第11話 行くよ

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「しばらく私はいない。君が何をするのかは、全てきみの物だ」


 自分の声が空白にとろけていくと、舟屋から持ってきたと思しきガラクタを背に、ソフィアがゆっくりとやってきた。

 いつの間にか屋敷で使っていたランプが握られていて、その暖かい光が少しずつ染みる。いくらか取り繕おうとしたができなかったので、恥ずかしいような嬉しいようなで、篝は無理やりに骨を動かした。


「いいわよ、そのままでいて」


 眠たいのかと見て、ソフィアは優しい。

 ほんのわずかの徒歩の時間に、砂を落として髪を手櫛。雑に起き上がり頭を振って、篝は何かしようかと立ち上がる。カラの元気を使命で満たして、少女はカンフルで話し出す。


「おかえり。何、さがしてたの?」


「前の旅の残りを、ちょっとね」

 小さなバスケットを見せて、ソフィアは続けた。


「確か21年前。この時は年老いた男だったかしら————そうね、あえて子細はいわないけれど、彼とでも私を殺すには至らなかったわ。途中で身の限界があって、私の世界にいられなくなくなって、ほとんど同時に寿命が来て。形見だって娘に渡したはずだった。でも、もう彼女もいないらしいけれど」


 そして彼女は中から、本と紙の束を取り出す。その中から一枚引き出すと写真で、それがその人だと細い指で示した。


「……亡くなったの?」


 精悍と青空を混ぜたような男だった。顔のしわには人生の重みが羊皮紙のように刻まれており、目と鼻、口はインクで描いたかのようにさらりとしている。けれど瞳孔だけは自分と似たような古い闇を湛えていた、まるで水墨画だ。


「書き置きが本にあってね、あっちにおいてあるのだけれど、それにあったわ。『もう少しだけ、永らえます。こちらにはいられないけれど、父の最期の礼を果たすまでには帰ります』って」


 そんな人間の最期の礼。彼女と彼には、何があったのだろうか。



「……そのひと、どんな人だったの」



 篝が問いかけると、流星でも見上げるようにソフィアは天を仰ぐ。


「もう既に壊れていたわ。昔は動けたのかもしれないけれど、いつの間にか擦り減って傷んで、前進のための歯車がすり減ってしまったような人。でもエンジンだけは完璧だった」


 次に取り出したのは、小さなロケットだ。


「決断を済ませるからって、至らなければ渡してくれって。遺書と、次のカケラへのちょっとしたアドバイスだって」


 受け取ってボタンを押して開くと、写真の裏に小さな紙。篝には訳の分からない、習った英語ともちがう、水平線を基調にしたような文章があった。訳すとこうだとメモをソフィアが渡してくれて、篝はそれに目を通す。


「さっき感じたでしょう、ずっと無為に自分を虐げる感覚を。きっといつものことでしょうけれど、あれこそが誰かと繋がっていることなの。特に夜はずっとそうだったのでしょう。昼にだってきっと、いつかはそうなる————恐怖に近づけば近づくほど、何もかもが刺し込むようになるわ。だから」


 メモの内容はいたって単純で、見失うな、自分を保て、という内容だった。


 原稿用紙で1枚ほどだろうか。できるだけ単純に多く書こうとして失敗しているようなのが、彼なりの痛みへの向き合いなのかと考える。残る時間がほとんどなく、生きていることすら苦しそうな筆致、しかし同時に喜びがしたたまる。


 自分が受けたのと同じものを、きっと君も受けるだろう。だから、それに折れないように。彼はそう語っているのだ。


 ソフィアが篝に、決断をと声を出す。



「だから、今ならまだ引き返せわ、篝」



 何度も繰り返してきたのだろうが、いまだに慣れないらしい。ソフィアは胸に手を当て、いくらかうつむいた。


「これから先に行けば、本格的に人理の外に出る。世界の根元に行こうとしてるのだから、普通なんて壊れていく。酷くすれば今生より長い時間を生きることになる。私みたいに」


 実際にそうしてしまったのだろう。まともにいなくなっただけ、彼は幸せか。その不幸を味わえるのなら、悪くはないか?いや、正しく言えば、不幸なのか。

 どこへ行くのだろう、その世界に死んだのなら。


 ソフィアが続ける。


「知らなかった方がいいことに、出会うかもしれない。死ねるだけましだったのだと、思うようになるかもしれない。この空がどこまでも、ただの虚無なんだと理解できるようになるかもしれない。あなたがどうなるかは、保証なんてできない。それでも」



「行くよ」



 感情を乗せた重たい問いに、篝はすぐ答える。


「その先に意味でもあるなら、迷う理由はない。行く」


 目に宿っている光は、明らかに危険な物だったかもしれない。破滅を願う呪術に、自らを惜しげもなく捧げる魔女の様で、つい今しがた不可知ふかちに心情をかき回されたはずの少女は、まだ外乱を治めていないはずなのに、自分に関してだけは固まり切って冷えている。


 自分というものだけは確定的に計算の外。

 しばらく黙り込んで、ソフィアは彼女も同じかと契約の人を振り返り、切なさと恐ろしさをしまった。急に落ちついた篝に、命を吸っただけのヴァンパイアは手を差し伸べる。



「不思議な人ね。まるで乱数表…………そう、乱数表。そうね。そう。変わってるようで、変わってない」



 ふわりと風が吹き、体のありとあらゆる場所の砂がゆっくり落ちて、いくらか見られる姿になる。櫛が髪に通され、どこかの紐が鞄に編まれ、ある程度の旅の装いとなって、どこから手に入れたかマントを羽織らされる。


「その覚悟、本物なのかしら」


 そしてソフィアは篝の胸に手を当て、ドクンと押し込んで淑やかに心臓を触れた。響くそれは生を確実に教え、熱を出す。

 血の一滴も落ちはしなかったが、しかし生命そのものに触れられるとは、とても気持ちが悪い。それに不可思議のエネルギーが注ぎ込まれるというのはそれ以上だが————ソフィアが翼を広げた。


「空の上に何があるか、知っているかしら」


 とても軽いそれに包まれると、体は翅のように風に乗るものになった。ちょっとしたジャンプで崖の一つでも飛び越えられるくらいに思え、腕を振ってみれば、反作用で鳥のようになるだろう。


「科学的になら、宇宙。でも私たちには、最初の門。空の日の出から入るわ」


 心臓に触れる彼女の腕を握ると、もう重力はなくなっている。感じないのではなく、無いのだ。足元の岩が小さくなっていき、写真とレンズで遊んでいるよう。手に取ることのできるくらいのミニチュアは、実際の世界だと思ったころには、軽く半キロは空にいた。


 これから何かが始まる。

 篝には、それだけがわかった。



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