい。元はそれなりに大きかった屋敷があったようだが、何かで吹き飛んで土に埋もれただけしか残っていなかった。
まだ柱が残っているのは中央のものだけで、ロの字に取り囲むそれは遺骸としか言いようがなかった。窓ガラスは最初から存在せず、壁も砕け散って瓦礫である。かつて庭園だったのをにおわせる小さな道は、うっすらとしか見えなかった。
それらを超えて、篝は椅子が残っていたのを見つけた。座って見るとわずかに、なぜこんなことをしているのかと思考が浮かんだが、答えは目の前にあるはずなのにと脳が唸った。唸ったのだろうか?決めたのではないだろうか?
「……でもやっぱり、特に何もないか」
しかし何もないので、彼女はそうつぶやいた。周りで最も手近であった代わりに、最も崩壊が進んでいた見た目であったので、期待はなかった。
「あると思ったの?こんなにぼろぼろなのにさ」
自分の分のが無くて、ウィズは地面に腰かけている。
「君がまともなこと言うなんて、珍しいね」
彼が白い瓦礫をかき分けると、不思議に形を保ったポット。埋もれているのを見つけたのか、最初から知っていたのか。
「おっ、ちょうどいいじゃん……ねえ、篝」
きっと見覚えでもあるんだろう。
ウィズがそれをひっつかみ、ちょいちょいと蓋を弄ぶと、水がわき出して満タンになる。彼は手から炎を出して、中身を湯にすると、じゃあ茶葉があるんじゃないかと、ちょっと頼むよと篝に任せた。
いや、こんな熱いものをどう頼まれろと!
彼女はどうすべきかなと考えてから、ポンチョ、少し厚くなってくれればなと決めてみてから、断熱させて握ってみる。成功だ。全く熱くない。これならと落ち着いて保持していると、遠くから声が響く。
「多分……うん、多分そうだ!あったよ!茶葉とセット!」
走り出した彼は、最初からわかっていたかのように止まり、ここ以外にないと腕を突っ込む。そこから彼が土を付けずに持ち上げると、カップが二つ、ソーサーに乗って埋まっていたのだ。
ついでに机まで発掘されて、勢い余って篝のド真ん前へと飛んでくる。
「うん、ぴったりだ。カガリ!何か飲みたいものある?」
やりすぎだ馬鹿と聞こえないようにつぶやいてから、篝はテーブルの上をどうにかのけて、口ぶりを誰かにして答えた。
「……お湯とカップって、紅茶かコーヒーかしかないじゃないの」
ソフィアなら多分、もうちょっとスマートに答えただろうな。
「まあそうだけどさ、でもこういうのは聞いておくもんでしょ」
ウィズの返事に、そのように彼女は言ってみる。
「……なら高貴なのがいい。紅茶で」
「きみなら、そう言うと思ったよ」
肩をすくめて、少年が柑橘香る茶葉を袖から引き出す。ソフィアが入れてくれたときは、ダージリンだったっけ。
渋みがスモーキーにしみいる、温かさだった。
「僕はアールグレイ派でね、なんで香りづけしない紅茶なんぞ飲まにゃならないんだって思うんだよ————」
ウィズは本を持ち出し、ぱらり開いて机の残骸を見つけた。その周りには平板と紙の束。
ぐずぐずになっているようだったが、それがいま彼が持っているものを守っていたのだろうか。汚れが芯までは行かぬそれを彼は1枚読み進めてから、いい具合だとカップに注ぐ。
「でもソフィアは何もいらないんだよねぇ。不思議だねぇ。ここで何度か飲んだのが懐かしいんだけどねぇ…………うん。どうぞ」
篝は小さく礼を言ってカップを握る。
「少しはあったまらないと、やってけないもんね、仕方ないや」
それはついさっきまで埋もれていたとは思えないほど、新品そのものだった。
「はー…………」
冷たい世界を歩き続ければ、身体は完全に冷え切る。どう頑張っても末端は氷になるのだ、中央と頭を生かすために。だからこうして指の中に血が暴れるのが、心地よいように人類は設計されている。
暖かさの臨界を迎えて小さく振った。ああ、あたたかい。人類の文化。
外はやはり応えていたらしく、ウィズも同じことをしていた。
隙間風とドア、屋根のないことによる吹込みは強かったが、それでも外よりはマシだった。
四角く囲まれているだけ、本当にマシだった。
「ああ…………」
カタカタと満足気に、ウィズは手を震わせていた。彼はそこまでさむがっていたように見えなかったが、強がりだったのだろうか?
そうだったらしい。
「あっ」と彼がつぶやくと同時に全てが急にはじけて、篝は被らぬように身を退けた。
力でも入れすぎたのか、カップをひどくひっくり返したのだ。
ウィズは顔から紅茶をかぶっていた。あまりの寒さに空中に飛んだ瞬間に冷えはしたけれど、それでもまだ熱を持っていて、かつ気化熱ですぐにぷるり震えて、彼は天を仰ぐ。
「……大丈夫?」
ひとまず何かをと思ったが、タオルだのはソフィアの屋敷の部屋に置きっぱなし。与えられる服は、もちろんない。
「大丈夫…………」
いや、それの何が大丈夫なのだ。どこまでも落ち着き払った声とは対照的に、床にのたうち回って着信した電話めいて振動する彼を、篝がしかたなくポンチョに入れようとする。それでも彼は大丈夫だからと言って、本当だからと返事をする。
「ただちょっと着替えてくるから、待っていてほしい」
そしてないドアの枠を通って外に出た。
本当に大丈夫なのだろうか?
篝は心配するが、本当に心配しなければいけないことはそれではなかった。
それはすぐ、やってくるのだから。
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