ケース5 旧友⑩


 

「うわあああああ!!」

 

 無線から聞こえた本郷の叫び声。

 

 李偉は拳銃トカレフのマガジンを確かめると小屋に向かって走った。

 

 走りながらすでに嫌な汗が止まらなかった。

 

 

 聞き間違えではない……

 

 無線からはたしかにくぐもった男の声で「お前じゃない」という言葉が聞こえてきた。

 

 

 いったい今、この屋敷で何が起きているのか……?

 

 

 小屋までほんの百メートル足らずの距離だったが心臓は異常な音を立てていた。

 

 

 小屋に近づくと、暗闇の中に本郷が佇む影が見えた。

 

 

「本郷!!」

 

 李偉は彼の名を叫んだ。

 

 

 返事はない。

 

 

「本郷!!」

 

 とうとう本郷のすぐ背後に迫った李偉はもう一度彼の名を呼んだ。

 

 

「見たんだ……」

 

 消え入りそうなかすれた声で本郷はつぶやいた。

 

 李偉は本郷の脇から彼の視線の先を覗き込んだ。

 

 

 そこには沈黙した無線機が落ちている。

 

 

「何を見たんだ……?」

 

 李偉はあたりを警戒しつつも本郷の顔を覗き込んだ。

 

 

 李偉は息を呑んだ。

 

 

 本郷は口からだらしなく涎を垂らし、左右の黒目は別々の方向を向いていた。

 

 

「へへへ……見たんだ。見たんだ」

 

 

「おい!! 本郷!! しっかりしろ!!」

 

 本郷は相変わらずの様子でこちらの呼びかけには応えなかった。

 

 

 

 一体何があったんだ……

 

 

 

 李偉は本郷に肩を貸すような恰好で屋敷へと向かった。

 

 

 李偉に引かれるままに、フラフラと歩く本郷は李偉の肩で鼻歌を歌っている。

 

 

 

 みーちゃった……みーちゃった……

 

 くーろい人影みーちゃった……

 

 

 

 ひひひ……

 

 本郷は時々不気味な引き笑いをしながら歌い続ける。

 

 

 

 くーろい人影ぶらぶら揺れる……

 

 くーろい人影

 

 

 

「みー……ちゃっ……たあああああああああ!!」

 

 

 

 本郷は叫びながら李偉の顔を覗き込んできた。

 

 

 口を大きく開き満面の狂気を孕んだ笑みで李偉の眼を覗き込む本郷。

 

 その笑顔とは裏腹に、本郷の顔には死後硬直のように恐怖の跡が張り付いていた。

 

 

 笑顔で涙を流す本郷に、腹の底からおぞましさがせり上がってくる。

 

 

 骨の髄まで悪寒が走り、背骨までもが震え上がるのを感じる。

 

 膝が笑いうまく歩くことが出来ない。

 

 

 

 李偉は今まで味わったことのない恐怖に骨の髄まで蝕まれていた。

 

 何度も死線をくぐってきたにも関わらず、どうしようもなく怖い。

 

 

 銃弾で死ねばその後は無だと思っていた。

 

 恐ろしい拷問もいつかは終わりがやってくるだろう。

 

 

 しかしこれはなんだ?

 

 自分の認識の外にある世界を感じずにはいられない状況に李偉は戦慄した。

 

 

 本郷をこうした奴に捕まればどうなるんだ?

 

 俺もこうなるのか?

 

 死ねば開放されるのか?

 

 

 それとも死んでも……

 

 

 李偉はもう一度本郷に目をやった。

 

 本郷は恐怖に引きつった笑顔で涎と涙を垂らしている。

 

 

 それが死後の魂さえも縛り付ける邪悪な存在だと本能的に理解した時、李偉は屋敷の入口にたどり着いた。

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