第14話 ウィズ
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いやな予感がして、よくよく確認してみれば、足元の蒼は長いこと見慣れた色をしていて、時折白が覗く。その上ウィズがどこかからこちらに飛ばした葉は明らかに、その下から来たように思えた————だからその予感は、さらに大きくなった。
裏打ちのように土のように、光を吸い取っていたのは、枝に生えていた緑色で、あの強度は厚みによって成り立っていたのかと、彼女はぞっとする。じゃあまさか、この下は…………!
そんな感情知らないと、ウィズが手を伸ばす。
「大丈夫かいカガリ。そうか、まだこの足元には慣れて……」
「心配はありがたいんだけどね」
ぱらりと折れた破片がいなくなるのが目に入り、篝が冷や汗。
「ウィズ、もう一つ聞いていい?」
「そりゃあいいけど、面白いことなんて」
忘れてたなんて言ったのなら、きっと篝は殴りかかるだろう。
「この下にあるのって、私たちで言う空だよね?」
「何をいまさら。そうだけど何か?」
いや、普段なら殴っていただろう。間違いなく殴るべきだ。
そうしなければ今までは無意識に生死の境の上に立たされていたことに対して、ひとまず整理がつかない。
きっと落ちたなら、どこにも行けずに終わってしまうとわかり、そんなものの上を走らせていたのかと、寒気を感じる。
じゃあまさか。
彼女はまた、問いかける。
「落ちたら……どうなるの?」
「一つじゃないの?なら答えなきゃよかったなぁ」
遠回しに察してくれと、ウィズはまた、篝の手を引いて進ませて返事をしなかった。
「でも、聞いてくれただけいいよね。そうだね」
ああ、説明が後回しになるだけソフィアはマシだったのだなと、篝はため息を吐きながら彼に連れられて、穴の中へと恐る恐る、踏み抜かないようにと気を付けて進んだ。
入ってみると、意外に中は広かった。
なのにさっき見た無限はどこにもなくて、体育館ほどの有限があるばかり。構成物は木の根なので、柱に向けて高くなる波であり、おがくずで敷き詰められつつ固まる。MDF合材かと思えるくらいにはカッチリしていて、そのくせ隙間ばかりだ。
その中にいくらかの家のようなものがあり、篝はその一つへと案内された。
切り出した木材のテクスチャしているのに、コンとノックしてみれば石。ウィズが扉を叩いて押し開けた。
彼は少しの間ためらって、振り向いて篝に何かをつぶやいた。聞き取れずに聞き返したら、彼はそれを無視して入り、今度は語る。
「さて、何から説明しようか。あいつに頼まれるのもこれで二百三十二回目ってのは聞いてるかな?
彼は上下逆さの図書館に、くるりと側転して招待した。頭からの声と差し伸べられる手を取って、カガリはちょっとためらってジャンプ。失敗しそうになったけれど、引かれ何とか尻もちになった。
「てて……ほとんど聞いてないよ。なんせ昨日の今日だから」
「それなら、専門用語使いまくるのは駄目そうだ。じゃあ————うん、本当に根っこだけ。いいかい」
ウィズは本棚から適当に一冊引き抜いて渡す。
「慣れろとしか言えないんだけどさ、ここからはそういう不条理で出来てるんだ。そうなっていくんだ。今の君みたいに」
表紙をめくれば鏡なので、ウィズはカガリの顔をうつして見せた。
「ちょっと気を張ろうね」
ぴょこんと白く伸びた耳が、少女の頭で揺れていた。
「……これは?」
何をやらかしてくれたのだ。なんてことをやらかしてくれたのだ。
「見ての通り、耳さ。それ以外何があるって言うんだい」
篝はやはり殴るしかないなとこぶしを握り、「ありがとう、説明は無駄だって理解できたわ」とちょうどいい助走はどれくらいだったかと、彼に向かって息を吐く。
ガツンと二発。
「……次からは、こういうことしないようにしてよね?」
「へいへい、わかったよっと」
たんこぶをさするウィズを置いて、篝は本の鑑を左手に、さわさわと形を確かめた。
やはり確実に実物だった。
薄い表皮と毛に囲まれて、肉質の傘めいたひだがある。伸びきった先端を触れるのは、腕の長さの都合上、耳を倒さなければできないほど。彼女はそれが本物なのかと音を確かめようとすると、ガサリゴソリとくすぐったい。
そしてどこかでドサっと落ちる音がして、無意識にカガリは振り向いた。
「今の……あそこかな」
書架の並ぶ場所で落ちる物体といえば、柔らかに曲がるバサリが混ざるものといえば、一つしかあるまい。
「て、ちょっと!説明はまだあるんだからね!」
何かを言い始めたウィズを置いて、カガリは静かに歩き出した。
「だったら、なんでこうなったかの説明投げて走らせたのさ」
「だってさっきはそうなってなかったんだから……」
「さっきは?」
「そう、さっきは。今しがた君が再確認するまでは」
「再確認するまではって、私が見たときからそうで…………」
いつの間にかウィズはカガリの前を歩いており、導くようにしてたどり着き、一つ取って渡した。その元は床一面の豆本だった。
「本当にそうかい?世界の全ては、君が見ていない時は全部が化け物じゃないって、誰が証明できるんだい?」
瞬間、行動を巻き戻すように二人の身体が動き、本は何もなかったかのように書架へ収まっていく。カガリの手元のそれを除いて。
「床に七色を描いているそれらは、虹の谷なのかプリズムなのか」
彼は唐突につぶやくと、今度はパンと手を叩いた。
「例えば、どこまでが事実でどこまでが言葉か、君は考えてみたことがあるかい?」
カガリにはないだろう?
そんなことあるわけがない。だから、全てそのとおりだ。
突然、少女はこの世界全てが事実ではないような感覚にとらわれた。だいたいヴァンパイアなんて虚構の物体だ、人の頭から兎の耳が生えるわけがない。人の心臓を生身で触れて、生きているなんて漫画や小説じゃないんだからありえない。
「……そうだね」
考えれば当たり前のことだ。私は目の前にあったのだから事実と思っていて、でも見えるから事実じゃないなんてホログラムでも起きる。
事実をユニコーンで結ぶから陰謀があるのだ、事実を不可解で結び付けるから事実が捻じ曲がるのだ。実際にそうだと思えたとして、水槽の中にいない確証がどこにある?
「ならこれも……きっと」
そうして耳をつかんで引き抜くかと思ったところで、カガリは何かぬるりと入り込んだものがあることを感じた。物語の描いてある栞を差し込んだような感覚で、普通の世界にいきなり巨大ロボットがやってきて、全てを大砲で焼き尽くしてしまうかのようなものだ。
連続体ではあるのに、文体も描写も違う。
違う。私じゃない。これは私の物じゃない。そんな感情が与えられた気分だった。
「ウィズ!」
少女は振り返るけれど、そこには誰もいない。
「ウィズ!」
空っぽの書棚が並んでいるだけになっていて、パチパチとなにか熱の音もし出していた。
「ウィズ!」
まさかと思って手を開けば、豆本だけは残っていた。開いてみれば中身は絵本で、一ページ目には上下逆さの木が描かれている。
次をめくれば耳の生えた少女と雪崩れる本、それから探しに行く二人。そうだよ確かにいるんだ。ウィズはいるんだ。
いるわけがあるか。普通に考えてみろ。今のそれが、入り込んだ異物だ。誰なんだ、今吐き出した思考は。
当たり前のことだけど数百年を生きてきて、日に一度も当たらずにうまいことできるなんてバカがあるか。都合よくそこらのガキが異能の末端を持ち合わせるか。ベッドで目を覚ました方が早いだろう。そんなことがあるわけがない。
すると今度はどうしてか、少しずつ炎が舌を伸ばし始めるのだ。
真っ赤に燃える命の血潮は、かるく一つの棚を舐め切って、入り口をいつの間にか塞いでいた。間違いだよ、そんな風に伝えようとしている気分だった。
なぜなのだ。じゃあ、さっきのありえないというのもか。
いや違う、どれもだ。何もかもだ。何もかも、これは与えられているセリフ。私じゃない。
でも駄目だ。残っているなら、燃やしてしまってはいけない。
今のは何だ。誰の言葉だ。
直感して篝は走り出した。少なくともあの豆本だけは絶対にやってはいけない。そうじゃない、私じゃない。ならこれをするのは誰だ。ソフィアじゃない。ソフィアは誰だ。そうだ、あれだ。
空っぽの書架の群れを超えてたどれば、きっちりと収められた背表紙がある。握ったままの一冊をポケットに開いて、入れられるだけを突っ込み、ジャケットを床に広げて風呂敷代わりにくるみ、背中にしょって…………。
そこでパンと手を叩けば、長くウィズの語りの中にいたと気づくのです。たった一つの再確認の為に、彼女の記憶を燃やしかけたけれど、けれど確かめられはしました」
それでようやっと、彼の言葉は終わるのだった。
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