ケース3 旅館㊷

 

 

 ゴツン……ゴツン……ゴツン。

 

 

 

 怪異は頭を打ち付けるの止めると、ゆっくりと顔を上げた。

 

 

 奈落の底を思わせる真っ黒な二つのあなで卜部を見据える。

 

 

 

 

 ひゅうぅううぅううぅう……

 

 

 

 

 電線を通り抜ける風切り音のような切ない音が部屋に響く。

 

 

 それが怪異の息遣いだと気づいてかなめは総毛立つ。

 

 

 

 息をしている……このような姿になってもこの怪異は息をしている……

 

 

 

 生者と死者の境界線はどうやら呼吸ではないようだ。

 

 

 かなめの瞳に憐れみの色がよぎった。

 

 

 その時だった……

 

 

 

「えっ……?」

 

 

 

 怪異はそれに呼応するかのように眼孔からポロポロと白い涙をこぼした。

 

 

 溢れた涙は畳の上でモゾモゾと動いている。

 

 

 それは真っ白な蛆だった。

 

 

 

「ひぃぃい……」

 

 

 

 に同情は無用だとかなめの本能が警鐘を打ち鳴らす。

 

 

 

 孔だけになった暗い瞳は、まるで嘲笑うかのようにイビツに歪み、怪異は黄ばんだ歯をむき出しにして咆哮をあげた。

 

 

 

 

 かなめが恐怖に飲み込まれそうになった時だった。

 

 

 卜部はかなめを背後に隠した。

 

 

 

「タバコもう一本吸っとけ」

 

 

 

 

 そう言って卜部はビニール傘に自らの血を垂らしながら前に出た。

 

 

「|και ηλλαξαν την δοξαν του αφθαρτου θεου εν ομοιωματι εικονος φθαρτου ανθρωπου και πετεινων και τετραποδων και ερπετων《カイ エイッラクサン テェィン ドクサン トゥー アフサルトゥー ゼウー エン オモイオゥマティ エイコノス フサルトゥー アントロゥプゥー カイ ペティノウン カイ テトラポドォゥン カイ エルペトォゥン》」

 

 (朽つることなき神の榮光を易へて、朽つべき人および禽獸・匍ふ物に似たる像となす)

 

 

 卜部は唱えながら自らの血が付いた傘の先を怪異の胸へと突き立てた。

 

 

 

 怪異は傘を掴んで抵抗したが卜部はそのままさらに深く傘を突き刺していく。

 

 

 

 怪異はぬめぬめした皺だらけ身体から蛆を撒き散らした。蛆は卜部の顔にも飛び散ったが卜部は表情一つ変えずに怪異を睨みつけている。

 

 

 

 それを見た怪異は天井を見上げて口から無数の黒くて大きな蝿を吐き出した。

 

 

 

 真っ黒な蝿の大群が唸りを上げて部屋に満ちていく。

 

 

 

 

「かなめ!! 煙!!」

 

 

 

 我に返ったかなめは慌ててタバコの煙を卜部に吐きかけた。

 

 

 

 すると蝿は煙を嫌って卜部から遠ざかった。

 

 

 

「|διο παρεδωκεν αυτους ο θεος εν ταις επιθυμιαις των καρδιων αυτων ις ακαθαρσιαν του ατιμαζεσθαι τα σωματα αυτων εν αυτοις《ディオ パレドゥケン オ ゼオス エン タイス エピトゥミアイス トォゥン カルディオゥン アウトォゥン エイス アカサルシアン トゥー アティマゼッサイ タ ソゥマタ アウトォゥン エン アウトイス》」

 

 

 (この故に神は彼らを其の心の慾にまかせて、互にその身を辱しむる汚穢に付し給へり)

 

 

 

 卜部はさらに深々と傘を怪異に突き刺した。

 

 

 

 

「もういい……元の姿に還れ……」

 

 

 

 かなめには卜部がそうつぶやいた気がした。

 

 

 怪異は再び、眼孔から真っ白な蛆をポロポロと溢れさせながら最後の咆哮を上げた。

 

 

 怪異の身体に残された最後の皮とわずかな肉を溢れ出した蛆が食い尽くした。

 

 

 蛆はそれでも飽き足らず、やがて共食いを始めると、最後の一匹になるまで喰いあった。

 

 

 無数の蝿はいつのまにかどこかに消えており、部屋には一匹の蛆と真っ白な骨が残った。

 

 

 

 

 卜部はその蛆をつまみ上げて茶色のガラス瓶に封じた。

 

 

 

 

「蠱毒の王だな……こいつは」

 

 

 

 かなめは卜部の言葉にゾクリとする。

 

 

 卜部はそれをコートの内ポケットに仕舞った。

 

 

 かなめは奥の襖に目をやる。これ以上の怪異がこの奥に待ち受けているのかと思うと足がすくみ身体が震えた。

 

 

 

 かなめが震える身体を必死に抱いて押さえつけていると、卜部はフラフラした足取りで襖へと歩いていく。

 

 

 

 襖に手をかけた卜部がぐらりと傾いた。

 

 

 

 咄嗟にかなめの身体が動いた。

 

 

 肩を貸すような形でかなめが卜部を支えると、驚いた顔をした卜部と目が合った。

 

 

 

 

 卜部はふっと笑ってから奥へと続く襖を指さした。

 

 

 

「行くぞ……亀」

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