ケース4 高橋家の押入れ⑨

 

 かなめが振り向くよりも先に、背後から押入れ穏婆の爛れた手が伸びてきた。

 

 目線のすぐ下に骨ばった老婆の手が見える。

 

 爪は血豆のようにどす黒く変色しており生臭いにおいを発していた。

 

 

 

 かなめは咄嗟に木戸を開けて和樹のいる空間に転がり込んだ。

 

 

「和樹くん!! 助けに来たよ!!」

 

 

 そう叫んだのも束の間、かなめの身体はすごい力で後ろに引き戻された。

 

 

 見ると押入れ穏婆はかなめの腰に結ばれた命綱を握っている。

 

 怪異は歓喜の表情を浮かべて、老婆とは思えない力でかなめを手繰り寄せた。

 

 かなめはなんとか抵抗しようと踏ん張ったが、抵抗虚しくズルズルと後ろに引きづられていく。

 

 

 

 命綱これを切れば逃げられるかもしれない……

 

 

 

 ふとそんな考えが頭をよぎった。

 

 

 老婆を見やると口元に唾液のを撒き散らしながら狂気に焦点を失った眼がぎょろりと光っている。

 

 口から吐き出す息は嫌悪を増長する酷いものだった。

 

 

 

 この状況から抜け出したい!!

 

 

 そんな気持ちがかなめの脳内に染み渡っていく。

 

 かなめは命綱ザイルに手をかけた…… 

 

 

 

 

「安心しろ。何処に消えても必ず見つけてやる」

 

 卜部の声が聞こえた気がした。

 

 

 かなめは命綱から手を離して大声で叫んだ。

 

 

「せんせええええええええ!!」

 

 

 

 唐突に怪異が引っ張る力を弱めた。

 

 

 見ると赤い命綱ザイルが老婆の四肢に絡みつき動きを封じている。

 

 

 

 

 

 かなめが中に入ってから、卜部は命綱から伝わる波動を観自在菩薩の経文に変換して唱え続けていた。

 

 繰り返される読経の音に、空間の距離感が曖昧になり、音は静謐へと姿を変える。

 

 

 

 音が在る故に、音が無い世界。

 

 色が産む、空の世界。

 

 

 

 やがてかなめに危機が迫ると、美しい虚空の世界にノイズが走った。

 

 

 

 それに合わせて卜部は真言を唱える。

 

「オン アロリキャ ソワカ」

 

 

 その結果が封印と成って押入れ穏婆の躰を縛り付けていた。

 

 

 

 かなめは卜部の意図をすぐさま理解した。

 

 慌てて押入れ穏婆に近づき、胸の中心に簪を突き立てる。

 

 簪は老婆の血を吸い上げると悲痛な低い唸り声を上げた。

 

 

 

「松……松は何処ぉだぁあああああ??」

 

 その声にかなめの身体は硬直した。

 

 獲物を探す血に飢えた恐ろしい声だった。

 

 

 

「そこかぁああああ!?」

 

 

 かなめは恐ろしい叫び声に思わず目を瞑った。

 

 静かになって恐る恐る目を開けると、そこには卜部が立っていた。

 

 

 

「よくやった。あとは任せろ」

 

 

 そう言って卜部は簪を抜き取ると、簪に付いた血を半紙で拭いコートの内ポケットに仕舞った。

 

 

 

 へぇへぇへぇ……

 

 ぜぇぜぇぜぇ……

 

 

 

 息も絶え絶え逃げようと藻掻く老婆の頭を、卜部は鷲掴みにして囲炉裏の側まで引きずって行く。

 

 

 卜部は囲炉裏の火に何かを投げ込んだ。すると青い炎が高く上がり、白檀の清浄な香りが辺りに漂った。

 

 

 

「もう化けて出てくるなよ」

 

 そう言って卜部は青い炎の中に押入れ穏婆を投げ込んだ。

 

 押入れ穏婆は断末魔の声を上げて煙のように消えてしまった。

 

 

 

「祓ったんですか!?」

 

 かなめは卜部に駆け寄った。

 

 

「いや。退けただけだ……」 

 

 卜部はそれだけ言うと和樹の閉じ込められた竹の檻の方に向かって歩き出した。

 

 

 

「よく頑張ったな坊主。もしあの飯を食ってたらお前は帰って来れなくなるところだった」

 

 

 卜部は和樹を竹の檻から出しながら言う。

 

 和樹は黙ってコクコクと頷いた。

 

 

 

 そんな和樹を卜部は担ぎ上げながら言った。

 

「帰るぞ亀!! 腹が減った」

 

「亀じゃありませんー!! かなめですー!! わたしもお腹ペコペコです!!」

 

 

「僕もぉー!!」

 

 

 そう叫んだ和樹に目を丸くした卜部とかなめは互いに顔を見合わせて笑った。

 

 

 こうして二人は和樹を連れて押入れ穏婆の領域から帰還するのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る