第2話 悪い人間

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 痛みで現実に引き戻され、痛いなら生きているのだと驚き、どうして死なせてくれなかったのだと少女は上を見た。



 紐をかけた枝は、根元から綺麗な断面で落とされていた。



 一体だれが?


 いや、そんなわけがない。周りには誰もいなかった。ただ単に運が悪かっただけで、タイミングが重なっただけだ。まるでナタか何かですっぱり落とされたみたいに見えるけれど、これはただの偶然なんだ。だから、あの月のせいなんかでは、断じてないんだ。



 そうとは思えないけれど、彼女にはそう思うしかやりようがなかった。

 かかったままの紐をほどき、より頑丈な幹を探してまたかける。そして登って飛び降りる。


 けれど、不思議に少女はまた死ねない。

 次も、その次も、そのまた次も。何度繰り返してもだ。


 へたり込み、月を睨み、彼女は押しつぶされそうにつぶやいた。


「…………なんでよ」


 どこまでも世界というものは、自分に対して理不尽にできている。そう思えた。



「なんで、一人の生死くらい自由にしてくれないのよ……!」



 人の命は地球よりも重い、とでもいうつもりなのか。だったらその重い命が生きているだけで満足なのか。

 ずっと嫌いな肉体を、精神を、貼り付けたままいる人間は、救われるわけがないだろう。愛せない自分をどうやって愛せというのだ。何にもなれないだろう自分を、どう変えろというのだ。抱えられないからこうして自分を壊すんだろうが。なんでそれを、誰かに止められなくてはならないんだ。



「させるわけがないだろう。僕の為にも」



 月が馬鹿にすると、衝動的に鞄からナイフを取り出し、少女は高く掲げた。なら失敗しないように、全部自分の手でやるんだ。だって地球すらも自然すらも敵なんだから、残った敵じゃないのは、この頭に従う肉体だけで————!



 なのに、ぷるぷると震える。言い訳の立つやり方をし続けていたんだから失敗したんだ。怖かっただけなんだ。怖いことなんてないんだ。やろうと思えばなんだってできるんだ。行けるんだ。どこまでも。

 ギロチンめいた光が目に届く。頭までも敵になるのか、ここで?


 やれる。やれる。押し込むだけだ、振り下ろすだけだ。あと少しなんだ。私は、私は、私は、私は…………。

 自己否定と恐怖が降り積もって行く。高く、遠く、臨界点に達したのなら、彼女は衝動的に振り下ろすだろう。だからまた、月が無慈悲に笑う。


「やらないのかい?」


 火ぶたが切り落とされ、少女は刃を振り下ろした。




 しかし彼女の手は、冷たい誰かの手で引き留められていた。



「あなたは、いい人間?」



 バッと顔を見上げてみると、そこには人の形があった。それは帳を吸ったワンピース、天の川で縫ったレース。細くまとまった骨に瑕疵のない白磁を纏い、さらりと長く絡まぬ髪して、のどかな眠気と刺すような鋭さの瞳をして佇んでいた。


 まるで古きフランス人形の様だった————いや、夜そのもの、といってもよかっただろう。それは語り掛けた。


「少しの間、あなたの命を貰いましょう」


 少女とおそらく同年代の見た目したそれは、似つかわしくない黒の翼を滑らかにしまい、優しく少女の手を引く。翼?と不思議に思われたが、そんなものどうでもよくなるほどに、許容されていると思えた。


「それとも死を繰り返す?」


 そして彼女は紐を握らせた。ご丁寧にパッケージに収められていて、首を吊ったのに使ったのと同じものだった。

 まるで最初から全部見ていたかのように、少女はくすりと笑って言うのである。



「カガリ、だったわね。そう、大空篝おおぞらかがり



 名を呼ばれ、まさかと篝は答えた。


「見て……いたの?」


 人外はそれにイエスと答え、「紐をもって道を違えるときから」と付け加える。


 恥ずかしさと怒りで、篝はナイフを持ってバックステップ。少女へと走り出した。みぞおちに柄を構えて、身体ごと突き刺す体勢だったが、しかし刃先がふれる直前に、その姿は分散していなくなるのであった。


 まるで霧のように。


 けれど倒れこむ篝の身体が、希薄な腕で受け止められて、集まっては消える姿はむしろ魔法だ。どうすればこんな手品がこの世にあれる?

 少女は勝てないと諦め、彼女は諦めてナイフを落とす。それでいいと彼女も手を放す。


 そして不思議そうな赤い目を見ないように目を閉じて、息を吐き、えらいものに憑りつかれた。つくづく不運なんだなと、篝は死ぬことすらままならない自分を呪った。




「どうして……なのよ…………」


 それに続くのは赦されなかった自分の命についてのあれこれだろう。少女はしゃがみ込み、体を起こした篝の膝の上に、柔らかく座り込む。


「それに答えてもいいけど、でもその前に何か、忘れてない?」


 今にも泣き出しそうな篝に、少女は唇に細い指を当て、静かにしてから微笑んだ。どこかいたずらをした子供をなだめるときの優しさが見えたが、篝にとっては大きすぎるお世話、余計な下世話。


「あなたはいい人間?それとも、悪い人間?」


 この面倒に付き合いたくないので、唇の指を叩き落し、少女はぶっきらぼうに吐き捨てる。



「……悪い人間」



 すると少女は、それでいいと目を輝かせた。


「ならきっと、あなたはいい人間よ」


 それから立ち上がったら十字架のように腕を広げ、くるりとひと踊り。形つけられたフリルが夜景のダンスホールに舞い、光の粒子が浮かぶ。



「悪いなら自分を悪いと言わないもの。気に入ったわ」



 そして篝を姫のように抱き上げ、翼を広げるのだ。



「私はソフィア。ソフィア・アイラ・バイライト。バイライト家最初で最後の36代目当主。そして遠い遠い時を生きる古い人ヴァンパイア



 少女が名乗ったのは、篝が知る由もない、1500年ほど前の貴族の名。続く吸血鬼というのは嘘だったが、鋭い犬歯、月に輝く目が、彼女には真実だと思わせた。ソフィアはほんの少しの哲学的フィロソフィアを呟いてから、篝に微笑み風を起こす。


「何を信じても構わないわ。ただ、私はあなたを気に入った」


 夜に人が二人舞い上がると、静かに静かに風に乗り、ゆっくりと森の影に姿を溶け込ませ、雲の中に埋もれていく。


「だから少しの間見ていたの。そうすれば夜に駆けて生き残って、苦しんでを繰り返すじゃない?一人殺すのに、四苦八苦するのが楽しくてね、つい手を出してしまった、というところなのよ————」


 紐で足場ごと引っ張り上げられるように、現実感のない飛行。

 最も近いのは篝の求める昇天で、酸素だの温度だので本当にそうなってもおかしくないはずなのに、奇妙に暖かく空気が濃い。夢を見ているのかもしれないと思ったが、そうなのかもしれなかった。


 何だろう、この暖かさというのは。


 篝が自分の身体を見ると、不思議に、道中で受けた傷がなくなっていた。

 どころか自分で噛み広げた手も、針の刺さった脚も、なにもかもが元通り。どころかそれ以上に、ソフィアと同じほどに美しく整っていた。


「…………なんで、こんな」


 全てを否定された気分で、篝は小さく吐露。耐えられない少女へと、老人はとぼけて肩をすくめた。

 もちろん彼女が死にたい理由などわかっているが、たかが1世紀で始まり終わること。どうでもいいと言外に、ソフィアは笑う。


「あなたは死んだのよ。いきなり夜に飛び出して、どこかに連れ去られて消えたの。それでいいじゃない。そういうことにして、私にずっと付き合うのでいいじゃない」


「……でも、私には父さんも母さんも…………」


 同じように、否定するべきだと篝は思った。何もかも捨てていなくなってしまうのはいいことなのかもしれないけれど、でも悪いことだ。だからそうするべきだ。

 彼女の倫理が返事すると、ソフィアの邪悪が反駁する。



「なぜ?死ににこんな山までやってきたのに、なぜ係累ごときでやめようというの?それとも、死んだことにして生きるということでは、不満?」


 篝はいくらか考え込んで、美しきものを殴った。不満はないが、それで満足するようなことが、起きるだろうか。



「不満足!」



 不可思議の上昇がなくなり、意識のないようなソフィアが頭から、篝が大の字で落下を始める。呼吸も少し苦しくはあったが、それ以上に雷が恐ろしく脇を通り、鼻腔に焦熱を送った。



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