ケース3 旅館㊱
階段に向かう途中で卜部はふと振り返り、反対側の廊下の闇に目を細めた。
「どうかしたんですか?」
かなめも同じように闇の奥に視線を送る。微かに闇が動いたような気がした。
「いや……何でもない……行くぞ」
階段に差し掛かるとそこには目を覆いたくなるような光景が広がっていた。
無数のカタツムリやナメクジ、そして名も知らぬ巻き貝が階段や手摺、壁に至るまでを覆い尽くしている。
「先生……!! どうしましょう……??」
卜部は苦虫を噛み潰したような表情で踊り場を睨みつけている。
かなめがつられてそちらを見上げるとそこには一人の中居の姿があった。
かなめはその仲居に見覚えがあった。何度か館内で見かけたその女性はもはや見る影も無く、陥没した頭部と眼孔から出入りするカタツムリがおぞましい、怪異へと成り果てていた。
「俺たちも死んだらあれの仲間入りだ。この呪いは伝染する……」
卜部は抑揚の無い低い声でそう言うとコートの内ポケットから黒い革張りの本を取り出した。
古い革の背表紙はボロボロに劣化しておりあちらこちらから細かい付箋がはみ出している。
卜部は乾いた音を立てて項をめくり、目当てのページを開いくと開いた本を左手で掴んだまま右手の親指の先を噛み切った。
「先生!!」
驚いたかなめが声を上げるが卜部はかなめを制して血を注ぎ出しながらつぶやいた。
「|カイ コゥリス アイマテックシアス ウー ギネタイ アフェシス《もし血を流すことなくば、赦さるることなし》……」
卜部が唱え終わると床に落ちた血が赤い蒸気となって霧散した。
卜部はパタンと音を立てて本を閉じるとコートの内ポケットに素早くそれを仕舞った。
「おい亀。急いで渡り廊下に戻って黒い虫を一匹取ってこい。戻ってくる時に扉は開けたままにしておけ……」
かなめはコクコクと頷いて渡り廊下に走った。卜部は中居だった怪異を睨みつけて何なやらブツブツと唱えている。
渡り廊下への扉を開くと、すぐ足下に黒くて首の長い昆虫が歩いていた。
「うううう……」
かなめは顔をしかめながらもそれを摘み上げると扉を開け放ったまま卜部のもとに走った。
「どうぞ!!」
卜部は虫を受け取ると嫌そうな顔をしながらかなめに言った。
「向こうを向いて目をつぶってろ……」
「先生は大丈夫なんですか!? 陰の気を使うつもりじゃ……」
「使わん。いいから言う通りにしろ」
かなめは言われた通りに卜部に背中を向けて目を瞑った。
「汝の呪を我が身と成して使役する……」
パキ、パキ、パキ……
卜部がつぶやいた後に不吉な音と何かを飲み込む音が聞こえた。
その直後大量の虫の足音が渡り廊下の方から聞こえてくる。
「目を開くなよ」
かなめは強く目を閉じたまま頷いた。
カサカサという足音はかなめと卜部を素通りして階段の方へと向かっていった。
階段からはおぞましい気配と異臭が漂ってくる。
音もなく逃げ惑う軟体動物の悲鳴と蹂躙する甲虫の歓喜の叫び。
それは程なくして静けさに変わり卜部の歩く乾いた音がコツンコツンと闇の中に響き渡った。
卜部は中居の前に立つと両目のカタツムリを掴んで引き剥がした。
中居は金属音のような叫び声を上げてバタリと後ろに向きに倒れるとそのまま動かなくなった。
「もういいぞ」
卜部の声でかなめが目を開くと、殻だけになったカタツムリの亡骸が一面に転がっていた。
かなめが視線を踊り場に移すと足下に横たわる中井の亡骸を見つめる卜部の姿があった。
卜部はかなめの視線に気づいて顔を上げるといつも表情に戻って言った。
「行くぞ亀!! もたもたするな!!」
「亀じゃありません!! かなめです!!」
二人は階段を登り件の部屋の前にたどり着いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます