第4話 それは遠く昔の話

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 風呂、食事、睡眠、休息。


 彼女には4つ選択肢が与えられていた。

 その中から、篝は迷うことなく休息を選んだ。


 当たり前だが、今の時間はド深夜で、寝ている時間だからこそ彼女は出歩くことを選んだのだ、それがなくなったら寝るしかない。夜を昼にしかかっていたリズムだっただけで、まだ彼女は昼の人間であったからだ————そうして明るくなっていく外を見ながら眠りにつき、目を開けては閉じれば夕方。




 太陽が傾き、外は黄昏が広がっている。


 寝ぼける少女はそれをぼんやりと眺めると、ああ、そうか、自分は失踪したんだと静かに現状を思い出して起き上がるのだった。

 そして頭に、身近な人間の姿が浮かべ、あの人らは大丈夫かなぁと呟く。


 父、母、数人の友人、弟。


 あまり広くない交友関係だけれど、彼ら彼女らだけはきっと、自分のことを気にしてくれるだろう。なら、ほかのクラスメイトは?隣人は?


 答えはきっと、ノーだ。ちょっと「なんだ、いないのか」と考えて、すぐに私のことを忘れ、いつも通りの日常に戻る。生きていてもいなくても、きっとどうでもいい。死んでいても、もちろん。



 誰にとっても同じく日が沈んでは昇るように、人の命というものはほぼすべての人間にとってどうでもいい。そうでない一部であっても、すぐに何もなかったかのように、想いの中から消えていく。


 愛だの望みだの、人はいろんな名目つけて特別にするけれど、きっとそれは、そうしないと失くしてしまうから、なんだろう。



 ————なら、誰かが生きることの意味なんてものは。



 変なことを思いながら、篝はゆっくりと目を覚めるのを感じた。


 きちんと起きて部屋を見ると、いつの間にかサイドボードにタオルと石鹸、ブラシなどが並べられていて、昨日飲んだ紅茶のカップは消えていた。きっとスミスさんが回収したのだろうと思い、篝はもう一度、外の世界を見た。


 相も変わらず、外は好き勝手に建てただけが広がる。遠くに苔むした煉瓦のビルが、ゆらり崩れそうに寄りかかって、木造の日本家屋を歪め、その土台は不思議に、コロッセオ状で、つぎはぎをしている。


 なぜだろう。不思議なものだ。

 起き抜けに見るのによい、美しいものだなあと彼女には思えた。



 自分もこうして、ただいるだけで救われるものだったらよかったのになぁ。




 ほんの少しだけ佇んでから、足の方へのそり動いてベッドを立ち、靴を履いて篝は部屋を出た。誰もしばらく歩いていなかったのか、灯りはどこにもない。傾いた日を頼りにし、少女はゆっくり廊下を歩く。


 前を通るたび、廊下のランプはボッとひとりでに火を宿していった。


 篝は窓の外の景色をもっと見たいと階を降り、一階の廊下に行く。そこから外に出ようと思って方向を間違え、中庭にたどり着いたところで、中央に何か建物があると気づき、そちらに行ってもいいな、と足の向きをそのままに、彼女は花の閉じた月下美人を通り過ぎる。


 ポウ、と光の粒子が舞って、すり寄るように触れて消えた。


 どうやら庭のフォリーらしかった。彼女は導かれるように扉を開く。


「……おはよう。遅かったじゃないの」


 ローマン柱と本棚に囲まれるようにして、ソフィアが昨日の紅茶とともに待っている。彼女は革で綴られた古い書物を広げ、書き物をしながら、細かい文字の書かれたメガネ越しに、篝を見た。


 ティーカップが熱を保っていて、脇のミルクも果てた様子はないから、きっと彼女もそこまで長くは待っていたわけではないのだろう。

 彼女は昨日のように、何を飲むか問う。


「今のポットはレディグレイ。スミスは夕食の準備をしてくれているから、ほかに出せるのはダージリンとアッサムだけだけれど————どっちにする?」


「……わからないから、おすすめを」


「なら同じのにするわ。あなた、起き抜けでしょう?」


『A Queen of Night』というタイトルの本を閉じ、少女はポットを取りに奥へ入った。その隙にそれを開いてみると、中は整った読めない異国語で埋まっている。端の方にわずかに削った跡があったが、古い時代の書物だ。作り手が書き損じたか写本の失敗かと思えた。


 少しずつ日が奥に差し込んできて、もうすぐ完全な夜になる。またランプがひとりでに燃えて、篝の顔を照らした。

 部屋は古い紙のようで、全てが本のような色合いをしていた。



「少しぬるいかもしれないけれど」


「ありがとう」


 帰ってきたソフィアから受け取って、少女は香りを楽しみ、喉に流す。さわやかにわずかの渋みが、湯上りの風のようにすがすがしく、彼女の頭を洗い流す。

 ひとまずの時間の風————篝は口を開く。


「それはさておいて、何をしていたの?」


 自分の分を注いで少し置いてから、ソフィアは肩をすくめた。



「そんなの、どこにいてもいいことだわ。散歩終わりに夕食になっても、きっとあなたはそれを言う。そして私に煙に巻かれるでしょう————何をしていたと思う?」



 ソフィアはメガネをはずし、真っ赤な目を篝に合わせ、やっぱりそうねと呟く。

 吸い込まれるようなそれは、よくよく見ればハイライトというものがなく、代わりに熱っぽい赤が輝いているだけで、泳がない。全く動かないから、しばらくすると恥ずかしくなり、篝の方が先に目をそらすのである。


「……本を書いていた?」


 そして震えて篝が答えると、ソフィアはそんな間違いを求めていたのだと全身で答え、あえて考え込んでみせた。



「1割だけ正解……じゃあその本は、一体何のために使う本?何のために書かれる本?」



 もちろん、それを篝が答えられるわけはない。

 ソフィアは肩をすくめて表紙を開き、ゆっくりと声に出して読み始める。英語に近い発音だったが、しかし似ているだけだ。


 それを終えると、彼女は答える。


「答えはこのお話のため。そう、それは遠く昔の話。本当に本当に遠い、今を生きる者が誰もいなかったほどの昔。まだ科学が今のように世界を動かす前。魔術がまだ存在していて、誰もが魔法を扱えたころのお話で————」


 言葉を切り、ソフィアは指を空に滑らせた。

 魔法の文字が、本から踊った。



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