第12話 ようこそ、リ・ディニアスへ
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雲が遠い。天にはどこまで行っても届かないんだ、なんて昔は思ったが、しかしそれにしたっておかしい。
雲が遠い?そんなバカな。トロスフェアなら近づくのがはっきりわかるはずだ。それが無限遠の書割めくとはありえない。人はその上まで飛べる時代だ、上から雲を眺められる時代だ————なら、どうして?
地上が何も見えなくなっても、雲はまだ上にあった。飛行機で飛んでいたとしても、もう横か斜め上程度のところ。そうなって篝は、ようやっと理解するのだ————そうか、空にいるのではないんだ、ここは。
篝は考える。
たぶんこれは、目の中に見せられているだけの影なんだ。裏付けるように、舟屋が見えなくなっても雲はそこにある。そうだ、これは。
ソフィアの速度がよだかめいて上がっていくと、雲までの距離が比例して伸びていく。さっきの倍は速く飛んでいるのに、宇宙というものはどこにもなく、蒼い光にのみつつまれている。
「そろそろかな」
つぶやくとソフィアがブレーキをかけた。なのに落下するようにも思えなかった。
勿論、自分にも彼女にも血はない。
「どこへ行くの?」
この先に何があるの?と篝は腕を振ってみる。
何がどこにあるのだろう?星は全く見えない。夜がどこまでも、遠い。
「あっちが来るの。理の外に出るってのを忘れちゃダメ。外に出るなら外に出るなりのをしなくちゃ」
ソフィアとの会話が、不思議につながらない————空間が丸まって、すべてが雲の世界となる。流星が切り裂いて光を赤くしていき、日の出として白に染め始める。かと思えば星の周りが幾何学に直線して、限りなく黒い。
「ねえ、これは…………!」
篝は何の気なしに、目の前の空間をつかんでみた。星が急に結晶化して、小瓶となって固まる。確実な結晶質だ。限りなく透明の栓を右手で開けると、粒子が体を回ってとけた。
指の間に流れると、それはまた形を作る。
「海、ね。もうすぐ」
彼女は手を放した。
どこが上でどこが下かも消えた。代わりに動きが重くなり始めていて、スメタナのカエルの気分になる。動いていないと、自分の場所がない。
もとよりそれはどこでもそうか。
「なんか……いい気持じゃないね……」
冗談めいてもがいていると、周りが固着して、カプセルのようになった。なぜか想像したものの通り、バター質で生暖かい。
「慣れてないとそんなものよ。放っといても勝手に固まってくれるけど、気になるならそれでいいわ。どちらにしろ、動けなくなったときがその時だから」
理解可能と理解不能が絡まりあって、必要なのかと彼女を固着させた。
「固まるの?」
問いかけるのは遅かったか。もう二人は動けなくなっている。あたりの全てが一つになるように、ぴったりと形が変わっていく。その中でどうすれば話せるのだろうか、ソフィアは何も身体を使わずに返事するのだ。
「そう。色がモノになる。空気だって水だって、時間も光も空間も。写真みたいなものよ。あれは色の集まりだもの」
空間がガラス質になっていくのが見え始めた。
押し出して固めたカプセルの中も凝固してきていて、水晶めいたものが析出する。六角を基調にして、彼女らのあたりが一つにまとまる。
琥珀のように、閉じ込められて動けなくなる。そうすると時間が固まるのか、光も届かなくなり、目の前のソフィアがどこにもいなくなる。触覚でだけはそこにいるとわかるが、しかし空間が拡張し始め、その接触もあいまいなものになっていく。
「……ねえ!その後は!」
少し心細くなり、篝は大声になった。なんとか伝達はされたのだろう。動く感じがして、彼女は耳を押し付ける。
「!!!!」
振動だけが伝わったが、何を言いたいのかはわからなかった。もっと伝えようとしてみるが、わずかの空間を埋められた。冷凍の原人のようだ。
言葉にならない言葉を吐いてみると、そこで縮んだ肺の体積を圧迫。呼吸すらできない体積に押し込められる。
死ぬことはないと不思議に言い聞かせられた気がして、彼女はへばりつきかけの目を動かす。
誰?
もう一人がいるような気がして、そちらの方を向いてみたなら、篝がいた。
確かにここに自分はいるのに、自分があそこにいるのは不思議。ならそこにいるのは、自分ではない。誰か別人なのだ。
その言葉に「ありがという」との返事があり、何かが自由だと微笑むと、指を弾いて可憐に笑う。
それはソフィア以上にかわいらしい。
かわいいのか?私が?
彼女はそれが自分でないと、ぼんやりと思う。自分には良いというものにふさわしくあるわけがない。ならばそれは私ではない、ならばそれは————。
「やあ。根の国へ」
そうだ、あれは自分ではない。
男の声の少女は、つかつか篝に近寄って、透明結晶に触れて篝を握る。暗黒の中に一つ浮いている彼女は、幽体離脱かと見えた。
「ここから出たいかい?僕は出ない方がいいと思うけれどね」
ソフィアからの動きはもうわからないのに、なぜ少女のは聞こえるのだろう。どころかヘッドドレスにフリル袖のパーカーワンピースをして、紐で結んだスラックスだと目に届くのだろう。
ここはすべてが暗黒になっていた。
夜空の帳を漆黒の粘土にしたかのよう。見えること、見えないこと、そのほか様々が絡まりあって閉じ込めているよう。
「最初の分岐だよ。Tobeかそうでないか。まずは問うだけ。前に行けるか、ただそれだけ」
少女が篝の手を取って、引っ張り始める。
何かを語り始める。その力が強まっていくにつれて、カガリの世界に光が戻っていく。
「ここまでは僕がやらなくちゃいけないけど、それは選んだこと
の対価だからね。でもその先は本当にわからない。導かれたのか、自分で決めたのか、どっちかはわからない。だから根を調べる」
ぶちぶちと切れる音がし始めた。どうも細いひげが無数に絡みついて自分を固めていたらしい————バチンと左手が急に開放されると、篝は少女の腕を握り返すのだ。
「なら行こう、僕らの国に」
顔のあたりがほじくり返され、光が飛び込んだ。続いて肩、脚と引っこ抜かれて、新しい風景が広がっている。
空の色は紫、妖精のような樹木が並んで、板と箱の壁が大量にある。住居と三本脚が天から伸び、生物が歩くのはほとんど天井。
「ようこそ、リ・ディアニスへ」
そこには完全にあの空と違う何かが、完全にあの大地と違う何かが広がっていた————彼らの国は、見た目に反して蒸気で動く。
プシュプシュと音をたてながら、機械が楽し気に闊歩している。
しかしその中に、ソフィアの姿はない。
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