第3話 どうしても救いたいと
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氷塊が体に叩きつけられる痛みをこらえながら、篝は回りだす身体を必死に抑え、バランスを取った。しかし底を知らないダウンバーストにはこらえきれず、きりもみ回転を始め、その風圧でまともに目を開けていられなくなる。
大地までは恐ろしく遠い。
落下が遅くなっているのか、思考が早まっているのか、ソフィアが急降下しているように風切りが近づいてきて、ゆっくりゆっくりと何か持ち上げられる。邪魔だと蹴ると、ボタンが弾けて上着が広がる。
それに空気が入ってマントめくと、落下傘めいて回転がマシになり、そこでようやっと初めてのスカイダイビングは安定した————ようやっと篝が目を開けると、あったはずの森と道路は、光のない廃墟の群れになっていた。
「やっぱり、あなたは最高よ」
追いついてきたソフィアが、蹴られないように脇を抱きしめブレーキをかける。
「あなたなら、きっと私の望みにたどり着ける」
そこになったのは、石材レンガの堅牢な民家、オークの骨と粘土の白。ティンバーフレームにノルマン、中央に並ぶビルディングは近年の設計。
アーティスティックに立方体をくりぬかれたオフィスもどき、流線形で無理やりにつながれた高速道路、クローバーを埋めた円形タワーにゴシックの箱と、継ぎ合わせで作られたようなモノトーンの街だ。
好きなものを詰め込んだ出来栄えだけれど、確かに一つ一つはきちんと美しく、ここに落ちるのかと一瞬心奪われる。
「……独善の……街?」
篝がいた基底現実ではないことは、あたりに散らばる結晶質でわかった。でも完全な異世界でないことは、遠くに人間の光がみえることで、同様にわかる。
きっとわずかな隣にある、同じ現実の違う部分、だろうか。
背にいる少女が作り出した、自分だけの世界のようなもの、なのだろうか。
「気に入った?そうなら嬉しいけれど」
肯定するようにソフィアが微笑みかけると、
落下先は白を基調にして、正方形に小さくまとめられたカントリーハウス。道路と挟んだ公園を庭としていて、2階建ての中に20ほどの部屋があるなと見えた————そのうちの中庭の、噴水のある広場に降り立てるように調節し、ソフィアは細心の注意を払って羽ばたき、重力を完全に打ち消すように着地する。
身についた氷が脚をつけると同時に砕け、ばらりと二人の足元を飾った。
白の少女は黒の少女が無事なのを見てから、彼女の前に回り込んでスカートをつまむ。礼をしてみる。
「月下美人の庭、というの。空の向こうにある、誰もが持っている心の中の庭。大きさも何もかも、人それぞれ————そしてこれは、おそらくあなたの庭。ここだけは私のものだけれど」
そして名の通り咲いている月下美人の花弁を撫で、ソフィアは篝の手を引いて歩き出した。
庭園に面した廊下から、絨毯を通って一階のホール。ランプが目の前を通るたびに灯っていくのが、なんとも不気味だった。
彼女は階段を二階分昇らせて、北東の一室へ案内する。ガチャリと開けば、中は落ち着いたベージュにダークブラウンの柱をアクセントにした、ベッド、サイドボード、机、椅子、本棚などのシンプルなもの。
しかし心の奥が居室として扱えるほどに整っているのは、どこか羨ましいと思えた。
ソフィアはひとまず、篝を席に案内する。
そして夕陽を取り込む窓の幕をしまっていると、ノックの音が響いて戸が開く。きっと彼女が呼んだのだろう。もしくは準備をしていたのだろう。
「お嬢様、客人ですか……なんとまあ、珍しい」
やってきた男は、かろうじて黒い頭髪と、樹皮のようなしわから、初老から還暦ほどにだとわかった。ソフィアの呼び方から仕える身とわかり、その推測を肯定するように彼女は、紅茶を頼もうと篝に何がいいかを聞いた。
分からないので任せると、彼女はダージリンを選ぶ。
「ケーキはやめておきましょう。夜ですもの」
「わかりました。では、しばらく」
そして一通りに会話を終えたなら、静かにドアを閉め、足音もなく彼は消えるのである————機械のように正確な動きで、彼は人間だったのかとわずかに篝は疑う。
しかしそれ以前のことがあるだろうと、彼女は思い直して思い出した。
「さて、しばらく何の話をしましょうか。そうね…………」
篝は息を吸う。
「その前に、ちゃんと聞かせてほしい」
それから少し、ちゃんと思う。
急に連れ去られ、わけのわからない世界に持ち込まれ、屋敷の中に収められた。これからは何をされる?何が起きる?一体何を、させられる?
知らないことだらけで、論理だてることはできなさそうだけれど、それでも最低限、知ることだけはしておきたい。
死ねないのなら、それに抗いたい。早く終わりたい、でもそうさせられないなら、出来る限りの痛みを与えて復讐としたい。
彼女は変に思い、そうなのか?と考えてから問いかける。
「あなたは何者なの?吸血鬼、なんて名乗ってみたり、空を飛んだり。何がしたくて、どうして私を連れ去ったの。なぜ————」
だが、たった一つ求めたものは拒まれるのだ。
「残念だけれど、それにはまだ答えられない」
「それはどうして?」
理由を尋ねれば、ソフィアは飄々とした態度で微笑む。
「いろいろあるのだけれど————そうね、例えばあなたに素質があるかわからない、とか?それとも、今日の日がそろそろ変わってしまうだろうから、とか?でもやっぱり、一番大きいのは、紅茶がまだだから、かしら」
「……ふざけないで。ちゃんと答えて。紅茶で何が変わるっていうの。落ち着くから、なんて言うつもり?」
腹が立つのを隠そうとしたが、どうしてもだめなようで、簡単に見破られるだろう。それでもいい。彼女は問いを叩きつける。
「言えたことじゃないけれど、言わなきゃ何もわからないの。教えないならそれでいいけれど、そうならあなたを信じないわ。私は知りたい、知られないならどうもしない。教えるか何もできないか、だけ————だから……!」
ふわふわとしたことだとは、自分でも思えた。
それがソフィアにも分からないわけがない。吹けば飛ぶような雑さだったから、簡単に受け止められて、とげの一つ一つを抜かれて止まるだろう。けれどが頭の中に連なる。
ソフィアが答える。
「ふざけているわけじゃないわ————けれど今教えても余計な考えを増やすだけ。考えるのは悪いことではないけれど、何もかもを頭の中に入れ続けるのは、ただ世界を悪くするだけ。馬鹿の考え休むに似たり、だったかしら。あなたの国では、そういうのでしょう?」
何も引き出せるものはなさそうだった。
「…………悪気はない、と受け取っていいのかしら」
最後の最後の皮肉を呟くと、ソフィアは骨で殴り返す。
「それを決めるのは、あなた次第。あなたがこれから何をするか、どう受け取るか。何を見て、何を理解して、何を自分にするのか。たったそれだけで決まることよ」
ちょうど篝の進退窮まったところで、男が戻ってきたらしい。ノックが響き、彼は注ぎ口からでもわかる香り高さを二つ。暖められたカップそれぞれに並べ、右の物を篝に、左をソフィアに注ぐ。
「彼女もまた、カケラの一人なのでしょう?望むのでしたら、お嬢様と同じように、スカーレットをお持ちしますが」
ソフィアのもののほうが深い色をしていて、朝焼けと夕焼けを血の海に飲み込ませたようなそれを彼女はつまむ。
「あら、スミス。言っていたかしら」
うっかりだわととぼけ、ソフィアが肩をすくめた。
「お嬢様に返り血もありませんし、同族であれば互いに風をうみましょう。狩人をこの屋敷へと連れてくるわけもなし。ならば人間の客、そして外を開けるのは、カケラのみ」
予見していたらしい彼は、一切合切用意ができていると続ける。
ソフィアはゆっくりと紅茶を飲み干し、「なら先は不要でしょう。彼女をお願い」と部屋を出た。
優しい声をして少女が廊下へ消えるのを見届けると、スミスは小さく礼をして疾風のように働き、生活のための一式を部屋に持ってくる。
紅茶が冷めぬほどに早く、彼はさらに言葉を置いてお辞儀。
「ダージリンは心を落ち着け、よく眠ることができると聞きます。他に何かございましたら、お申し付けください。では、よい夜を、ミス・オオゾラ」
名を呼ばれた篝は、どこでそれを聞いたのだろうと驚きつつ、彼ならばまだ、まともに答えてくれると考えて、問うてみた。
「あ、はい…………でも、なぜ私の名前を?」
「お嬢様が探しておられました。どうしても、救いたいと」
だしぬけな答えに、篝は目を丸くした。
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