第10話 それでも私はわたし

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ほうぼうの体で太陽を追いかけてたどり着いた先は、どこまでも青い朧雲の海岸の洞窟であった。誰かが作って放置した舟屋が近くにあり、かなり白くなってはいるけれど、まだ壊れるくらいではない。おそらく人が消え去っても半世紀程度だろう————流星の残りのような色をした雲が、静かに流れて消えていった。


篝がまだ見られるかなと時計を出す。ボタンを押して蓋を開くが、さすがに光が足りていない。ただのまだらにしか見えない。


ソフィアは緑の線を引き、四角く空間を切り取る。その中に遠くの景色を見て、彼女は何か呟く。


「……スミスは逃げ延びたかしら」


続いてそれに流麗に異国語を並べ、折りたたんで鳥にして、ちょいと刻んで命を宿し、彼女は飛んでいけと小さく命じた。それは本物のように羽ばたいて、空へ消えてどこかへ去った。何があるつもりか————少女は息を吐く。



「ここから、どこへ行くつもりなの」



洞窟の入り口、岩の上に座り込んで篝は、舟屋の方へ行くソフィアへと問いかける。


飛んでいる間に、いくらか世界樹なるものの話を聞いた。それは人の中に誰もが持っていて、現実の土から時間を流して伸びる枝だそうで、それが伸びることで人は成長し、それが枯れることで人は死ぬ、というものだそうだ。

誰でも持っているらしいが、誰一人同じではない。それに何かをするには魔法や呪術でしかできなくて、その為に篝が必要————。


「今は、どこにも行かない。ただ探すだけ」


だとは、聞いている。けれどそれは、どこかで見つけ出すようなものではなくそこにある物ではないのか?なら実体ではないはず。何を探すというのだ?

屋内で何かを探しているソフィアは、雑に返事する。篝が声を届かせる。


「『世界樹』ってやつ?それとも?」


何かが崩れる音、何かが割れる音。海風が顔に吹き付けるので、髪を手で押さえつけてこらえる。ほんの少し風が落ち着いた。


「それとも、私の代わり?」


その中で聞こえないように、篝は続ける。

「そんなことないって、言いきれたらいいのに」

波の音だけが、それを聞いていた。




いつかの高潮でやって来た枝を取り、少女は巨大な樹木をイメージして、かわいらしい自分なりの図解を描いた。


擬人化された巨大な木が、頭の方を切られ、待ってくれと枝を伸ばす。それをどこかに接ぎ木して、育ってくれよとする男。そしてそれから上側を取り戻そうとするコウモリ、追いかけてくる十字架。その十字の裏にも、きっと何か大きなものがある。


引くのなら今だし、気が変わったと言えるのも今だけだ。こんな恐ろしい目に合うなんて思っていなかった、とか理由はいろいろつけられる。死にたくなくなった、というのでもいいかもしれない。


でも行くと決めたんだから、自分で動くしかない。



「逃げるつもりかい?行くと決めたはずなのに」



いつもの声が、しばらくぶりに篝を笑った。

いいや、私は逃げない。ソフィアをこれ以上、苦しませたくない。がっかりさせたくないんだ。

枝を放り捨て、足で絵をかき消した。


「ふふ、それでこそアタシってもんさ。さすがだね、私」


そんな答えがどこかから響いてきて、なにか自分が何かに操られているような感覚が生まれて、何もかも世界樹しだいなのか?と篝は後ろを見た。洞窟の空っぽさが、骸の眼窩であり、口腔であるように思われて、彼女はびくりと身を震わせるのだった。


すぐに何もないんだと、思い直す。

ちょっと異常が続きすぎたんだ、落ち着け。自分を保て。おすしておかないとどうしようもなくなる。まずなぜここに来たのかを思い出せ、大空篝。お前は何のためにここに来た。

死ぬためだ。死ぬための勇気を、出すためだ。


「死ぬため?嘘をつけ。なら何度だってチャンスはあったのに」


篝は再度、声のしてきた洞窟の奥を振り返った。やはりそこには何もいなかった。

ずっとそうだ。この声は昔から、どこか遠くから聞こえてくる。近くにいないのに間違いなくどこかから響いてくる。痛みばかりを、押し付けてくる。


「だらりと生きる理由がないから、この世から消えるのだろう?」



「……違う」



篝はそれを、否定したかった。ずっと近くて遠い場所から篝を見続けていた、この私の声だ。間違いなく自分だ。だから嘘なわけがないんだ。だから。

篝は自分に、ナイフを押し込むように問いかける。


「本当に?」


篝は自分を、傷つけそうに握りしめる。


「…………本当に、そうだ」

「そうかい」


別の篝はケ・セラ・セラと肩をすくめる。夜の風が、彼女の髪を持ち上げてくすぐる。



「なら僕は何も言わないさ、それが本当ならね」



煽られたような気がして、でも自分だから反論が無くて。奥の方では、嘘だと感じているから、どうしても許せない。


「どうして、君はソフィアを手伝いに行かないんだい?」きっとそう言われるだろうと、篝は自分の頬を叩いた。確かに自分から、手伝いたいと言ったはずだ、言ったはずなのだ。

なのに自分は、こうしてずっとここにいたいだろうか。いや、それどころか元の日常にありたいとさえ思えてしまう。ほの暗い誰もいない穴だの、見知らぬ屋敷のフォリーだの。好き勝手にあの少女に振り回されたからだろうか。


「覚悟なんて、所詮はその程度かい」



自分が煽るように口調を上げると、篝が反駁する。

「……違う。それだけは違う。私は」



同じように、それは怒る。

「私、か。その声を出す権利は誰にある?その『私』とやらがあると言うか?最初から私を通してしか世界を見なかったくせに。今更自分というものが立派にあると思うか?」


「でも」


「でももだってもないだろうに。私に代弁させるだけで、自ら作ったのはわずかの言葉だけだろう。それも遊動の結果ときている。痛くなければいいのだろう。胸を閉ざしていたのだろう。篝、君は本当に言葉を出すのが自分といえるか?」


そして少女は黙り込む。


こんな風に証明させてしまいたくなかったのにと、私はまたどこかへと溶け込んで消えた。これ以上をするだけの意味もない。それは自分が正しいんだと満面の笑みで少女を痛めつけて、チェシャ猫めいて消え去る。


「幸い、考えるだけはいくらでもできる。生まれるまでの時間は、私が許す限り永遠だ。そこで止まるならいい。進むでもいい。いつの日かそれはくるのだから」


けれど不思議に、その一つだけは、自分は許してくれた。

洞窟へ潮の音が響く。嬉しいことに、それは内奥の反響でかき消されていて、彼女はしばらくはいいだろうと思考をやめた。

篝は誰にも聞こえないように、覗かれないように、あえて自分にすら聞こえぬよう声に出す。


「でも、それでも私はわたし。どこにでもそれはある。聞こえずともわかる。戻らぬ限り、きっと」


肩を叩かれたような気配があった。けれどソフィアはあの家屋にいるから、誰がしたのかは、明白だった。



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