ケース5 旧友㉖

 

 かなめはビーズののれんに向かって手を伸ばした。

 

 しかし身体は氷のように固まって動かない。

 

 声を出そうと口を動かした。

 

 しかし上下の唇は虚しく開閉を繰り返すだけで言の葉はただの一枚たりとも出てこなかった。

 

 

 ただ涙だけがとめどなく流れ、ついにその時が訪れた。

 

 

 実況中継の叫び声が聞こえる。

 

 観客の歓声とため息が響く。

 

 しかしのれんの向こう側は不自然なほどの静寂に包まれている。

 

 

 どくん……どくん……

 

 止まっていた心臓が動き出す。

 

 どくん…………どくどくどっくん……!!

 

 不整脈を伴って凍っていた時が動き出す。

 

 

 誰かに背中を押されたような気がした。

 

 弾かれたようにかなめは一歩踏み出す。

 

 あれほど動く気配のなかった手足が今は操り人形のようにギコチナク前に、前に進んでいく。

 

 

 嫌……知りたくない……見たくない……

 

 

 叫び声のような耳鳴りが脳髄の奥底から響き頭がおかしくなりそうだった。

 

 しかしかなめの意志に反して身体はリビングに向かって一直線に進んでいく。

 

 酷い吐き気と目眩がする。身体は全力で知ることを拒絶している。

 

 しかしかなめの意志に反して身体はリビングに向かって一直線に進んでいく。

 

 

 

 いつの間にか照明は弱まりあたりは薄暗くなっていた。

 

 明滅する蛍光灯がフラッシュバックのようにかなめの記憶を揺さぶり起こす。

 

 

 

 

 血に濡れたソファ。

 

 

 歪んで分からないテレビの画面。

 

 

 スピーカーから聞こえる大勢の笑い声。

 

 

 血にまみれた両親……!!

  

 

 

 そして……

 

 

 かなめの鼻が垂れ下がったビーズに触れた。

 

 ちゃりちゃりと音を立ててカラフルなモザイクが二つに割れた。

 

 

「行くな!! かなめ……!!」

 

 

 背後から声が聞こえた。 

 

 かなめは声の方へ振り返ろうとした。

 

 しかし身体は吸い込まれるようにのれんを割いてリビングに侵入してしまう。

 

 

 

「いやぁぁぁああああああああああ!!」

 

 かなめは叫んだ。

 

 血に塗れた両親に駆け寄ろうと一歩足を踏み出した時だった。

 

 

「行くな!! かなめ……!!」

 

 また声が聞こえてかなめは歩みを止めた。

 

 

 見ると、血まみれの両親がかなめを見てニタァと顔を歪ませていた。

 

 ソファの背もたれに仰け反り、逆さになった両親の邪悪な笑み。

 

 

 大きく開いた口からはだらりと舌が垂れ下がり、血と涎が糸を引く。

 

 いぃひひひひ

 

 ひぃひひひひひひひひひ

 

 ごぽぽぽぽぽぽぽぽ……

 

 

 邪悪に歪んだ両親の顔から悪意に満ちた嗤い声が聞こえてきた。

 

 

 カラカラと窓が開く音がした。

 

 かなめがそちらを見やると、男が窓から逃げ去るのが見えた。

 

 明滅する明かりと外の深い闇のせいで顔は判然としない。

 

 

「あの男を逃がすな……」

 

 ごぽごぽと血の音を混じらせながら父親が言葉を発した。

 

 かなめはがたがたと震えながら両親の亡骸に再び視線を戻した。

 

 

「あの男を殺せ……」

 

「あの男さえいなければ……」

 

「わたしたちは幸せなままだったのよ……」

 

「憎い……あの男が憎い……」

 

「殺して……あの男を殺して……」

 

「お前だけ生き残った……」

 

「生き残った者の務めよ……」

 

「殺せ殺せ殺せ殺せ……」

「殺せ殺せ殺せ殺せ……」

 

 

「嫌……わたしのパパとママはそんなこと言わない……」

 

 かなめは耳を押さえて後ずさった。

 

 

「殺せ殺せ殺せ殺せ……」

「殺せ殺せ殺せ殺せ……」

 

 

 しかし繰り返される呪詛の言葉は頭に直接響いてくる。

 

 

「やめて!! お前たちなんかパパとママじゃない……!! うるさい!! 黙れ!!」

 

 

 

「殺せ殺せ殺せ殺せ……」

「殺せ殺せ殺せ殺せ……」

 

 

 かなめは耳を押さえたままその場で座り込んだ。

 

 

「どうして一緒に死んでくれなかったんだ……?」

 

「先生は助けに来ないわ……」

 

 二人はいつのまにかかなめの両脇にしゃがんでかなめの肩を抱いていた。

 

 

「先生は来る!! 絶対助けに来る!!」

 

 かなめはぶんぶんと頭を左右に振って呪いを拒絶する。 

 

 

「来ないわ……だって彼は復讐者なんですから……」

 

 

「先生は助けに来る!! 絶対に助けに来る!!」

 

 

 かなめが叫ぶと二人は黙って顔を見合わせてから、ゆっくりとテレビを指差した。

 

 

 

 そこには床に倒れたて動かないかなめと、目を血走らせて藤三郎を睨む卜部の姿が映っていた。

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