ケース3 旅館㊼
「先生!! 今のは一体!? ここは!?」
かなめは卜部にしがみついたまま尋ねた。
歪んだ視界が戻り、辺りを見渡すと、一行は見覚えのある祠の前にいた。それは卜部が再建した打ち捨てられた祠があった場所だった。
雨は止み、朝の気配が山の向こうに感じられる。
「あれは鈴木の守護霊だ。昔祓うのに失敗した」
卜部は辺りを注意深く観察しながら答えた。
「言っておくが守護霊と言ってもまったく崇高なモノじゃないぞ。むしろ相当業が深い。いわば怨霊の類だ……宿主と同化し、宿主に危険が迫ると現実を改変してでも危機を回避しようとする」
卜部は祠の前の空間を整えながら説明を続ける。
「鈴木の意識がある時は俺の施した術式で封印してる。だから本人が意図的に使うことはできない。それに……」
「それに??」
かなめと翡翠が心配そうに尋ねた。
「改変した出来事の規模に応じて代償もある……!!」
卜部は水鏡を顎で指して言った。
二人が水鏡に視線を移すと、彼の頭頂部が見事に禿げ上がっていた。
「無いもの有るようにしたんだ。有るものを失って当然だ。それで済んだのが奇跡だな。石で殴ったのが代償の一部として補填されたか……」
卜部は祠の前に簡易の神域を設定して結界を張った。
「おい亀。今から言うことをよく聞け」
「ここには古い龍神が住んでる。古龍の類だ。それを旅館の連中が呪術と呪物で押しのけてイヤシロチを奪った。加護を与えているのは呪物でなく龍神の気が満ちたこの土地そのものだ」
「呪物は龍神を近付けさせない用心棒みたいなもんだ。今からその龍神をここに呼ぶ。だが今の俺ではあの呪物の足止めが精一杯だ……」
かなめはゴクリと唾を飲んだ。
「あとは分かるな? お前が龍神を呼べ」
「そ、そんなの無理です!! 大体呼ぶってどうやって!?」
「呼ぶためにはこれを読め。龍神祝詞だ」
卜部は綺麗に折りたたまれた半紙を手渡した。
かなめはそれを開いてつぶやく。
「達筆すぎて読めません……」
卜部はそれを聞いてカッと眼を見開いた。
それとほぼ同時に、雨に濡れた山道を何かがこちらに近付いてくる気配がした。
「来たか……時間がない!! なんとかしろ!!」
「私が読んでかなめさんにお教えします!!」
翡翠が半紙を覗き込んで言った。
「そんな……わたし祝詞なんて読んだこともないし、聞いたことも殆どないです……作法も知らないし……」
「亀!! 作法よりも心だ。それにお前はここの龍神に好かれてる」
「え……??」
かなめは驚きの声を漏らした。
「お前、龍を見ただろ……?」
卜部の目がかなめの目を見据えた。
「あ……」
かなめは渓谷を泳ぐ美しい翡翠色の龍の姿を思い出した。
「もうこれに賭けるしか方法が無い。あまり長くは足止めできん。頼んだぞ……」
卜部は結界から出てコートを脱ぎ捨てた。
「虫退治だ……」
卜部は小刀で手の平を切りつけた。出血は思いの外少ない。
もう血を流しすぎてるんだ……かなめは自分の顔を両手で叩いて叫んだ。
「先生!!」
ちらりと卜部は振り返る。
「こっちは任せてください!! それと……」
「なんだ?」
「亀じゃありません!! かなめです!!」
そう言ってかなめは祠に向かって姿勢を正した。
「翡翠さん!! お願いします!!」
翡翠ははっきりとした声で龍神祝詞を読み始めた。
「たかまがはらにましまして」
「高天原に坐し坐して」
かなめがそれに続いてそれらしい抑揚をつけながら詠んでいく。
「てんとちにみはたらきをあらわしたまうりゅうおうは」
「天と地に御働きを現し給う龍王は」
「だいうちゅうこんげんのみおやのみつかいにして」
「大宇宙根元の御祖の御使いにして」
心を込めて龍神を思い描きながらかなめが朗々と詠み上げていく。
その声を背後に感じながら、卜部は自らの血を代償にして穢を祓う清らかな気を練り上げていた。
一歩進むたびに虫達は蠢神の重さに耐えきれずにブチブチと潰れて毒液を撒き散らした。
「頭が高いぞ。虫けら……ここは聖なる場所だ」
卜部はそうつぶやくと地面に
それは見えない枷となって蟲の身体を縛り、その頭を地に押さえつけた。
奇声をあげて伸ばした腕も千切れて地面に張り付いた。
卜部はちらりとかなめに目をやる。
かなめと翡翠はぴったりと息を合わせて祝詞を詠唱していた。
「一切を産み一切を育て」
「萬物を御支配あらせ給う王神なれば」
「一二三四五六七八九十の十種の御寶を己がすがたと変じ給いて」
「自在自由に天界地界人界を治め給う」
「龍王神なるを尊み敬いて」
「眞の六根一筋に御仕え申すことの由を受け引き給たまいて」
「愚かなる心の数々を戒め給いて」
「一切衆生の罪穢の衣を脱ぎ去らしめ給いて」
「萬物のものの病災をも立所に祓い清め給い」
「萬世界も御祖のもとに治めせしめ給へと祈願い奉ることの由を聞こし食し」
「六根の内に念じ申す大願を成就成さしめ給へと」
「恐み恐みも白す」
静寂が訪れた。
身動きの取れない蠢神は身体が崩壊するのも無視して立ち上がりつつあった。
潰れた虫の体液と粘液を散らしなが起き上がり咆哮を上げた時だった。
どっ……
山が震えた。
蠢神を含め、その場にいた全員が横にそびえる山の方を見た。
刹那、山は砕けながら怒涛の濁流となって呪物に襲いかかった。
「龍だ……」
かなめは思わず声に出した。
荒れ狂う龍は神の真似事をした穢の化身を赦しはしない。
その牙で獰猛に喰らいつき、爪で引き裂き、轟くような息吹で穢を散らしていく。
土砂と岩石と木々の奔流に飲み込まれた蠢神は、打たれ、千切られ、流され、終いには谷底の濁流に呑みこまれ、姿が見えなくなった。
「終わったな……」
卜部は谷を覗き込みながらつぶやいた。
ちょうど山の上に朝日が顔出し清らかな光が差しこんだ。
長い夜が明けた。
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