ケース3 旅館㊻


 

 千代はよろよろと卜部の縛られていた場所に向かった。

 

 

 

 ふと足下に目をやり愕然とする。

 

 

 

 地面には足で書かれたの四文字。

 

 

 

「殺しまくった挙げ句、元の鞘に戻るのか……?」

 

 

 

 その言葉が脳裏を埋め尽くす。

 

 

 再び強い目眩と吐き気に襲われた千代は壁に手を突き嘔吐した。

 

 

 

 胃から出た内容物は卜部の残したツグナイの文字を覆い隠すように地面に広がった。

 

 

 

 

「千代ちゃん……!!」

 

 

 慌てて百々が駆け寄ろうとする。

 

 

 「そこを動くな!!」

 

 

 

 女将の怒声が響いた。

 

 

「千代!! 今からあの霊媒師を殺しに行くわよ!! こっちにいらっしゃい!!」

  

 

 坂東も百々も女将の言葉に耳を疑った。

 

 

 顔には女将に対する恐怖と軽蔑の色が浮かび上がっていく。

 

 

 

「あら? そんな顔してどうしたの二人とも?」

 

 

 女将は二人に笑いかけた。

 

 

「これはね、千代ちゃんのためなのよ? 今あいつらが逃げたら、千代ちゃんは殺人犯として捕まるのよ?」

 

 

  

「千代ちゃんが殺人犯なわけが……!!」

 

 

 声を荒らげた百々を女将が制して言う。

 

 

「確かに……怪異が殺した変死体は千代の罪にはならないかもね。でも夏男さん……あの人はどうなったのかしら? ねぇ?」

 

 

 

 女将の唇がいやらしく嗤う。

 

 

 千代は俯いて何も答えなかった。その表情は険しく唇を強く噛み締めてつま先を睨みつけている。

  

 

「千代ちゃん……」

 

 

 百々はそこから先の言葉が見つからず口ごもってしまった。千代はそんな百々を見てさらに悲痛な表情を浮かべた。

 

 

 

 

「千代が捕まらないためには、あいつらを生贄に捧げて全部無かったことにするしかないのよ……」

 

 

 

 女将の表情と声が無感情で冷酷なものに変わった。

 

 

 

 百々と坂東の思考は黒い呪詛の言葉で締め上げられ、視野は狭まり、女将の声以外に何も聞こえなくなっていく。

 

 

 

「さあ! そんなになってもまだ動くでしょ!? 御神体を連れてあの男を殺しに行くわよ」

 

  

 

 そう言って出口に向かう女将の後ろから千代の声がした。

 

 

 

「もうひとつ方法があるわ……」

  

 


「あら? 何かしら? これだけ迷惑をかけておいて、まだわがままを言うつもりなの?」

 

 

 振り返った女将が腰に手を当てて呆れたように言い放つ。

 

 

 

「その態度、その言葉……」

 

 

 千代はボソボソとつぶやいた。

 

 

「時間がないのよ!? 早くして千代ちゃん!!」

 

 

 

「いつも私の罪悪感を刺激する……自分が無価値に思えてくる……!!」

 

 

 

 千代は目を充血させて母親を睨みつけた。

 

 

「もうたくさんよ……霊媒師を殺しても……私は死ぬまであんたに支配される……」

 

 

 

 

「私はもう……誰にも支配されない!!」

 

 

 

 千代は蠢神を伏し拝んで叫んだ。

 

 

 

「あの女を殺してください!!」

 

 

 蠢神の下半身は女将の前まで一息に跳んだ。すると千切れた断面から蟲の大群を湧き上がらせて女将に襲いかかろうとする。

 

 

 

「ふんっ!! あんたの考えることなんてお見通しよ!!」

 

 

 

 千鶴は懐から薬師如来の札を出して蠢神にかざした。

 

 

 御神体はそれ見て怯むと身じろぎした。

 

 

 千鶴はきつい薬草の臭いがする液体を怯んだ蠢神にぶちまけた。

 

 

 

「穢れし蟲よ!! 汝の住処に戻れ!!」

 

 

 

 両手で酉の印を結んで千鶴は叫んだ。

 

 

 

 蟲虫蠢神は声に応じて一歩引き下がった。

 

 

 しかしそれ以上動かない。

 

 

「どうしたの!! 戻りなさい!!」

 

  

 千鶴があげたヒステリックな声に反応して蠢神は千鶴の方に振り返った。

 

  

 

「ひぃ……!! なんで!? どうなってるの!?」

 

 

 

 狼狽する千鶴の眼に写ったのは自身の手のひらに出刃包丁を突き立てる娘の姿だった。

 

 

  

 

「蟲虫蠢神様……端女の血と肉と苦痛をもって……その女を殺してください……殺して!!」

 

 

「私は百々くんと幸せになるのよおお!!」

 

 

 千代の叫びに呼応して御神体の下半身はずぶずぶと崩れ去った。

 

 

 崩れた御神体は無数の蟲に姿を変えて女将の身体を蝕んでいく。

 

 

 叫ぶ口に侵入し、耳鼻に潜り込み、全身の穴を埋め尽くす。

 

 

 

 内から、外から、肌を食い破る。

  

 

 

「あだ、あだだだだだだだだ!!」

 

「耳がががががが!! 脳味噌から音ガガガガガ」

 

「カサカサが!! 蛾蛾蛾蛾蛾!!」 

 

「入ってくるるるるるっっ狂来るくるるううう」

 

「嫌嫌嫌嫌ぃい嫌嫌嫌嫌ぃ嫌嫌い嫌い嫌い」



「痛い遺体居たい異体ぃ痛痛痛い痛いぃい」

 

 

 

 やがて悲鳴は消えて、肉の滴りも消えて、骨の軋みも消えて……

 

 

 

 蟲のざわめきも消えた。

 

 

 

 手から血を流してうずくまる千代に百々と坂東は駆け寄った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る